195.つげ義春「ねじ式と夢」

つげ義春 / Yoshiharu Tsuge


作成者:gcat

概要


つげ義春(1937年生まれ)は日本のマンガ家、随筆家。意識的にシュルレアリスムをマンガに初めて取り込んだ作品「ねじ式」の作者として知られる。

 

つげの作品は、“芸術的なマンガ”としておもに団塊世代の若者に支持され、また現在でも若者に影響を与えている。特にマンガ以外のカルチャーへの影響が大きく、「ねじ式」は1998年に、「リアリズムの宿」は2004年に映画化もされている。

 

貸本マンガとマンガ雑誌『ガロ』を中心に作品を発表していたが、1970年代以降は寡作となり、1987年の「別離」を最後に作品を発表しておらず、現在は休筆状態。理由は精神的な不調。

 

マンガを描くかたわら、温泉めぐりや旅の趣味を生かしたエッセイを多数発表。随筆家としても活躍しており、『貧困旅行記』『つげ義春とぼく』などエッセイ集を数冊刊行している。

 

妻は状況劇場の元女優の藤原マキ。弟はマンガ家のつげ忠男。現在は調布の自宅にて精神的に不調がある息子の世話をしながら家事に忙しい毎日を暮らしている。2014年に『芸術新潮』と『東京人』で久々に公にその姿を現し、ロングインタビューが行われており、自身の作品の意図や現在の生活に関して率直に語っている。

 

略歴


対人恐怖からマンガ家へ


つげ義春は、1937年10月30日(実際は4月生まれ)、東京葛飾区で板前の父・一郎と母ますの間に、3人兄弟の次男として生まれた。弟はのちに同じくマンガ家となるつげ忠男。また1942年に父が死去した後に再婚した母と養父との間に生まれた2人の妹がいる。


戦後の日本の経済的後退は、つげの家庭環境に大きな影響を与えた。経済的な貧困を解決するため、つげは小学校を卒業するとすぐにメッキ工場で働く。


その後、いくつかの職を転々としたあと、マンガ家になることを決意。理由はこの頃から赤面恐怖症がひどくなり、人と会わなくても仕事ができる職業がマンガ家だったからだという。


18歳で手塚修虫の影響が見られる単行本作品「白面夜叉」でプロのマンガ家として正式にデビュー。つげ自身は、絵は永島慎二、ストーリー構成は横山光輝を手本しており、この頃の作品では、まだつげ独自の特色はあまり見られない。

貸本市場と劇画


つげは、1950年代に興隆した貸本市場で、マンガ家としてのキャリアを積む。貸本市場とは、おもに貧困労働者の客をターゲットとし、安価な娯楽本を貸し出すマーケットで、手塚治虫をはじめ当時の多くのマンガ家が、貸本市場を中心に作品を発表していた。


つげの暗いストーリーは、当時、貸本マンガのおもな読者層だった小・中学生からの評判が悪かった。しかし、その暗くてリアリズム志向のマンガはのちに「劇画」と呼ばれるようになり、1950年代後半から60年代の日本において大きく発展した。


「劇画」という名称は1957年に辰巳ヨシヒロによって考案されたものであるが、辰巳の友人でもあるつげは、劇画作家の先駆けともいえるだろう。

 

貸本時代の名作としては「おばけ煙突」がある。1958年に若木書房『迷路1』に掲載した短編で、その内容は、たたりの煙突として恐れられている煙突に、貧困にあえぐ職人が1万円の懸賞金目当てのために上り、強風と大雨の中彼は煙突を掃除するが、足を滑らせて死ぬ不条理な話である。

 

この作品を絶賛した白土三平の尽力により、後年つげは、白土のすすめもあり「ガロ」に参加することになる。

貸本の衰退と自殺未遂


マンガ家としてデビューしたものの、つげの生活は相変わらず貧しく、生活費を調達するために血液銀行で売血を始める。

 

売血とは1950年代から1960年代半ばまで輸血用血液を供給していた民間の会社で、金銭を得るために過度の売血を繰り返していた人たちがけっこういたという。(1974年に売血廃止)。

 

1960年に「コケシ」というアダ名の女性と付き合うようになり同棲するが、貸本マンガ生計を立てることは難しく、内職を始める。ポーラ化粧品の訪問販売をしていたコケシと一緒に、化粧品をつめた重いトランクをさげ、うろうろ歩きまわったりもしていた。

 

1961年、貸本漫画を描いていた三洋社が倒産すると、コケシとも別離。つげは睡眠薬を大量に飲んで自殺未遂を起こす。


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貸本小史

貸本屋というのは、1950年代には、大都市の下町などにあった有料私設図書館のことである。はじめのころは、下層庶民をおもな読者に通俗小説や娯楽雑誌を貸し出していたが、しだいにマンガが占拠するようになる。


「ガロ」に登場


つげの困窮を聞きつけた長井勝一と白土三平は、『ガロ』誌上にて「つげ義春さん、連絡ください」と所在を尋ねる。それに応える形でつげはガロに創作の場を得ることになり、1965年「ガロ」8月号にて「噂の武士」を発表。以後、「ガロ」に作品を発表するようになる。


「ガロ」に参加し始めた当初のつげの作風は暗いリアリズム様式で、水木しげるや白土三平とよく似ており、基本的に読み切り形式だった。しかし、次第にシュルレアリスム風の独特の要素が作品に見られ始める。


1966年2月号の「沼」は、のちの「ねじ式」へと繋がるターニングポイントで、旅情の中に不思議なエロティシズムを秘めた作品である。蛇、銃、雁首など性を連想させるモチーフがシュルレアリスム風に表現されている。「沼」以降、つげ義春様式が一気に確立する流れになり、69年になって執筆を停止するまでの”奇跡の2年”が始まる。

紅い花


1967年「ガロ」10月号では、「ねじ式」と人気を二分する傑作「紅い花」を発表。


おかっぱ頭の少女キクチサヨコが初潮を迎えて大人になる話をシュルレアリスムに表現している。「紅い花」は、1976年にNHKドラマで、また1993年に石井輝男監督の「ゲンセンカン主人」で映像化もされている。

ねじ式


「ねじ式」は、1968年月刊『ガロ』6月増刊号「つげ義春特集」に発表されたもので、自身の夢をもとにして描かれたものであり、マンガ史上初めて作者が意識的にシュルレアリスム表現をマンガに取り入れた記念すべき作品である。

 

ただし、つげのシュルレアリスム理論は、フロイト理論を下敷きとしたブルトンのシュルレアリスム理論とは多少異なり、つげは精神医学的な「無意識」の表現に対しては批判的である。自身の作品は主観のない「無意味」「ナンセンス」の表現であると主張している。そのため、つげの主張を尊重するなら、その表現はダダイスムとの解釈も可能である。

 

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つげ義春「ねじ式」

「ねじ式」は、60年代後半に流行していた前衛芸術やアングラ芸術と関わりの深い人たちが強く反応。70年に青林堂から刊行された『つげ義春の世界』という評論集の執筆陣が、石子順造(美術評論家)、唐十郎(劇作家)、佐藤忠男(映画評論家)、鈴木志郎康(詩人)、谷川晃一(画家)といった具合からみても分かるようにつげの作品が話題になっていたのはおもにマンガ業界以外のカルチャーである。

「ねじ式」後


しかし、「ガロ」におけるつげの成功は、貧困から解放させたが、元来怠け癖のあるつげは、精力的になるどころか逆に精神的に衰弱して寡作となる。


1968年の「ガロ」8月号で「もっきりやの少女」を発表したあと、つげは一時的に九州に蒸発。1970年「ガロ」2・3月合併号の「やなぎや主人」まで作品を発表しなかった。(間に1970年1月に雑誌「現代コミック」で「蟹」を発表している)。そして、「やなぎや主人」が「ガロ」での最後の作品となった。

ガロに掲載された作品

日付

タイトル

1965年8月 噂の武士
1965年10月 西瓜酒
1965年12月 運命
1966年1月 不思議な絵
1966年2月
1966年3月 チーコ
1966年4月 初茸がり
1966年9月 古本と少女
1967年3月 通夜
1967年5月 山椒魚
1967年6月 李さん一家
1967年8月 峠の犬
1967年9月 海辺の情景
1967年10月 紅い花
1967年12月 西田部村事件
1968年1月 長八の宿
1968年2月 二岐渓谷
1968年4月

オンドル小屋

1968年6月 ほんやら洞のべんさん
1968年6月 ねじ式
1968年7月 ゲンセンカン主人
1968年8月 もっきりやの少女
1970年2・3月 やなぎ屋主人

つげ義春の近況について


「芸術新潮」にて表現論を語る


芸術新潮 2014年 01月号 にて、つげ義春のロングインタビューが行われており、25年以上の休筆、隠棲状態にあるつげが、今考えていることを6ページにわたって語っている。

 

自作とシュルレアリスムの関係のこと、精神的に不調がある息子のこと、好きな音楽、映画談義など内容は多岐にわたるが、自身の作品の表現論や哲学に関する内容が中心である。

 

つげは、自身の表現方法としてリアリズム(現実主義)にこだわっているが、リアリズムを追求すると自然とシュルレアリスム(超現実主義)にたどりつくという。現実を徹底化すると主観がなくなり、あるがままの状態になるので、脈絡のない断片化した世界観ができあがり、「ねじ式」が生まれたのだという。

 

 

以下が、つげのシュルレアリスムに関するインタビュー記事である。

 マンガは芸術じゃないとぼくは思ってますが、まあそれはいいとして、どんな芸術でも、最終的に意味を排除するのが目標だと思っているんですよ。なので意味のない夢を下敷きにした一連の夢ものを描いたり夢日記をつけたりしていたんです。

 

夢は誰もが経験するように強烈なリアル感、リアリティがありますから、長年こだわっていたリアリティを追求するということで夢に関心を持ち、そこから自然にシュルレアリスム風の「ねじ式」(68年)が生まれたんです。

 

自分の創作の基調はリアリズムだと思っているのですが、リアリズムは現実の事実に理想や幻想や主観など加えず「あるがまま」に直視することで、そこに何か意味を求めるものではないです。あるがままとは解釈や意味付けをしない状態のことですから、すべてはただそのままに現前しているだけで無意味といえますね。

 

レアリスムもリアリズムも仏語と英語の違いで語意は同じですから現実が無意味であるとの視点は共通しているわけですね。それでいながらシュルレアリスムの画像が非現実的な夢のような趣きになるのは、現実の無意味性を徹底的に凝視し、それを直截に表現するからなのでしょう。

 

意味がないと物ごとは連関性が失われ、すべては脈絡がなくなり断片化し、時間も消え、それがまさに夢の世界であり、現実の無意味を追求するシュール画が夢のようになるのは必然なのでしょう。現実も夢も無意味という点で一致するのでシュルレアリスムもリアリズムも目指している方向は同じではないかと思えるのです。

 

夢は眠ることによって目覚めているときの自己が消えて無我の状態ですね。すると文字通りの「無我夢中」になり、夢の中での状況を対象化したり意味付けや解釈をする余裕がなくなる。そのためすべてをモロに真にうけてしまい強烈なリアル感を覚えるのでしょう。対象化できないとすべては意味もなく現前していると思いますよ。

(つげ義春)

「東京人」にて生活を語る


また、東京人 2014年 07月号 でもつげ義春のロングインタビューが6ページにわたって行われており、こちらは現在の日常生活に関する内容が主である。特に精神的に不調のある息子との生活に関する内容は、非常に興味深いものとなっている。

 

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東京人-つげ義春の現在について

 

略年譜


   
1937年(0歳) ・東京葛飾で、伊豆大島の旅館の板前だった柘植一郎と妻ますの間に次男として生まれる。伊豆大島へ移動中の出産だったという。戸籍上は昭和12年10月30日生まれだが、実際には4月生まれ。
1941年(4歳)

・三男でのちにマンガ家となる忠男が誕生。

・母の郷里である千葉県大原(現在のいすみ市)の漁村小浜へ移動。父は東京の旅館へ出稼ぎに出て、めったに家に帰らなかった。

・大原町で幼稚園に入園するが、すでに自閉症で臆病な性格があらわれ、なじめず3日で退園。

1942年(5歳) ・父が出稼ぎの旅館でアジソン病にかかり死去。死の直前に見せた父の錯乱状態の姿に恐怖を覚える。
1943年(6歳)

・東京都葛飾区奥戸に転居。

・母は軍需工場で働く。

1944年(7歳)

・葛飾区立本田小学校に入学。この頃から絵を描き始めるようになる。

1945年(8歳)

・東京大空襲のあと、新潟県赤倉温泉へ学童疎開。

・終戦後、東京へ戻る。

1946年(9歳)

・葛飾区立石駅近くの廃墟のようなビルに無断入居。

・母が再婚。

・マンガや読み物に興味を覚える。「のらくろ」「長靴の三銃士」「タンクタンクロー」「冒険ダン吉」などのマンガや、雑誌『譚海」にふれる。

・生活が苦しく、立石駅前でアイスキャンディを売ったり、芝居小屋の雑用をしたりで、1年間学校に行かず。

1947年(10歳)

・立石駅前の闇市で母が居酒屋を経営するが半年ほどで廃業。

・妹が誕生し、ますます生活は苦しくなる。

1950年(13歳)

・小学校を卒業し、兄の勤め先のメッキ工場に就職。残業、徹夜作業のうえに給料遅配が続き、製函工、新聞店員と転職するが、再びメッキ工場に戻る。

1951年(14歳)

・養父の始めた縫製業を手伝う。

・養父の冷酷な仕打ちに耐えられず密航を企てて、横浜まで行くが船員に見つかり警察署で一晩を明かす。

1952年(15歳)

・再び横浜から密航を企てるも野島崎沖で発覚し、横須賀の田浦海上保安部に連行される。

1953年(16歳)

・ソバ屋に一年ほど勤めたあと、メッキ工員に戻る。

 
1954年(17歳)

・赤面癖がひどくなり、人に合うのが苦痛になる。そのため人に会わなくてすむマンガ家になろうと決意する。一人で部屋で空想したり、好きな絵を描いていられる商売は、他に思い当たらなかった

・手塚治虫を訪ね、プロになる決意を強める。その後、メッキ工場に勤めながらマンガを描く。

・雑誌『痛快ブック』(芳文社)の「犯人は誰だ!!」「きそうてんがい」で漫画家デビュー。

1955年(18歳)

・貸本マンガ『白面夜叉』で若木書房から単行本デビュー。原稿料は1冊分128ページ買い取りで3万円。つげ家は小切手を見たこともなければ、銀行にも縁がなかったためちょっとした大騒ぎとなった。

・若木書房で、永島慎二、遠藤政治と面識をもつが、山の手育ちの永島らに劣等感を抱く。

・女を知れば、ノイローゼが治ると思い、立石の赤線で女郎を買い初体験をする。

1956年(19歳)

・はやくも創作に行きづまり、先輩マンガ家・岡田晟のアシスタントをする。一緒に湯河原温泉にこもって制作をしたことも。

・高田馬場に下宿する。

1957年(20歳)

・墨田区錦糸町に下宿する。

1958年(21歳)

・女子美大生と同棲するが彼女の親の反対で破綻する。

1960年(23歳)

・コケシというアダ名の女性と大塚で同棲する。

・生活苦しく、マンガを描きながら内職をしたり、コケシとポーラ化粧品の訪問販売を行う。

1961年(24歳) ・貸本マンガ出版社三洋社の倒産とともに女性とも別れる。
1962年(25歳)

・錦糸町の下宿に戻り、家主経営の装飾屋に勤務。

・睡眠自殺をはかるが、未遂に終わる。

1965年(28歳)

「月刊漫画ガロ」に、作品を描くようになる。原稿料がひと月後で生活に困るので、しばらくのあいだ、青林堂にかわって白土三平が原稿料を立て替えていた。

1966年(29歳)

・「沼」発表。

・「チーコ」発表。

この二作によってこれまでの娯楽本位のマンガ作りから解放され、文学青年などから注目され始める。

・生活苦しく、水木しげるのアシスタントになるため調布に転居。

・友人と西多摩郡檜原村へ行ったことをきっかけに、旅に興味を持ち始める。

・赤目プロで白土三平のマネージャーをしていた岩崎稔に井伏文学を教えられる。

1968年(31歳)

・「ガロ臨時増刊号 つげ義春特集」に「ねじ式」を発表。

・精神状態が衰弱して自棄的になり、九州へ蒸発。

・13日間で帰京。

1970年(33歳)

・状況劇場の女優だった藤原マキと同居。藤原はつげを芸術家と勘違いして、ともにアングラ芸術運動をしてくれると思っていたようだが、つげは生活優先なので、あてが外れる。

1975年(38歳)

・マキが京王閣競輪場でアルバイト。

・長男・正助誕生とともに入籍する。

1976年(39歳)

・マンガの文庫ブームが起き、著作が予期せぬ売り上げを示す。貧困から遠のき、ますます創作から遠ざかる。

1977年(40歳)

・マキが癌を患い大塚の癌研病院に入院、手術は成功するが、大きな衝撃をうけ、心身ともに不調に陥る。心細くなり、弟・忠男のいる千葉県柏市に転居。以後、4年間は旅をせず。

1978年(41歳)

・調布に戻る。念願の住宅を入手。

・将来古本屋を開業するつもりで古本マンガを収集する。カメラ屋になる気持ちもあり、骨董品などで中古カメラも集める。

1980年(42歳)

・不安神経症のため、精神病院へ通院。憂鬱な日々。

1981年(44歳)

・マンガ家としての将来を案じ、古物商の免許を習得し、『ピント商会』を設立。副業として中古カメラの売買に手を出すが、不景気のあおりをうけ、翌年には開店休業状態に。

・「無能の人」の「石売り」も実際に挑戦してみたが、うまくいかず。

1983年(46歳)

・「小説現代」3〜12月号に「つげ義春日記」を連載。読物として誇張した私事を曝したことを妻に非難され、以後悶着が絶えなくなる。

1984年(47歳)

・新作掲載の場として季刊誌「COMICばく」が創刊されるが、マイナー意識の強い自分が主役にされて当惑。

1985年(48歳)

『無能の人』を刊行。

・神経症が発作性から慢性に移行。

1987年(50歳)

・不安神経症の強い発作に襲われ、仕事ができなくなる。そのため「COMICばく」も休刊。同誌13,14号掲載の「別離」以来、新作は発表していない。

・子どもに買い与えたファミコンでスーパーマリオ2をクリアする。

1991年(54歳)

・「無能の人」が映画化。

1999年(62歳)

・1月、母ますが死去。3月にはマキがなくなる。


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