デュシャンは語る(マルセル・デュシャン)

デュシャンの思想が凝縮されたインタビュー本


「デュシャンは語る」は、1966年のデュシャン晩年(80歳)のインタビュー集。デュシャンの思想は、ほぼこの本1冊に、本人の言葉でまとめられている

 

なお当時は、デュシャンに関する研究書はわずかしかなく(美術業界から無視されていたので)、研究書があったとしても、それらはたいてい批評家の個人的な思いこみと解釈だった。


それに対して本書はデュシャン自身が、自分の生涯にわたる思想を説明しているという点が特徴である。

 

「なぜ作品制作を放棄したのか」

「ガラスというアイデアはどこから生まれたのか」

「もっとも親しかった友人は……」

 

自らの行為、反応、感情、選択などについて幅広く、しかも深く語り、説明してくれたのは本書が初めてであり、また本書が最後である。

 

本を要約するなら冒頭部分である。これまでの人生を振り返ってみて、デュシャンがいちばん満足していることはとの質問に「運がよかったことですね。」、そして残念に思っていることの質問に「何もありません。人生の終わりに至っても、始まり以上に運がよいです。」

と答える。 たとえば自身の作品が評価されたのは、作品を解釈できるだけの人物がいたからで運以外はどうしようもない。


「ある天才がアフリカのどまんなかに住んでいるとして、どんなに毎日、すごい絵を描いていようとも、誰もその絵を見ないとすれば、そんな天才はいないことになるでしょう。言い換えれば、人に知られてはじめて、芸術家は存在するのです。芸術家は何かをつくる。そしてある日、大衆の介入によって、彼は認められる。そうして、彼は後世にも名を残すことになるのです。この事実を無視することはできません。つまり、認められ、尊敬されるために必要なことをする術を知らなかったが故に消えていく天才の存在もいるわけです。芸術は2つの極によって生み出されるのです。作品をつくる者という極があり、それを見るものという極があります。芸術家が重要と思われますが、実は作品を作る者と同じだけの重要性を作品を見るものにも与えるのです。(マルセル・デュシャン)」 


デュシャンを知るためのキーワード


●遊び

デュシャンは、自分の創作物を指すのに<もの>choseという語を、そして自分の創作行為を言うのに<つくる>faireという語を終始用いている。<遊び>とか<おもしろい><私は楽しみたかったのです>といった言葉も、しばしば見出される。それらは彼の無活動を証明する皮肉な標識である。

 

●難解

「知性」というのは、論理的な、あるいはデカルト的な知性の形というものがあります。でもブルトンが私を指して使った「知性」というのは、論理的な知性とは別のことでしょう。彼はシュルレアリズムの観点から、もっと自由な形で問題をとらえていました。彼にとっての知性とは、いわば普通の平均的な人間が理解しえない、あるいは理解することのむずかしいものの浸透なのです。ある種の単語には、意味の爆発みたいなものがあります。それらの語は、辞書に書かれている意味以上の価値を持っているのです。ブルトンは私と同じ種類の人間で、私たちのものの見方には共通性があります。ですから私は彼が抱いている知性の観念、拡大された、引き伸ばされた、ふくれあがった、そのような知性というものを理解しているつもりです。

 

●偶然

デュシャンは偶然の果てまできわめた。8年もの年月を費やして制作した「大ガラス」が壊れたとき、彼は物理的な意味ではそれを直しはしなかった。反対に、彼は自分の作品に加えられることになった、この事故の前にはなかった運命のしるしを、明らかに満足して受け入れたのである。偶然の観念については、その当時多くの人びとが考えてたが、デュシャンの意図は手を忘れることにあった。

 

●自由
私はある時、人生をあまりの重荷、しなくてはいけないたくさんことども、妻とか子どもとか別荘とか自動車とかによって厄介にしてしまってはいけないと悟ったのです。しかも幸いなことに、十分早い時期に。それによって私は、普通の生活をしていろいろな困難に直面する破目になるのに比べたら、ずっと容易に長い独身生活を送ることができました。実際、これが大事な点です。私は大きな不幸や悲しみにおそわれたことはありませんし、神経衰弱にかかったこともありません。それに産みの苦しみ、私にとって絵画ははけ口だったわけでもないのですから、とか、自分を表現したいというやむにやまれぬ欲求を感じたこともありません。

 

●生きる

生き、そして描く。絵描きであるということには、実際何の意味もないのです。それは今日でも確かな事実です。人が絵を描くのは、いわゆる自由な存在でありたいからです。毎朝毎朝、会社へ出かけていくのは嫌なのです。

 

●隠棲

実験的な年代、画家たちが自分の研究や発見や不安を交換し合いながら、グループをつくり、あるいはさらに徒党を組んで生活していた時代、そして友情というものがかなり大きな役割を果たしてた時代において、私は自由への欲求を抱き、距離を置くこと、隠棲することを好みました。にもかかわらず、それらの運動を熟知しており、自分自身の言語を仕上げるのに役立ちうるものをそこから借りてくるのにためらいはしませんでした。

 

●科学

すべての絵画は、印象主義以来、スーラも含めて、反科学的なものになっています。それで私は科学の正確で厳密な面を導入することに興味を持ちました。それは科学に対する愛からではありません。反対に、むしろ科学を、おだやかで軽い、取るにたらないやり方でけなすためだったのです。

 

●チェス

チェスのひとつのゲームは、視覚的・造形的なひとつのものであり、静態的な意味では幾何学的とは言えなくても、動くのですから力学的なものでもあります。それはひとつのデッサン、メカニックな現実です。チェスのゲームには、とくに運動の領域できわめて美しいものが存在します。

 

●3

私にとって、三という数は重要なものです。でもそれは秘教的な観点ではなく、単に記数法の上でのことです。一、それは単位です。二は二倍、二元性。そして三は、残り全部です。三という言葉に近づいていけば、三百万だって手にすることができます。それは三と同じものです。私は自分が望むものを手にいれるために、三回繰り返すことに決めました。

 

●無関心

あるオブジェを選ぶというのは、たいへん難しい。半月後にそれを好きなままでいるか、それとも嫌いになっているかわかりませんからね。実は、美的な感動を何にも受けないような無関心の境地に達しなければいけません。レディ・メイドの選択は常に視覚的な無関心、そしてそれと同時に好悪をとわずあらゆる趣味の欠如に基づいています。


●ユダヤ

ローズ・セラヴィ、という名前は、実際、私は自分の身元を変更したいと思っていました。そして最初に浮かんだアイデアが、ユダヤ系の名前にすることだったのです。私はカトリックでしたし、ある宗教から別の宗教へ移ること、それはすでにひとつの変化でしょう!

 

●女装
性の変化を、女装してマン・レイに写真をとらせるところまで押し進めました。シュルレアリスムの展覧会に、私たちはそれぞれマネキン人形を出していました。私のは女のマネキンで、私はそれに自分の洋服を着せました。それはローズ・セラヴィ自身だったのです。

 

●美術史
美術史というのは、美学とはずいぶん違ったものです。私にとって美術史とは、美術館に残されたある時代のもののことです。しかしそれは必ずしもその時代の最良のものとは限りませんし、実際にはおそらくその時代の凡庸さを示すものでさえあるでしょう。なぜなら、美しいものは、人びとが保存しようと思わないために、消えさってしまうからです。


●大切なもの

本当に重要な価値があるものというのは、実に一生のあいだに4つか5つくらいしかないものです。あとの残りは、日毎の時間つぶしでしかありません。一般的に言って、この4つか5つのものは、それが現れたときには、人びとにショックを与えています。「アヴィニョンの娘たち」にしろ「グランド・ジャット島の日曜日の午後」にしろ、それは常にショックな作品だったのです。私がショックというのは、こういう意味なのであって、というのも、ルノワールのすべての絵を、またスーラであってもそのすべての絵を見に行きたいとはまったく思いもしないからです。こうした法則を、私はすべての芸術家に適用します。

 

●螺旋
錯視的効果に少々興味を惹かれていました。私は、回転して、視覚上の効果として渦巻を作り出す小さなものをつくりました。はじめは螺旋をつくりました。いや、螺旋ですらなくて、中心がずれたいくつかの円がたがいに他の円の中に描きこまれていて、全体でひとつの螺旋、幾何学的な意味ではなくて、むしろ視覚上の効果としてひとつの螺旋の形になるものです。

 

●シュルレアリスム
シュルレアリスムに対しては極めて好意的でした。しかし、存在するものと関わりあうときの彼らのやり方、つまり抽象ということですが、それが常に気にいっていたわけではありません。マックス・エルンスト、マグリット、ダリといった初期の画家たちについて言っているのではなくて、1940年頃のその後継者たちについて言っているのですが。それは、すでに老いて古くなっていたシュルレアリズムでした。私が好まないのは、まったく非・観念的であるもの、純粋に網膜的なものです。それは私の神経にさわります。シュルレアリスムが好きなのは、彼らの最終的な意図は、網膜的なものを超えたところ、とりわけ幻想的なものにあるのです。


●死後の観客

後世こそ、観客です。私の考えでは、同時代というのは価値がありません。私はあえて「後世を待とう」と肝に銘じるようになりました。


●大衆

大衆はいつでも旗頭となる人物を必要としています。アインシュタインでも誰でもいい。

 

●独身者

(100年前に)“独身者”という言葉を聞くと女性嫌いと思われますが、私は女性嫌いではありません。その反対です。私は最高度にノーマルです! 私のいう“独身者”というのは“夫婦制”のことです。それにはお金(コスト)の問題が関わってきます。


●ガラス

ガラスは支持体として大変面白いと思いました。その透明さがね。絵具はガラスの上に置かれれば反対側からも見ることができるし、中に閉じ込めてしまえば酸化することもなくなります。色彩は視覚上の純粋さを可能なかぎり長く保ち続けるでしょう。私にとって色彩は完全に保護されたものなければなりませんでした。そこでガラスが絵具を変質することなく、十分純粋に、そしてかなり長い間保存するための方法となったのです。


●花嫁

私はガラスを使うというこのアイデアをすぐに「花嫁」に応用しました!


●解釈

解釈する人は、必ずしも誤りではないけれども、正しくもない。それは面白い。その解釈を書いた人物のことを考えるからです(笑)

 

●表題

興味の的になったのは表題のおかげです。中身の意味はありません。「処女」「花嫁」「独身者」などのタイトルを使っていれば興味をひくだけです。特に裸体に向かい合っていれば、スキャンダラスなものに見えたのです。裸体は尊重されなければいけませんからね!


●四次元

われわれが何気なく見ている三次元のオブジェは、すべて、四次元の投影です。「大ガラス」の中の「花嫁」は、四次元のオブジェの投影としてつくったのです。


●生計

生計というのは、稼ぐことより、むしろ消費の問題なのです。何を必要として生きたいのかを知ることです。


●エロティスム

私は大いにエロティスムを信じています。サンボリスムやロマンティスムと呼んでいるものに取って代われるのだとも言えます。それは、いわば、もうひとつの「イスム」たりうるのです。エロティスムを根本的な基盤、主要な目的として用いるのであれば、それは流派という意味でのひとつの「イスム」の形をとるわけです。


●信じる

「信じる」という言葉は間違いです。「判断」という言葉と同じです。


●存在する

私は「存在する」という言葉を信じません。存在するという概念は、人間の発明です。


●回顧展

素晴らしいものです。思い出があたため直されると、よく見えるようになります。個展と違い、時間的な継起がわかります。まさに、死んで、自分の人生が背後にある人のようです。抹殺したいような作品の前でもまったく窮屈に感じがしませんでした。


●神を信じていますか?

いいえ、まったく。そんなこと言わないでください!それは人間の発明です。どうして、そんなユートピアについて話すのでしょう。神という観念を想像したのは、キチガイじみた行為です。それについては話したくもないのです。


●死について考えますか

できるがきり考えません。無神論者であれば完全に消滅するだけだということに感動を覚えます。


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