【美術解説】チューリヒ・ダダ

チューリヒ・ダダ / Zurich Dada

ダダ運動の発祥地


ハンス・アルプとハンス・リヒターにかつがれたトリスタン・ツァラ
ハンス・アルプとハンス・リヒターにかつがれたトリスタン・ツァラ

概要


1916年、フーゴー・バル、エミリー・ヘンリング、トリスタン・ツァラ、ジャン・アルプ、ミハエル・ジャンコ、リヒャル・ヒュルゼンベック、ハンス・リヒターとその周辺の仲間たちは、スイス・チューリヒにあるキャバレー・ヴォルテールに集合して、美術の議論とパフォーマンスを行った。

 

ダダという言葉は、当時、チューリヒ大学の学生だったトリスタン・ツァラによるもので、ツァラによると『ラルース小辞典』から偶然見つけたとしているが、ほかにルーマニア語で二重の肯定という意味もあるという。


当初、ダダは宣言するほどの理論や思想はもっておらず、第一次世界大戦の嫌悪と既成の価値観への不信から発生し、それはただの乱痴気騒ぎに近いものだった。

 

1918年になってようやくツァラが『ダダ宣言1918』を発表。その思想は「ナンセンス」であり、チューリヒ・ダダの最大の攻撃目標は「言語」だった。「ダダは何も意味しない」、これがツァラたちのスローガンである。それは言語を作者がその意図を伝達するためのメッセージであることを拒否すること、ダダが主体としてまさに「何も意味しない」言語になることである。

 

言語破壊の表現方法としてダダが発明したのが、新聞記事の切れ端を袋に入れてかきまぜ、袋から出てくる順に写し取ってゆくという作詩法や、既成の文章を自分の文章のなかにでたらめに挿入するデペイズマン式の方法である。エルンストのコラージュ、デュシャンのレディ・メイドにも通じるところがある。この言語破壊はのちにシュルレアリスムの「自動記述」へ応用されることになる。なお、シュルレアリスムの「自動記述」とダダの「言語破壊」は性質が異なる。

フーゴー・バルによるパフォーマンス

キャバレー・ヴォルテール


キャバレー・ヴォルテールは、フーゴー・バルによって1916年2月5日に開店したキャバレー。チューリヒ・ダダの活動拠点として知られており、芸術家たちのグループが、芸術のためのサロンを作ることを目的としたものでもある。


キャバレーには、トリスタン・ツァラ、ハンス・アルプ、フーゴ・バル、リヒャルト・ヒュルゼンベックといった作家や芸術家、それに加え、当時の社会にあった軍国主義や権威主義の欺瞞に反対していた若い芸術家によって結成された。若者のほとんどがヨーロッパ大陸を席捲していた戦争からの、中立国のスイスへ亡命してきた者たちであった。


キャバレーの夜会では、第一次世界大戦の混沌と残酷をミラーリングするかのように、詩の朗読、ダンス、音楽が演奏され非常に喧噪的なものだった。

 

キャバレー・ヴォルテールは、当時存在していた現代美術の国際的運動の場として燃えていた。ヴォルテールのグループの各々はヨーロッパ各地の前衛活動と直接に結びつき、関係をもっているのが特徴だった。

偶然の発見


偶然の発見は、ダダの中心となる概念の1つである。ダダ創始者のメンバーの1人であるハンス・アルプは、いくつかの紙片を空中に放り投げ、それらが床やテーブルに着地した“偶然の配置”を生かしたコラージュ作品などを手がけていた。


ハンス・アルプは、当時、陳腐な抽象の線描をかいていた。しかし作品のイメージを無意識に描き、本当に望んでいる線描画を見つけ出すことに取り組んでいた。あるとき、彼は興奮して、その線描画を引き裂いて床に投げつけた。その散らばった紙片でできたランダムの形態が、最初にやろうと思っていた独特な形態になったので愕然としたようだ。

 

そしてこの「偶然」の芸術から、新聞に印刷された言葉を切り取ったものを成り行きまかせに並べたツァラの詩が誕生した。


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