【完全解説】アルベルト・ジャコメッティ「20世紀モダニズム彫刻の代表」

アルベルト・ジャコメッティ / Alberto Giacometti

20世紀モダニズム彫刻の代表


概要


生年月日 1901年10月10日
死没月日 1966年1月11日
国籍 スイス
タグ 彫刻、絵画、ドローイング
スタイル シュルレアリスム、表現主義、キュビスム、フォーマリズム
配偶者 アネット・アーム

アルベルト・ジャコメッティ(1901年10月10日-1966年1月11日)はスイスの彫刻家、画家、素描画家、版画家。戦後のフランスの彫刻界において最も高い評価を得る。父は後期印象派の作家のジョヴァンニ・ジャコメッティ。父の影響のもと幼少期から芸術に関心を持つ。

 

初期はシュルレアリスム作家だったが、1935年ころから離れて独特の人間像を模索し始める。極力、余分なものをすべてそぎ落とし、本質に迫ろうとするその彫刻は、逆に周囲の空間をすべて支配してしまう不思議な存在感を放つ。

 

ジャコメッティはシュルレアリスム運動のキーパーソンとなるが、彼の作品を簡単にシュルレアリスムと分類することはできない。ある人は表現主義と呼び、ある人はフォーマリズムと呼ぶ。20世紀のモダニズムと実存主義における空虚で意味を喪失したモダンライフを反映していると批評もされた。

 

ジャン・ポール・サルトルはジャコメッティの作品に注目し、早い時期に論文を書いた。

略歴


シュルレアリスム時代


ジャコメッティは、スイスのイタリア国境に近いボルゴノーヴォ(現在グラウビュンデン州マローヤ地区のスタンパの一部)に生まれ、近郊のスタンパの町で育った。スイスの異端審問を逃れたプロテスタント難民の家系だったという。


父はジョヴァンニ・ジャコメッティで後期印象派の画家として知られており、そんな家庭環境の中ジャコメッティは幼い頃から芸術に親しんでいた。弟のデェイゴとブルーノも美術家として知られている。兄のザッカリアはチューリヒ大学の法学教授で学長。


ジャコメッティは、高等学校卒業後、1919年にジュネーヴ美術学校に入学するが、入学後数日で絵画には見切りをつけ、ジュネーヴ工芸学校のモーリス・サルキソフの下で彫刻を学ぶ。


1920年にヴェネツィア、1921年にはローマに滞在した後、1922年にパリへ移住し、ロダンの弟子のアントワーヌ・ブールデルのもとで彫刻を学ぶ。この頃、ジャコメッティはキュビスムやシュルレアリスムの手法を導入しはじめ、次第にシュルレアリスム彫刻家として知られていくようになった。パリではピカソ、エルンスト、ミロ、バルテュスらと交友があった。


最初の個展は、1927年にスイスのGalerie Aktuaryusで開かれている。鳥かご、キネティック、抽象、多色といった強烈な実験彫刻を繰り返しており、当時はまだ定まったスタイルがなかった。1930年から35年にシュルレアリスム運動に参加する。

小さく、小さく、破壊、細く、長く、


「Man Pointing 」1947年
「Man Pointing 」1947年

1935年頃からシュルレアリスムから離れて、1936年から1940年までのあいだ、ジャコメッティは人間の頭部の彫刻制作に没頭し続けた。


彫刻は余計な部分が削られて、どんどん小さくなっていった。最後には破壊してしまう作品も多かった。なお1935年から1947年の間、ジャコメッティは一度も個展をしていない。


モデルに妹や芸術家のイザベル・ローズソーン(ベーコンのモデルとしてでも有名)を選ぶことを好んだ。ジャコメッティの細長い彫像は、彼女の細長い手足を強調したように制作されている。


1946年にアネット・アームと結婚した後、今度はジャコメッティの彫刻はどんどん大きくなっていった。われわれがよく見かける、大きく細長い彫刻は1947年から始まる。ジャコメッティは自身の作品について、女性を見たときに感じる感覚を表現していると説明している。


何度も再加工した結果として、ジャコメッティの彫像は孤立してひどく衰弱しているように見える。またジャコメッティがほかに好んだモデルでは、彼の弟であるディエゴ・ジャコメッティでと弟のブルーノ・ジャコメッティがいる。

「歩く3人の人」(1949年)
「歩く3人の人」(1949年)

ミニマルな生活


1958年ジャコメッティは、ニューヨークに建設中のチェイス・マンハッタン・バンクの記念碑彫刻の制作を依頼された。


ジャコメッティは、昔から公共空間での彫刻制作への野心をずっと抱いていたもの、一度もニューヨークに足を踏み入れてことはなく、急速に進展する大都市での生活について何一つ知っていたことはなかったという。ジャコメッティの伝記作家ジェームス・ロードによると、ジャコメッティは生涯において摩天楼の超高層ビルを見たこともなかったという。


ジャコメッティの終生の住居兼アトリエがあったイポリット・マンドロン通りは、当時のパリの中でも貧しい界隈であり、小さな工場や材木置き場が立ち並んでいるところだった。ジャコメッティは、裕福になってからも、住居とアトリエを変えることはなく、小さな村の貧しいアトリエを使っていたといわれる。


この理由として、父ジョバンニの影響が大きく、ジョバンニはスイスにの有名な画家の一人だったが、青年時代の数年間をパリで過ごした以外は、終生スイスの山間の小さな村スタンパを離れることなく、制作してたようである。


ジャコメッティは生前、次のような言葉を残している。

「小さな空間さえあれば。非常に大きな作品を作る時でもそうだ。大きな作品を作るために大きなアトリエがいるという人がいるが、それは間違っている。大きな作品のために必要なものは小さな作品のために必要なものと全く同じだ」(矢内原伊作『ジャコメッティとの会話』彩古書房)


1960年にジャコメッティのも記念碑彫刻は、彼の最も巨大な作品で4人の女性像の彫刻Grande femme debout I through IV (1960)」に決定したものの、仕事はうまくいかなった。彫刻と設置場所の関係においてジャコメッティに不満があり、結局このプロジェクトは破綻した。

晩年


1962年に、ジャコメッティはヴィネティア・ヴィエンナーレの彫刻部門でグランプリを受賞したのをきっかけに世界中に名が知れわたるようになった。


有名になってから作品の需要が増えてからも、ジャコメッティは彫刻を再加工し続け、また破壊したりしていた。


ジャコメッティによって制作された版画はよく見落とされるが、晩年には絵画、版画など平面芸術への回帰もみられる。版画集『終わりなきパリ』は1958年から1965年にかけて制作した石版画150点を収録し、ジャコメッティ自身によるテキストを付したもので、晩年の代表作である。


1966年にジャコメッティは、スイスのチューリヒで心臓疾患にかかり慢性閉塞肺疾患で死去。

現在の100スイス・フランの表
現在の100スイス・フランの表
現在の100スイス・フランの裏
現在の100スイス・フランの裏

マーケット・ニュース


「指差す男」は1947年にアルベルト・ジャコメッティによって制作されたブロンズ像。2015年5月11日にクリスティーズで史上最高額の1億4100万ドルで売買されたことで話題になった。

 

ジャコメッティは「指差す男」を6体制作しており、ニューヨーク近代美術館やテイト・ギャラリー1体ずつ、ほか2体も美術館に所蔵されている。1体は財団のコレクションで、最後の1体は個人蔵となっている。2015年にクリスティーズに出品されたのは個人蔵のもので、45年間所持されていたものだった。

 

クリスティーズは「今回、ジャコメッティの非常に希少なマスターピースで、彼のイコン的作品が出品される。」とアナウンスを行なった。

 

<参考文献>

Alberto Giacometti - Wikipedia