180.コドモノクニ

コドモノクニ / Kodomonokuni


概要


「コドモノクニ」とは、1922年1月から1944年3月にかけて東京社(現ハースト婦人画報社)から出版されていた2歳から7歳までの幼児が対象の児童雑誌。編集長は鷹見久太郎。


「コドモノクニ」の定価は50銭。今の感覚でいうとなんと4000~5000円もする高価な出版物の児童誌だった点が、ほかの幼児雑誌とは明らかに一線を画していた。「幼児のために本物の芸術を届けないといけない」という信念のもと創刊。


それまでの絵本に絵を寄せる画家はイラストレーターだったが、コドモノクニは芸術家を起用。文学者では北原白秋に野口雨情、西条八十、内田百聞、横山利一。画家は童画家の武井武雄や岡本帰一をはじめ、藤田嗣治、東山魁夷に古賀春江などが参加。個性豊かで前衛的な童画を載せることにより、芸術的な絵雑誌として高い評価を得た。


漫画家の手塚治虫、絵本作家のいわさきちひろ、作家の澁澤龍彦、グラフィックデザイナーの堀内誠一ら、後の表現者たちにも多大な影響を与えた、画期的な雑誌だった。来日した物理学者アインシュタインが持ち帰ったことでも知られる。

童画


創刊号の表紙と、以後ずっと使用される題字を手がけたのは童画家の武井武雄。「コドモノクニ」の代表的な作家で、その作風は現代の感覚で見てもしゃれている。表紙は、水色の帽子をかぶり、赤いワンピースを着た少女が眠り込んでいる絵だ。夢を見ているすきに、手元から妖精がそっと抜けだしてきたところだろうか。1つの画面に郷愁と詩情が同居している。


当時の武井は東京美術学校(現東京芸術大学)を出て間もない、無名の絵かきだった。生活のために子ども向けの絵を手がけるようになり、東京社へ売り込みに行く。応対した編集者の和田古江がその場で起用を決めたという。その後、武井は子どものために絵を描くことは「男子一生をかけるべき仕事」と決意。「童画」という言葉を生み、27年には「日本童画家協会」を結成する。まだ挿絵が添え物のように扱われていた時代のことである。


武井の絵は斬新な構図と独特の線描で、グラフィックデザイナーやタイポグラフィーに近い。その作品を収蔵するイルフ童画館の山岸吉郎館長は「グラフィックデザイナーやイラストレーターの先駆者。今の時代に生まれていたら最初からデザイナーを目指しただろう」と推察する。動物の絵も得意とした武井の「ドウブツ ノ エンクワイ」(29年)は西洋の軍服や背広を着たライオン、ゾウ、ウマたちがナイフとフォークを使い食事している。ナンセンスなユーモアが微笑ましい。


83年に亡くなった武井は「コドモノクニ」を振り返ってこう語っている。


「詩を書く人は白秋、雨情、八十の三羽烏、作曲家は中山晋平その他、当時一流の人達が画家もそうですが、頼まれたから原稿料稼ぎにちょっと児童物に筆をそめたというのでなく、自分の作品を一義的に発表しようとした場が「コドモノクニ」だったんです」

五感総動員


絵と言葉を組み合わせた「コドモノクニ」は幼児期の想像力を育んだ。音楽を加えた童謡は650冊以上生まれている。


このころすでに鈴木三重吉による童謡と童話の雑誌「赤い鳥」があったが、対象は小学校中学生から。「コドモノクニ」はもっと幼い読者に鮮烈な記憶を植えつけた。白秋と野口雨情、西条八十、サトウハチローらが寄稿し、中山晋平らが作曲。松居氏は言う。「豊かな日本語の体験を持った詩人が新しい形で言葉を伝えた。「コドモノクニ」は童謡雑誌だったといってよいでしょう」

 

それはあからじめ学校教育を意識した唱歌とは離れた、子どものための芸術性豊かな歌謡だった。言葉、絵画、音楽。「コドモノクニ」は五感を総動員して味わうものだったのである。