186.オディロン・ルドン

オディロン・ルドン/ Odilon Redon

シュルレアリスムの先駆者


概要


オディロン・ルドン(1840年4月20日-1916年7月6日)はフランスの印象主義、象徴主義の画家、版画家、素描家、パステル画家。無意識下の世界を描写したかような夢と幻想の世界観を表現。


同世代のモネやルノワールが、画面からあらゆる文学的、物語的要素を拒否して、純粋な日常の感覚の世界を追求していことに不満を持っていた。ルドンは、日常を超えて、夢や無意識の織り出す万華鏡のような妖しい人工楽園の物語を創り出す。ルドンは、自分の内面を重要視して独自の世界を作り上げた。

 

1900年ジグムント・フロイトの「夢の解釈」が世に問われ始め、いよいよフロイトの深層心理学が美術界にも影響を与え始めると、ナビ派の画家たちはルドンのことを「われらのマラルメ」と呼び、敬意を払った。

 

ルドン死後、シュルレアリストたちは、幻視、幻覚、ファンタジー性があり、ルドン自身が作品を無意識的方法と述べたことから、シュルレアリスムの先駆者と見た。ルドンは世紀末における最も優れた「魂の錬金術師」であったといってよい。

略歴


ベルトラン・ジャン・ルドンは、フランス南西部のアキテーヌ地方ボルドーの裕福な家庭で生まれるが、病弱だったのでボルドーから30キロ離れた田舎へ里子として出されて孤独に過ごすことになる。なお若いころから死ぬまでの愛称である「オディロン」は、母親の名前に由来する。ルドンは子どものときに素描を描き始め、10歳のときに学校で素描の賞を獲もらった。


15歳のときに、地元の水彩画家の画家スタニスラス・ゴランの家に本格的に素描の絵を学び始める。しかし、父は反対して建築家になることを勧めた。建築家となるべく1861年からパリへと移住し、また、ころころまでに独学の植物学者アルマン・クラヴォーに出会い、顕微鏡下に露呈される生物の世界や自然科学の世界に影響を受け始める。1862年にダーウィンの『種の起源』の仏語訳版が出たとき、ルドンはクラヴォーの家でこの本を読んでいる。


1862年、22歳の秋にエコール・デ・ボザールの試験を受けるが不合格となり、建築の道は諦めることになる。改めて画家の道を進むべく1864年にジャン=レオン・ジェロームのもとで絵を学ぶが、同氏のアカデミックな教育に反発し、翌年には帰郷。


故郷のボルドーに戻って、ルドンは彫刻をはじめ、またロドルフ・ブレダンのもとで版画やエッチングを学ぶ。しかし、普仏戦争が始まったため、ルドンの芸術活動は1870年のときに中断する。徴兵のために従軍するが病気のために戦線離脱。終戦後、1874年にルドンはパリに移動してから、プロフェッショナルの画家となるべく、木炭画とリトグラフに専念するかたちで芸術活動を再開した。


1878年に転写法によるリトグラフの技法を教えてくれた画家ファンタン=ラトゥールに出会う。


1879年、初の石版画集『夢のなかで』を刊行。25部しか発行していないので、大々的にデビューしたとはいえないが、グラフィック画家として、職業画家としてのスタートを始めたことは間違いないだろう。さらにアフリカ沖のレユニオン島出身でルドン自身の母と同じクレオールの若い娘カミーユ・ファルトと出会い、1880年結婚する。これ以降、石版画集や単独絵画作品を数多く手がけ、グラフィック画家として生活するようになる。


1884年、ユイスマンの『さかしま』にルドンの黒の作品がとりあげられ、ルドンの怪物たちはデカダン派という新しい美学の一部としてとらえられるようになる。1886年、詩人モレアスの「象徴主義宣言」によって、デカダン派を継承する象徴主義が文学の世界で開始。


1890年代になるとパリで物質主義的な思想に反発が起こり精神主義や神秘主義のムーブメントが起こり始める。そこで現実の自然を手がかりにしながら現実描写だけでは満足できないルドンのような画家が、若い芸術家たちに歓迎される時代が来たのである。プレ・シュルレアリスムである。


1894年、ルドンは老舗画廊デュラン=リュエルで大規模な個展を開催。続いて1899年、同じ画廊でナビ派やシニャックを含む若い画家たちが、別格としてルドンを迎えたグループ展を開催。新印象主義のスーラは1891年に亡くなり、ゴーギャンはタヒチに去っていた。ルドンはほかの画家たちと群れをなすタイプではなかったが、この頃には若い画家たちが求めていた新しい絵画の先駆者として認識され、若い芸術家たちがルドンの周囲に集まるようになっていた。


1913年にアメリカのアーモリー・ショーに一室を与えられて出品。この展覧会はアメリカにおけるルドン作品収集のきっかけとなった。1916年7月6日、パリの自宅で肺炎で死去。76歳だった。