BLACK MAGIC THE MOVIE IN BALLI 2

●優れた舞手がバリにはいなくなってきたのでしょうか
壱岐:かつては、バリの人たちの心の状態が宗教に対して純真だったというのもありますね。今は、近代化してテレビが入ってきて、バリの人たちも世の中を醒めて見るようになってきています。要は世界を知ってしまったから、ランダそのものをジャンル分けし始めたというか。タワレコに並んでいるCDと同じで、どこか頭の中でランダというジャンルを整理しているんです。で、情報の中で「あ、これはいい、これはダメ」って選択するようになって。昔はもっと選択の余地がなくて、目の前にホンモノがあるから。今はそういう儀式のある時間に彼女とイチャイチャしようかなとか、いろいろ選択肢が出てきて。だから個人の自由は確かに生まれてはきているのだけれども、本当の意味で人々が浄化されたり、営みを健やかにするための機能は崩れ始めている。時の流れだろうとは思うのだけれども。


●近代化による高度情報社会がランダのような大きなシステムを壊している可能性はありますね。それは、日本にも通じる部分があるかもしれませんね。
壱岐:今の日本も明るいイメージがないのもそうなのかなと。日本には浄化の場がなくて、バリと比べるとプスプスしているような気がして。たまの野外ライブや好きな本を読むぐらいで、本当の解放にはいたっていない。ブスブスと不燃物が貯まって、最後には煮詰められた殺意が溢れ出て・・・まだ、バリではヒンドゥの中のランダが悪の代わりとして、殺人を犯す代わりにみんなの業を受け止めてくれるけど、今の日本はネットの有名人がウェブ上でランダの代わりになって怒りや悪意をぶつけられたりしますね。違うのは、バリの舞手は、ランダっていうのがどんなに恐ろしい役割のモノか知っているから、悪意の受け止め方がどっしりしている。それで動揺したり、泣いたりしない。準備が整っている。でも、日本の場合は、他人の悪意や怒りを受け止める準備ができてなくて、急にランダ的な役割を担わされてバッシングされるから、それで閉じこもったり、動揺したり、壊れたりしてしまうのでしょうね。だから僕はランダを見て、これからの日本は、こういう悪意や怒りを正面から受け止めて、浄化させる環境やシステムが必要なんじゃないかと。悪を受け止めて、悪を受け止める文化、人格とか構造とか。


●:現在の日本のアーティストでランダのような魅力のある表現を発している人はいるでしょうか?
壱岐:僕は最近、三上寛さんっていうミュージシャンを追っていて、何度ライブに行っても、歌う風景が全く揺がないんです。自分を表現に突き動かしているだろう原風景に、生命が漲っているように感じます。表面的な興味でやっていない。バリの芸術家と通じますね。本当に自分というものだけで勝負している、稀有な方だと思います。僕は今の寛さん、すごい好きで、ランダに近い、人の怒りを涙に導くようなかんじがあると思います。寛さんの歌う原風景に、幼い頃の自分の風景が深く共鳴している・・・そういうのを感じれて、寛さんに関われました。あと既に高名なジャズ演奏者で菊池成孔さんという方がいらっしゃるのですけど、あの人のすごいなと思うところは、外からの悪意を非常に楽しんでいるように見えるところです。悪意を麻薬のように扱いながら音楽や言論を展開して、非常にしたたかというか、だから嫌いな人もいるだろうけど、僕はあの人のこと凄いなと思って。あの人もさんざん悪いことをしてきたといってますから、今現在あの人が必要とされている社会の状況を見ると、やはり悪というのは悪を救えるんじゃないかなと思ったりします。表現とか以前の表現性のところで、悪を通過できるかが問題というか。日本でこれから必要とされる本物の表現者って、たぶんそういう人かもしれません。悪と心中出来る人が必要なのかなと。


で、寛さんをきっかけに、ミュージシャンを撮るようになって、同じ年齢ぐらいで、円人図というバンドなんですが、アメリカ帰りなんですよ。バークリーっていう優秀な音大を出ている人たちで、演奏技術は非常に優れているのですけれど、全然気取ってなくて、技術より、まずグルーブを感じれるかを大切にしている。自分の心と、空気と、風景で音楽をやってる。そういう人たちはやっぱりいい音出しているなあと。聞いているうちに客が踊っているというか、で今度彼らの写真を撮りましょうってことになって、近い感性を持っている人たちと少しずつかかわるようになってきたから、なんか一個、いい動きになってくる感じがあります。


●:そのようなムーブメントはこれから近代化が熟した世界各地で起きそうなかんじもしますね。
壱岐:アメリカのアングラフォークのアイコンになっているディヴェンドラ・ヴァンハートという方がいて、その人が60~70年代に生まれたアシッド・フォークを積極的に世の中に紹介して、それが一つのムーブメントになって、アメリカやイギリスでフリー・フォークっていうジャンルが生まれています。アシッド・フォークやフリー・フォークがまた、聴いていると自分の中の死に対する感覚をまざまざと目覚めさせられて、段々と死にたくなるような音楽ばっかりなんです。でも、そういう本質的な音楽ってお金になりにくいですよ。それを若い人たちが必要としていて、ブームになっているというのは、世の中がそれだけ追い詰められているのだろうと思う一方で、可能性も感じます。フリー・フォークをやっている人たちの中には、コミュニティを作って共同生活をして、音楽をひっそり作って・・・で、それが売れているって状況が一方であって。昔だったらありえなかったシステムが、非常に追い詰められているから時代だからこそ必要とされているのを見ると、何か作りたい人は今が頑張る時期ではないかなあと。でも結局、自己が折れたら表現も終わりです。今は折れやすくなっている人が多くなってきているかもしれない。寛さんにしても、多分、長い長い不遇の時期を経てきた方なんですけれども、今でも歌い続けているじゃないですか。心の風景が生きている。今だとやっぱり、僕の同級生でも風景を忘れかけている人が多いですね。そういう意味で言うと、業が薄くなってきているのかな。地元に対する嫌悪と愛情が。


●確かに、地方独特の業は近代化によってなくなってきましたね。
壱岐:ファミレスが増えて、大型マーケットが増えて、写真をやっている友人がある地方都市に子どもの学校の撮影に行ったらしいのですけれども、みんな同じ顔しているのが凄い怖いと。たぶん、食の供給とかもみんな同じで、見る映画も町の映画館、で、同じ情報と同じ食べ物で、知らないうちに段々悪が許されなくなってくるとすごい怖いなと。


●業を落とす文化が必要であることは間違いないのに、業を落とす文化がなくなるだけなく、業を落とす文化を作る土壌さえもなくなってきているのは、すごい恐怖感をかんじますね。
壱岐:僕が感じたのは、人間ってもうすぐ終わりなんだろうなって。近代化っていうのも、人類が滅亡するための、表向きはポジティブに見える手段であって。そのなかでI Dewa Made Rai Mesi氏は古の感覚を復興しなければならないと思っている人なんですよ。古い感覚こそ大事で、大事にしないと人間同士いがみあうよと。それは真理を得ていて、近代化のもたらした「新しきは善」っていう価値観は、人の感情と照らし合わせるとそれほどの価値もなくて、何百年と近代化は進められてきたのに、根本的な人の喜怒哀楽の感情って変わってないわけじゃないですか。近代化によって「新しい」に対する都合のいい価値が生まれてくると、段々それが感情のような扱いをされてきて、新しいということにあまりとらわれると、そもそも新しいと感じる感情すら麻痺してしまうというか。氏のいう古の感覚というのは、人間の普遍的な尊厳のことをいっているのだと思います。


僕らの世代って、ギリギリ日本の原風景が残っている世代です。僕は自分の原風景を映像に投影して、見る人の原風景を目覚めさせたいと願っています。デトロイトテクノなんかも、貧しい工業地帯から生まれてきたのですけど、肉声のような電子音を聴いているとやはり自分の原風景をどこかで感じずにはいられないですね。だから、自分探しって言葉は風景探しなんじゃないかなと思って。これは深い問題で、すぐに解決できません。そもそも自分が育った風景そのものが失われつつありますから。それで今、空気が読めないといわれてる子どもたちを撮っているのですけれど、話すと風景が1人1人濃いのですよね、個人、個人。そこでその濃さゆえに、周りからすごい怖がられるのですよね。一方でそこには羨ましいという感情が深くにあって、やっぱり、そういう強いものを持っている子って、いじめに遭う理由は、周囲からの羨望もあると思う。その子、まだ小学生なのに「人間ってバカだ」って言うんです。その言葉をいわせるこの社会はなんだって。でも、その言葉の裏を手繰っていくと、やっぱりそれを言わせるのは彼が育った幼い頃の、一際鮮やかな風景の濃さ故なんだ、というところにたどり着いて。僕はそういう人は信用できるなと思っています。難しいことをいってるわけではないですけど、言葉の裏に真の風景が見えますよね。嘘を言っていないなと。これから個人の表現は段々必要とされなくなってくるのだろうと思います。彼も彼女も、悪も善も、全て同じ一つの質のものになっていく流れを感じます。でも、そこで戦う必要はあると僕は思うんです。