中央線「サブカルチャー・ライン」

中央線 / Chuosen

サブカルチャー・ライン


概要


中央沿線が、サブカルチャー色の強い空間になったのは一口に説明することはできず、各街ごとに解説する必要がある。

 

たとえば、中野にある「中野ブロードウェイ」が、オタク・サブカルチャーの聖地になったのは、大手マンガ古書店「まんだらけ」が、それまで住宅施設を兼ねた商業住宅複合施設であった中野ブロードウェイ内に、どんどん店舗を拡大させて、たちまちオタク色に染め上げてしまったのがきっかけだ。それ以降、秋葉原とは色が異なるオタクショップ、具体的には、ゲーム・パソコン・アダルト以外のジャンルの多くは、今でもこぞって中野ブロードウェイ内に出店している。「すみわけ」が意識的に行わている。

 

中央線沿線全般にわたって古書店が多いのも理由がある。昭和のはじめに、阿佐ヶ谷や荻窪に井伏鱒二などの文士が、多数移り住んでたのがきっかけだ。昭和のはじめ、文学青年の間では都心から離れて住むことが流行しており、中央沿線には三流作家が、多数移ってきたのだという。その後、文学青年や作家の交流が中央線を中心に活発になり、次第に文化人や知識人が自然と集まってくるようになった。


ちなみに当時、下北沢方面では左翼作家が移り、大森方面には一流作家が移っていたそうだ。また、マンガ家も多数、阿佐ヶ谷や吉祥寺などに住んでいる

 

高円寺や吉祥寺が、今日、ロック音楽の街として栄えているのは、60年代のカウンタカルチャー時代に発端といわれている。60年代は新宿が若者の街の中心地だった。戦後、海外から輸入されたカウンターカルチャーの波がもろに押し寄せていたのだ。だが、学生運動やヒッピーを新宿から押し出す動きも始まった。そうした状況の中で、カウンターカルチャーの洗礼を受けた若者たちは、新宿を去り、高円寺、吉祥寺、国分寺などの中央沿線を西に移動し、そこで集団で生活するコミューン的なものを形成していった。当時は、物価や家賃が安かったのも若者を引き寄せた大きな魅力だ。そして、ライブハウス、音楽スタジオ、中古レコード、そしてロックな貧しい若者たちのファッションをサポートする古着など屋が次々と立ち並びサブカルチャーの街へと発展した。

 

とても商売にならないような、非商業的でユニークな店が多く立ち並ぶのは、やはり中央沿線に美大が集中していからではないだろうか。八王子には多摩美術大学、東京造形大学、国分寺には武蔵野美術大学、杉並区には女子美術大学がある。美大だけでなく普通の大学も多数立ち並んでいる。神保町に古書店が多いのは、当然ながら、大学や専門学校が集まっており学生街としての一面も持つためだ。