138.文化的階層社会

「文化資本」には、「家庭」において獲得された趣味や教養やマナーと、「学校」において学習して獲得された知識、技能、感性の二種類がある。「気がついたら、もう身についていた」ものであり「気がついたら、身についていなかった」人は、すでにほとんど回復不能の遅れをとっている。

 

 芸術の鑑識眼、美食について、礼儀作法などの文化資本が身体化されている人と、そうでない人との間には、歴然とした社会的差異が生じているのである。家のギャラリーでセザンヌや池大雅を見なれて育ったので「なんでも鑑定眼」が身に付いてしまった、などというのは前者である。「家庭で自然に身についた文化資本」と「学校で努力して身につけた文化資本」では、ありようがまるで違う。


そんなことはない、芸術作品の鑑賞能力のようなものは、成長したあとに学校教育で学んだ場合でも「よいものはよい」と判断に違いが出るはずはない、とおっしゃる方はいるかもしれない。しかし、残念ながら、「よしあし」の判断には差はなくても、「享受」するときの態度にはっきりした違いが生じるのである。自然に身についた場合は「余裕」「ゆとり」があるのである。その「ゆとり」とはまず「無防備」というかたちをとる。芸術作品を前にして「ぽわん」としていられること、この余裕が「育ちの良さ」の刻印なのである。

 

余裕のある人は、平然と「知らない」と言うことができる。なぜなら、その人にとって、芸術作品についての鑑賞眼は、一度として努力して「獲得すべきもの」として意識されたものではなく「好き」「嫌い」「ほしい」「ほしくない」という皮膚感覚レベルで享受されるものである。
その年代や流派や技法や市場価値についての「一般的知識」を参照することなしに、感覚に基づいて、「その良否」を「あ、これ好き」とか「こんなの、要らない」とか断定的に言うことができる。

反対に、成人後に芸術鑑賞力を獲得しようと「努力」する人の場合は、決して口にできないのは「知らない」という言葉である。「知らない」と発することが、その人の「本来の所属する階層」を暴露してしまうことを恐れるからである。また、「知識」を「経験」よりも優先させる傾向がある。作品について語ることを優先させ、感覚を犠牲にするひとが、成人後に芸術鑑賞力をつけようと努力している人の「馬脚」なのである。

 

年収は本人の努力でいくらでも変わりうるけど、子どもの頃から浴びてきた文化資本の差は、20歳すぎてからは埋めることが絶望的に困難である。しかしそのような「成人して以後はキャッチアップ不能の指標に基づく階層差」がいま生まれつつある。深刻な帰結は、親が高学歴・高年収であり、幼少時から豊かな文化資本を享受してきた「少数の子どもたち」は成長したあとも「メンバーズオンリーの閉鎖集団」を作るだろうということである。(だって「他の人たち」とは「共通の話題がない」んだから、しかたがない)。


階層社会では、それぞれの階層が「棲み分け」をしていて、住むところも、出入りするところも、食べるものも、着るものも、つきあう人も、話題も、交差することがない。日本は明治以来150年間、それほど階層的な社会ではなかった。むしろ、世界にも例外的な均質的社会を実現した。だが私たちの社会がいまゆっくりフランス的な階層社会に向きつつあるのは、おそらくある種の歴史的な「補正」の作用が働いているせいだろう。(出典元:街場の現代思想 内田樹)