「溶ける魚」 アンドレ・ブルトン

「溶ける魚」は、1924年にブルトンが「シュルレアリスム宣言」とともに刊行した作品であり、シュルレアリスム文学の代表的な事例ともいえる。


語られる内容は、ブルトンの記憶の底から自由に噴出してきたイメージが奇想天外なストーリーを展開している。現実では動くはずのないもの(城、街灯、鏡)が動き出し、語るはずのないもの(スズメバチ、暖房装置、扉)が語りかけてくる。その当時彼が住んでいたパリの界隈の光景や、歴史上の出来事、伝説、あるいは過去の詩人たちの名句などが、まさしく自由連想風に想起され、重ね合わされ、変容して、流れていく。


作品の前半は、作者ブルトンの抱えていた、終わりへの願望が影響しているのかもしれない。自分を終わらせたい、詩を終わらせたい、世界を終わらせたいという「死の願望」反復強迫として働いている。「溶ける魚」という題名からしてそのことが感じられる。


「溶ける魚」の第二番のテクストには、終わりを欲する精神がもっと直接的に語られている。「私」の名のもとに「死ぬ」、「自殺」という表現が出てくるのだ。このテクストには、近代人特有の自分中心の生き方が語られている。

 

「これをいうために必要な時間がみじかければみじかいだけ、死ぬために必要な涙も少なくてすむ(溶ける魚)」

 

自分が何かをやり、それがうまくいかなくなると失意から自分で自分を片付けるという生き方である。自分を主体的に終わらせる、自己を完了させる生き方だ。自殺という完了態は最後の自己顕示とも受け取れる。ともかくも、美しい作品に自分を仕立てあげることができないのであれば、下らない自分など処分してもかまわないという自己否定は、自己肯定と同じく、自分を物体として扱い数値や外見や階層やブランドで評価を与えていく近代人の自己愛社会の顕著な例である。実際、近代化の進んだ19世紀後半のヨーロッパ諸国では自殺率が急上昇した。

だが「溶ける魚」の第二番の小話には、これとは反対の姿勢も表明されている。子どものような「いたずら心」を持って、人生の出口とは別な出入り口を探し当て、そこから外の世界に繰り出して、ただ「通る」だけの生き方、つまりあてどなくさまざまな町や人のもとを渡り歩いて彷徨うという生き方である。
 

 

「時刻表にあたってみる。町の名前のかわりに、ごく身近にかかわってきたひとびとの名前がならんでいる。Aに行こうか、Bに引き返そうか、Xで乗り換えようか? そうです。もちろんXで乗り換えよう。倦怠との連絡に遅れなければいいのだが! さあついた、倦怠だ、美しい平行線の数々だ、ああ!これらの平行線は、神の垂直線の下で、なんと美しいことだろう。(溶ける魚)」


ブルトンはこのような外面的な現実から離れたときに現れる格別な雰囲気を「超現実」と呼んだ。人や物、ブランドの外観に囚われない「放心」の状態で遭遇できる驚異的な気配を「超現実」と呼んだ。天上の神の国とは本質的に異なる、地上の平行線上に現れては消える幻影のことだった。(「シュルレアリスム」 酒井健)