139.終末思想

時間史観にはおもに3つのパターンがある。1つは輪廻史観、もう1つは終末史観、近世以降出てきたのは無限の進化史観だ。

 

輪廻史観はあるところまで行ったら自然と崩壊が起こって自己分解をはじめる。そうすると大災厄や、戦争でごそっとやられて、また1からはじまって同じ事を繰り返す。仏教やインドの世界観だ。

 

終末史観は逆にあるところで終末がきてしまうと、そこから先は天国へ行くか、地獄へ行くかでもうあとはない。ユダヤ・キリスト教的な世界だ。ゴールが設定されていて、ゴール前の生き方で天国へ行くか、地獄へ行くか決定する。

 

進化史観は、両端はあいまいだけれど、とにかく1つの流れがあって、多岐に分化したり崩壊も含めて発展していくという思想だ。先は分からないが、もうちょっと発展するだろうという考えだ。仏教やインドの世界は「発展せず、同じことを繰り返す」という思想だ。進化史観はヘーゲルやマルクスといった西洋哲学から生まれている。

 

そのほかに「永遠の現在」というもので土俗の宗教に多い。死んだ人はどこか遠くへ行ってしまうのではなくて、そのあたりにいっぱいるという考え。日本のアニミズムなんかがそうだ。

 

日本では浄土思想が入ってきた以降に終末史観を持っている。天理教でも大洪水がくる。甘露台をこしらえて、そこだけが助かる。ノアの箱舟思想だ。そしてこの終末史観が、現在の世界の潮流であるといっていいだろう、終末史観を支えているのが下降感覚だ。

 

下降感覚は、悔い改めよう、何とかせなんだら、おしまいになったらひどい目に合うぞという未来からの脅迫だ。そして現在どうするかという、非常に現在的な身の処し方と関係があって、下降感覚を見つめることによって、基本的には一種の上昇努力感と結びついてるといわけだ。メメント・モリというやつやな。死を見つめて生のエネルギーを上昇させる。生き残るには、現在のところ終末思想が優勢だし、環境問題(北京の大気汚染や水資源問題)なんかは終末思想で進めないともう人類が崩壊してしまう。(梅棹忠夫)