快楽原則と未成年 バルテュス

 そのごく初期の時代から、バルテュスはほとんど一貫して、おのれのインスピレーションの根底にある1つのテーマを追求してきた。それは何かといえば、幼年期から青春期にいたる過渡期に特有な、秘密めいた性的オプセッション(固定観念)である。


 バルテュスは、少年と少女の野性的な幼い恋にだけ興味をもち、彼らが成長してしまえばもう彼らに対する興味を失ってしまう。善悪の彼岸にある、少年期の輝かしい自由の王国だけが、この画家を魅するのであって、分別のついた、社会の礼儀作法や階級意識の掟に矯められた、大人になった彼らには関心がないらしいのである。

 

 さてここで、「成長してしまえば興味を失ってしまう」という言葉から、どのように感じるだろうか。エロティシズムや大人の汚い世界を覚えた子どもにはもう関心がないということかな、と想像する人が多いのではないだろうか。実はバルテュスはまったく逆なのである。

 

 バルテュスの絵にあらわれる人物たちは、いずれも、自分ひとりだけの放心した状態に閉じこもり、沈黙の厚い壁によって、他人とのあいだの魂の交流を断たれているかのごとき人物である。カーテンをひいた薄暗い部屋のなかで、少女たちはヒステリーの発作のように、弓なりに身をそらせたり、夢をみながらスカートをめくりあげたりしている。あてどのない思春期の性の衝動のごときものが、バルテュス作品には満ち溢れている。


 バルテュスは大人の世界が理性の支配する世界、善の世界だとみなす。これに反抗する子どもは、暴力や悪や無秩序の世界に加担せざる得ない。残酷という子どもの世界の真実は、理性と善の支配する大人の世界を破壊しようとする、彼らの無意識の欲求のあらわれと見るべきである。子どもたちの野性的なエロティシズムやサディズムも、このような心理的基盤の上に成り立っている。衝動的な欲望と破壊の衝動は、純粋な遊びなのであって、この遊びこそ、労働を基軸とした大人の世界をおびやかすものなのだ。


 もう1つ、バルテュスの世界を特徴づける顕著な傾向は、その描かれた人物たちの姿態に見られる、運動間の束の間の欠如であろう。瞬間を永遠化しようとする不可能な欲求に憑かれているのごとくである。運動の欠如不在の感覚、これらがバルテュスの絵画的世界の特徴である。


 瞬間への偏愛は、やはり子どもの志向の根本的なものである。つまり、大人の世界、計算による理性の世界が、本質的に未来への配慮を前提としているのに対して、子どもの世界は、将来への配慮をまったく欠いた、計算なしの瞬間の世界だということである。

 

 フロイトの用語をもってすれば、大人たちの世界は「現実原則」の世界、子どもたちの世界は「快楽原則」の世界、そして子どもは成長するに従って、徐々に現実原則を学び、少年時の自由の王国を少しずつ締めだしてゆく、というわけである。


 なぜかといえば、少年時の崇高な王国は、現実原則の目から見れば、悪そのものだからである。いつまでも大人になろうとしない人間は、社会から相応の罰を受ける。無責任な、汎エロス的な子どものままの状態でいつづけることは、悪だからである。


 しかし、この悪が、わたしたちにとって本質的に望ましいのであり、必要なものでないとは、誰にもいえない。この失った必要な悪を回復するのは、芸術の機能であり、芸術家は多かれ少なかれ、進んで禁制を破る子どもでなければならない、ということにもなろう。


 本来、エロスは瞬間の世界、子どもの世界に属するものであり、子どもは悪である。子どもは善であり、まだエロスを覚えていない清潔なものとみなす世間一般の考え方とは逆なのである。バルテュスの絵は、そんな本来の子どもの真実を暴いたよう作品である。(参考文献:幻想の画廊から 澁澤龍彦)