サルバドール・ダリ略歴3「世界的スターへ」

世界的なスターに


『TIME』1936年12月号の表紙を飾るダリ
『TIME』1936年12月号の表紙を飾るダリ

ダリは1934年に前衛美術の画商ジュリアン・レヴィによってニューヨークへ紹介される。

 

『記憶の固執』を中心としたニューヨークでのダリの個展はすぐに評判になった。

 

また、アメリカの富豪集団「ソーシャル・レジスタ」がダリのために特別に催した企画「ダリ・ボール(DAli Ball)」で、ダリは胸にガラスケースのブラジャーを身に付けて現れ、話題になる。

 

同年、ダリとガラはコレクターで有名なカレス・クロスビーが開催するニューヨークの仮面舞踏会パーティに参加。当時リンドバーグの赤ちゃん誘拐事件が世間を騒がしていたころで、そこでダリはガラに血塗れの赤ちゃんの死体を模したドレスを着せ、頭にリンドバーグの赤ちゃんの血まみれの模型をのせて悦に入っていたという。

 

マスコミから非難が集中したものの、この事件はダリによると少し異なり、ガラは頭にリアルな子どもの人形を結びつけてはいたが、血塗られてはおらず、頭骨にアリが群がり、燐光を発するエビの足ではさまれていたものだったという。

 

1936年にダリはロンドン国際シュルレアリム展に参加。ダリは潜水服に身を包んだ姿で、ビリヤードのスティックを持ち、ロシアのボルゾイ犬を2匹引き連れて現れ「 Fantômes paranoiaques authentiques」という講演会を行った。

 

講演のため壇上に上がると、潜水服の重さのため演壇に寄りかからなければならなかった。講演は水中ヘルメットのガラスごしのため、聴衆はダリが何を言っているのか全くわからなかった。またこのとき潜水服の酸素供給がうまくいかず、ダリは窒息状態に陥る。

 

ダリが、しきりにボルトで固定されたヘルメットをはずしてくれ、とジェスチャーで訴えるが、聴衆にはダリのパフォーマンスだと思って、みんな笑いだす始末であった。幸い、聴衆のひとりが事の重大さに気づいた。スパナを使ってヘルメットをはずし、ダリはようやく助かることができた。

ジョゼフ・コーネルへの嫉妬


1936年に、ニューヨークのジュリアン・レヴィ・ギャラリーでジョゼフ・コーネルの初の映画作品「Rose Hobart」が上映され、ダリは別の事件のために有名になった。レヴィの短編シュルレアリム映画はニューヨーク近代美術館での最初のシュルレアリム展と同時開催することになり、美術館ではダリの作品がメインとなった。

 

ダリはコーネルの映画を観るために上映会場に聴衆とともにいたが、途中でフィルムを介して、彼は怒り始め、プロジェクターを叩き、コーネルにつかみかかり、「お前は俺の頭からアイディアを盗んだ!」とわめき散らした。

大パトロン エドワード・ジェイムズ


また、当時のダリの大パトロンは、イギリスの詩人で富豪のエドワード・ジェイムズだった。彼はダリの作品をたくさん購入して美術マーケットへのダリの進出をよく助けた。また彼らは「ロブスター電話」や「唇ソファ」などコラボレート作品を作り、長くシュルレアリスムムーブメントのイコンを務めた。

「ロブスター電話」(1936年)
「ロブスター電話」(1936年)
「唇ソファ」(1937年)
「唇ソファ」(1937年)

フロイトと面会


1938年に、ダリは若い時の彼のヒーローだったジグムント・フロイトとオーストリアの小説家シュテファン・ツヴァイクを通じて面会。フロイトのポートレイトを描いた。フロイトはのちにツヴァイクに送った手紙に


「これまで私はシュルレアリスト―彼らは私を守護神にしていたようですが―というものは、100パーセント(アルコール分を除けば95パーセントでしょうか)ばかだと思っていました。しかし、才気にあふれ、狂信的な目をしたスペイン人の若者は疑いもなく巨匠の腕をもっています。どうやら評価を変えなければならないようですね。」


と手紙を送っている。のちに、このことを聞いたダリは大変喜んだという。

ダリによるフロイトのポートレイト
ダリによるフロイトのポートレイト
ダリによるフロイトのポートレイト
ダリによるフロイトのポートレイト
ダリによるフロイトのポートレイト
ダリによるフロイトのポートレイト
ダリによるフロイトのポートレイト
ダリによるフロイトのポートレイト

ココ・シャネル


1939年、ダリはフランスのリビエラのロクブリュヌにあるガブリエル・ココシャネルの自宅「La Pause」に招待される。


そこでダリは巨大な絵画を描き、後にそれはニューヨークのジュリアン・レビー・ギャラリーで展示された。20世紀末にLa Pauseはダラス美術館によって一部複製され、リーブスコレクションやシャネルのオリジナル家具の一部として収蔵された。

シュルレアリスム・パビリオン


1938年に、ダリは2体のマネキンと自動車で構成されたインスタレーション作品「雨降りタクシー」を発表。国際シュルレアリスム展のパリの「Galerie Beaux-Arts」で、その一部が初めて展示された。オーガナイザーはアンドレ・ブルトンとポール・エリュアールで、マルセル・デュシャンが博覧会の設計をし、またホストを務めた。

 

1939年のニューヨーク国際博覧会で、ダリは博覧会のアミューズメントエリアにて、シュルレアリスムパビリオン「ヴィーナスの夢」を披露。それは奇妙な彫刻、彫像、妙なコスチュームをしたヌードモデルなどを特色とし、入場料金が課された。


1939年、アンドレ・ブルトンはダリにサルバドール・ダリの名前をもじったアナグラム「Avida Dollars(ドルの亡者)」というあだ名を付けた。これはダリの作品が年々商業主義的になっていくことを皮肉ったあだなで、一方、ダリは「名声」と「富」によってより自己肯定を求めて行った。

 

その後、多くのシュルレアリストたちはダリが死ぬまで極めて厳しい論争をしかけた。