189.スティーブ・ジョブズ「捨てられ選ばれる」

スティーブ・ジョブズ / steve jobs

捨てられ選ばれる


概要


スティーブ・ジョブズ(1955年2月24日-2011年10月5日)は、アメリカ合衆国の実業家。アップル社の共同設立者の一人。アメリカ国家技術賞を受賞している。

 

ジョブズといえば「ミニマル」の思想である。そこにはジョブズが養子として出された複雑な家庭環境や、近所の低所得者向けでありながらシンプル・モダンで機能的な家を提供していた不動産屋、そして禅の影響などがある。

 

またジョブズといえば、カウンターカルチャーと平均大衆カルチャーとの対立である。 養子として「捨てられた」と同時に、養子として「選ばれた」ジョブズには選民的な思想が小さなころからある。カウンターカルチャーはたんなる反抗文化のことではない。既存のビジネスルールを書き換える運動でもある。

略歴

ギークと同時に人文主義


スティーブ・ジョブズは1955年2月24日、ウィスコンシン州のドイツ系移民の娘ジョアン・シーブルと、シリアから来たイスラム教徒の留学生アブドゥルファター・ジョン・ジャンダーリとの間に生まれた。


ジョアンの父が、ムスリムのシリア人であるアブドゥルファターとの結婚を認めなかったため、生後、すぐにスティーブは養子としてポール・ジョブズとクララ・ジョブズに引き取られることになる。ポールとクララは、ジョブズの後に女の子の養子を迎えているため、ジョブズには一緒に育った血の繋がっていない妹パティ・ジョブズもいる。


生まれてすぐに「捨てられ」、同時に養子縁組として「選ばれた」ジョブズの境遇は、その後のジョブズの「放棄」と「独立心」の哲学となり個性となる。


幼少の頃スティーブは、機械工で壊れた車を引き取っては修理し、それを売る養父のポールから機械や車について手ほどきを受ける。スティーブがエレクトロニクスに触れたのは、父親の車いじりを通じてだった。またスティーブの実家のあたりは、安価な住宅を低所得者に数多く販売していたアイクラー・ホームズの住宅が数多く建てられている場所で、そのこぎれいなデザインとシンプルなセンスに多大なスティーブは影響を受ける。アップルがスタートしたときのビジョン、初代マックが実現しようとしたことに繋がっていく。


小学4年生が終わる頃、ジョブズは知能検査を受け、高校2年生レベルの成績を上げる。この結果、ジョブズの知能が並外れていることがわかり、1年飛び級で進学する。しかし飛び級はつらい経験となり、ひとつ年上の子どものなかに放り込まれたジョブズは、孤立し、いじめられることも多く、7年生のなかばで転校することになる。また13頃からジョブズは教会に通うのをやめるようになる。


中学を卒業後、スティーブはホームステッド・ハイスクールに進学。1960年代末のカウンターカルチャーにどっぷりはまった年上の友だちが多く、ちょうどその頃はギークの世界(オタク)とヒッピーの世界が重なろうとしていた時代だった。そんな時期に過ごしたジョブズは、数学、科学、エレクトロニクス、アマチュア無線、LSD、カウンターカルチャーに関心を持ち始める。また高校1年が終わったころからHP(ヒューレッド・パッカード)の工場でアルバイトを始める。高校2年から3年にかけてマリファナをはじめる。


「自分はエレクトロニクスが大好きなギークであると同時に、文学やクリエティブなことが好きな人文系の人間らしい」と思うようになる。音楽をよく聞くようになり、シェイクスピアやプラトンなど、哲学や芸術にも関心を持ち始めた。当時は『リア王』が大好きだった。ほかにメルビルの『白鯨』やディラン・トマスの詩もお気に入りだった。



天才エンジニア”ウォズ”との出会い


スティーブ・ウォズニアック
スティーブ・ウォズニアック

1971年、アップルの共同設立者の一人で、 Apple IおよびApple IIをほぼ独力で開発した主要エンジニアとなるスティーブ・ウォズニアック(ウォズ)と出会う。エレクトロニクスの知識に関してジョブズなど足元にもおよばないほどウォズは詳しく、ジョブズの専門知識を伸ばしてくれる人物だった。

 

ジョブズはすぐに好きになった。またウォズはジョブズと同じくコンピュータに対する興味のほか、音楽に対する情熱も共通していた。ジョブズがボブ・ディランに興味を持つようになったのもウォズのおかげだった。


1971年、ウォズとジョブズの協力体制としてその後に定着する事件が起きる。「ブルーボックス」事件だ。ジョブズとウォズは、長距離電話をタダでかける機械「ブルーボックス」を開発することに成功し、それを販売して利益を得た。アップル創業時の役割分担はこのときはじまったとジョブズは証言している。

 

ブルーボックス開発のきっかけとなったのは、「エスクァイア」誌1971年10月号に掲載されていた1つの記事だ。ブルー・ボックスと呼ばれる装置を使って、無料で長距離電話をかけることが可能になるというハッカーや電話フリークのための記事をウォズが見つけた。


ジョブズとウォズはブルーボックスを自分たちで作ることにした。2人は、AT&T(ベル社)の交換器が利用する周波数やトーンが書かれている資料をスタンフォード大学線形加速器センターで探し出し、ダイオードとトランジスタなどブルーボックスの部品を購入し、絶対音感を持つ音楽科の学生に手伝ってもらいつつ、ウォズがブルーボックスを製作した


最初は趣味で作って、ヘンリー・キッシンジャーのふりをしてバチカン宮殿のローマ法王へいたずら電話をしたりして、遊んでいただけだったが、ジョブズは売ればビジネスになると気づく。ブルーボックスの材料費は40ドル。ジョブズはこれを150ドルで販売することにした。明らかにフリーキング(不正行為)だ。バイヤーとして、ウォズは「バークレー・ブルー」、ジョブズは「オーフ・トバーク」というハンドルネームを使っていた。


「ブルーボックスがなければアップルもなかったと思う。それは間違いない。この経験からウォズも僕も協力することを学んだし、技術的な問題を解決し、製品化できるという自信を得たんだ」(ジョブズ)。



サブカルチャーとカリグラフィー


1972年、ホームステッド・ハイスクールを卒業したジョブズは、ロアルトス山の小屋でアニメーション映画をいっしょに作っていた1歳年下のクリスアン・ブレナンと暮らし始める。この頃からLSDに親しむようになる。


1972年秋に、自由を重んじる校風とヒッピー的なライフスタイルで知られるリベラルアーツの私立大学リード・カレッジに入学。ジョブズは精神世界や悟りに関するさまざまな本に影響を受ける。とくに、サイケデリックドラッグ(幻覚剤)の作用と瞑想についてババ・ラム・ダスが書いたサブカルチャー誌『ビー・ヒア・ナウ』の影響を強く受ける。ダニエル・コトケとそのガールフレンド。エリザベス・ホームズ、それにロバート・フリードランドらと行動するようになり、クリシュナ教寺院における愛の祭典に参加したり、禅センターが無料で提供するベジタリアン料理を食べにいったりした。


特に禅にはまり図書館に通って、禅に関する本をひたすら読むようになる。鈴木俊隆の『禅へのいざない』、パラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』、リチャード・モーリス・バックの『宇宙意識』、チョギャム・トウルンパ・リンポチェの『タントラへの道-精神の物質主義を断ち切って』などだ。エリザベスの部屋の天井裏に瞑想室を作った。ジョブズにとって、禅宗を中心とする東洋思想に傾倒したのは一時的なものではなかった。ギリギリまでそぎ落としてミニマリスト的な美を追求するのちのアップルの姿勢は、皆、禅から来たものだった。


またジョブズは仏教にも強い影響を受け、抽象的思考や論理的分析よりも直感的な理解や意識が重要だと気づいた。ただ気性が激しかったため、解脱して涅槃にいたることはできなかった。心の安寧も、他人に対する厳しい姿勢も柔らぐことはなく、もっぱら美術的感覚のほうに東洋思想はジョブズに影響を与えた。


もう一冊、大学1年生のジョブズに大きな影響を与えた本がフランシス・ムア・ラッペの『小さな惑星の緑の食卓-現代人のライフ・スタイルを変える新食物読本』だ。この本で菜食主義に影響を受け、浄化や断食などの食事習慣を覚え、ベジタリアンとなった。


大学の授業ではカリグラフィーに興味をもった。ジョブズはデザインや外観などの美術的感覚を大事にするが、その美術的感覚はカリグラフィーの授業で身につけた。カリグラフィーを学ばなければ、マックに複数種類のフォントが搭載されることもなくなかったという。


菜食主義禅宗瞑想スピリチュアリティLSDロック、当時大学ではやっていたサブカルチャーの象徴となっていたさまざまなのものがジョブズのなかでひとつに交じり合っていた。これらのものがのちにエレクトロニクスギークと美術一体となって花開く日が来るわけだ。



アタリと鈴木俊隆


ジョブズは18ヶ月をリード大学で過ごしたあと、学ぶことがないため退学する。1974年2月、ロスアルトスの実家に戻って仕事を探すことにし、その頃人気のビデオゲームメーカー、アタリ社を訪問し、入社する。


ジョブズはアタリで、チップの力をぎりぎりまで利用して楽しいデザインにしたりルールを自分に都合よく変えてしまう技シンプルの素晴らしさを創業者のノーラン・ブッシュネルから学んだ。ブッシュネルから盗んだ技は、その後アップルで生かされることになる。


しかし同年、ジョブズはインドへ旅することを決意し、アタリ社の退社を申し出る。60年代ヒッピームーブメントで導師とされたニーム・カロリ・ババに会いに行くためだ。その旅費の援助をアタリ社チーフのアルコーンに要請すると、ドイツのミュンヘンで発生している最終製品の組み立ての干渉問題を解決を条件として、欧州までの旅費負担を提案する。ジョブズは同意して、ミュンヘンに数日滞在して干渉問題を解決した。


なおダークスーツ文化で、食べ物といえば肉と芋しかなくベジタリアンの概念のないドイツはジョブズにとって大変不快な国だったらしく、やたらとアルコーンに文句の電話をかけてきたという。イタリアはパスタの国であり、雰囲気も人懐っこいのでよかったらしい。


4月にインドのニューデリーに到着。赤痢にかかり一週間で70キロから55キロまで体重が落ちる。回復するとヒマラヤ山脈のふもと、ナイ二タール近くの村へニーム・カロリ・ババが住む村へ移動。ババはすでに亡くなっていた(少なくとも、同じ輪廻の輪にはいなくなっていた)。しかしヒンズー教の修行所で、のちに疫学者でグーグルの慈善事業部門とスコール財団を統括するラリー・ブリリアントという人物と知り合いになった。ジョブズとブリリアントの付き合いは、それからずっと続く。

鈴木俊隆老師
鈴木俊隆老師

ジョブズは叡智を授けてくれる導師を見つけようとあちこち放浪するも、見つからず、結果、苦行、欠乏、質素を通じて悟りにいたろうと考えた。こうして数ヶ月をインドで過ごし秋に帰国。


帰国後、ジョブズは時間をかけて悟りに導いてくれる導師を国内で探し始め、『禅へのいざない』の著者、鈴木俊隆老師を訪問。ジョブズは鈴木から熱心に禅を学ぶことにする。ジョブズは毎日のように老師の元へ通い、2~3ヶ月に一回はこもって瞑想する静修をいっしょにおこなった。出家の相談をしたが、老師からはビジネスをしつつ、スピリチュアルな世界とつながることは可能だから出家を制止する。ふたりの関係はその後も深く、長く続き、17年後には老師がジョブズの結婚式を執り行うなどしている。


この頃、ジョブズがインドへ自分探しに行ったり、鈴木俊隆の元へ通っていたのは、生みの親のことを知らないことが心の痛みになっていたからだという。


「スティーブは生みの親を知りたい、そうすることで自分を知りたいと強く願っていました」


とフリードランドものちに語っている。