160.イマヌエル・カント

イマヌエル・カント / Immanuel Kant


作成者:gcat

概要


イマヌエル・カント(1724年4月22日-1804年2月12日)は、ドイツの哲学者、思想家。プロイセン王国出身の大学教授。


『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表。批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらす。フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖とされる。


後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼし、その影響は西田幾多郎など日本の哲学者にも強く見られる。

カントと労働


カントは大学卒業後のあとしばらく貴族や商人の家で住み込みの家庭教師をし、31歳のとき、母校ケーニヒスベルク大学の私講師となった。


私講師とは無給の先生である。給料はない。学生を集め受講料が先生の収入になる。カントが固定給つきの正教授に採用されるのは46歳のときである。カントはそれまで約15年間、不安定な生活をしていたことになる。


カントが大学で開講した科目は多彩である。論理学、形而上学、数学、自然地理学、倫理学、工学などとある。生活のためには数をこなさなくてはならない。私講師になってほぼ4年目、カントはある手紙でこう書いている。


「私はといえば、毎日毎日、教卓を前に座って同じような講義を続けます。そのさまはちょうど、変わらぬリズムで重いハンマーをふるって金敷きをたたくがごとくであります。ときおりもっと高尚な種類の好みが、この狭い空間を超えたところまでいくらか手を伸ばすような私を刺激するのですが、激しい声とともに困窮(生活苦)というものがすぐさま私に襲いかかり、たちまち私を重労働へと追い返してしまうのです


カントは46歳でようやく正教授になり安定した。カントはそのあと10年ほど何も書かなくなった。「正教授になり、生活の不安がなくなると勉強もおしまいか、と陰口もたたかれた」。いやいやそうではなかった。カントはとても難しいことを考えていたのである。これまでの哲学を土台からひっくり返すようなことを考えていたのである。


カントは57歳のとき、11年の沈黙をやぶって「純粋理性批判」があらわれた。そのあとは疾風怒濤、つぎからつぎへと超重量級の作品を量産した。「道徳形而上学原論」「実践理性批判」そして「判断力批判」である。


カントは60歳をすぎてはじめて自分の家をもつことができた。なかなか立派な家である。2階建てで部屋は8つ。一階に講義室と女中部屋、2階に寝室、食堂、書庫、客間、書斎があり、使用人は屋根裏部屋で寝た。


しかし70歳代になるとカントのエンジンも急停止である。72歳になるともう体力がもたず、講義ができなくなる。そのあと急速に体力は衰え、77歳でもう自分で文章を書くこともできなくなっていた。老衰はすすみ、痴呆が始まり友人がだれかもわからなくなった。耳はよくきこえず、目もよくみえず、一人で歩くこともできない。老いた妹が兄の世話をした。生涯独身だった。

 

そしてカントは亡くなった。享年79歳。

純粋理性批判


カントの哲学「純粋理性批判」は難しく、理解するには数学の公式のようなかんじで認識したほうが頭に入りやすい。

 

純粋理性批判は、カントが12年間にも及ぶ思索の結果をまとめたもの。普通の人が理解するのはほとんど不可能といわれています。

まずカントは、人間は「感性の形式」「悟性の概念」があってはじめて世界を認識していると考えた。これが「純粋理性批判」である。

 

 

■「感性の形式」
コップが目の前にある。コップの印象はそのまま(媒介なしに)私たちの心にはいってくるのではない。コップと心の間には「感性の形式」といったものがある。コップは「感性の形式」を通してはじめて認識の対象となるのである。

「感性の形式」とはまず「時間」と「空間」の観念である。私たちは「空間」と「時間」、つまり「時空」を通してはじめてコップの存在を知ることができる。

コップは常に「空間」のどこかにある。「あそこ」にあったり、「ここ」にあったりするのである。空間はコップが存在するためには不可欠なものである。「時間」についてもいえる。コップはつねに時間のどこかにある。「さっきはあった」が「いまはない」、あるいは「明日にはあるだろう」というようにしてコップは存在する。時間はコップが存在するためには不可欠なものである。
コップを認識するには


「コップ→「感覚」+「感性の形式」→認識」

感覚:視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚といった経験
感性:空間・時間という形式

この2つが必要になる。認識の対象の素材を提供するのは感覚的な経験であるが、感覚的な経験は「感性の形式」があってはじめて認識可能となる。時空がなければ感覚的な経験をすることも不可能であろう。コップは時間と空間のうちに現れるのである。時空の形式がなければコップが現れる事も不可能となる。

さて問題は「感性の形式」というものである。時間と空間はどこにあるのか?とカントは問う。実は現実の世界にあるのではない。頭の中にあるのだと、カントはいう。ここがカント哲学のポイントである。「今」と「ここ」は外部の世界ではなく、頭の中にあるのである。

つまり、コップを見るためには、私の頭のなかにすでに「空間と時間」の観念がなければならない。カントの言葉では「時間と空間は感性のア・プリオリな形式」である。「ア・プリオリ」とは「経験(感覚)する以前にある」、という意味である。

「世界は私たちがア・プリオリにもっている(形式)のなかにあらわれる」

これがカント哲学の大切なポイントである。世界がどういうものと見えるかは、私たちのもっている「形式」によって制約されているのである。

 

■悟性の概念
しかし形式にはもうひとつ大事なものがある。因果律である。ものごとには「原因」と「結果」があると考えなければいけない。因果律もまた、経験の以前に(ア・プリオリに)すでに私たちの頭のなかにあるわけである。


時間と空間は「感性の形式」因果律は「悟性の概念」といわれる。いずれにしても、時間・空間と因果律、これらがそろって私たちは人間は世界を認識しているというわけだ。(歴史を動かした哲学者たち 堀川哲)