【完全解説】パブロ・ピカソ「20世紀最大の芸術家」

パブロ・ピカソ / Pablo Picasso

20世紀最大の芸術家


パブロ・ピカソ「ゲルニカ」(1937年)
パブロ・ピカソ「ゲルニカ」(1937年)

概要


本名 パブロ、ディエーゴ、ホセー、フランシスコ・デ・パウラ、ホアン・ネポムセーノ、マリーア・デ・ロス・レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、デ・ラ・サンティシマ・トリニダード、ルイス・イ・ピカソ
生年月日

 1881年10月25日、スペイン、マラガ

死去日

1973年4月8日(91歳)、フランス、ムージャン

居住

ボーブナルグ城

国籍

スペイン

表現媒体

絵画、ドローイング、彫刻、版画、陶芸、舞台芸術、著述

代表作

アヴィニョンの娘たち

ゲルニカ

泣く女

表現スタイル

キュビスムシュルレアリスム

パブロ・ピカソ(1881年10月25日 - 1973年4月8日)は、成年期以降の大半をフランスで過ごしたスペインの画家、彫刻家、版画家、陶芸家、舞台デザイナー、詩人、劇作家。20世紀の芸術家に最も影響を与えた1人で、キュビスム・ムーブメントの創立者である。ほかにアッサンブラージュ彫刻の発明、コラージュを再発見するなど、ピカソの芸術スタイルは幅広く創造的であったことで知られる。

 

代表作は、キュビスム黎明期に制作した『アヴィニョンの娘たち』(1907年)や、スペイン市民戦争時にスペイン民族主義派の要請でドイツ空軍やイタリア空軍がスペイン市民を爆撃した光景を描いた『ゲルニカ』(1937年)である。

 

ピカソ、アンリ・マティスマルセル・デュシャンの3人は、20世紀初頭の視覚美術における革命的な発展を担った芸術家で、絵画だけでなく、彫刻、版画、陶芸など幅広い視覚美術分野における発展を担った。

 

ピカソの美術的評価は、おおよそ20世紀初頭の数十年間とされており、また作品は一般的に「青の時代」(1901-1904)、「ばら色の時代」(1904-1906)、「アフリカ彫刻の時代」(1907-1909)、「分析的キュビスム」(1909-1912)、「総合的キュビスム」(1912-1919)に分類されて解説や議論が行われる。

 

2015年5月11日にニューヨークのクリスティーズで『アルジェの女たち』が競売にかけられ、約1億7900万ドル(約215億円)で落札され、オークション史上最高価格を記録した。今後もオークションで価格が上昇すると思われる巨匠である。


マーケット情報


現在、アート・マーケットで流通しているピカソ作品の中で最も高価格なのは2015年5月11日にニューヨーク・クリスィーズで競売にかけられた『アルジェの女たち』で、179.4百万ドルである。

 

次いで2013年にプライベート・セールで販売された『夢』が155百万ドル、2004年にニューヨーク・サザビーズで競売にかけられた『パイプを持つ少年』が130.5百万ドル、2010年5月4日にニューヨーク・クリスティーズで競売にかけられた『ヌード、観葉植物と胸像』が115.5百万ドル、2006年5月3日にニューヨーク・サザビーズで競売にかけられた『ドラ・マールと猫』が111.8百万ドルとなっている。

作品解説


人生
人生
老いたギター弾き
老いたギター弾き
サルタバンクの家族
サルタバンクの家族
アヴィニョンの娘たち
アヴィニョンの娘たち

ドラ・マールと猫
ドラ・マールと猫
鏡の前の少女
鏡の前の少女
泣く女
泣く女
おもちゃの舟で遊ぶ少女(マヤ・ピカソ)
おもちゃの舟で遊ぶ少女(マヤ・ピカソ)

花を持つ女
花を持つ女
夢
ヌード、観葉植物と胸像
ヌード、観葉植物と胸像
アルジェの女たち
アルジェの女たち

母と子
母と子
シカゴピカソ
シカゴピカソ
読書
読書
黒椅子の上のヌード
黒椅子の上のヌード

ゲルニカ
ゲルニカ
女性の胸像(マリー・テレーズ)
女性の胸像(マリー・テレーズ)
朝鮮の虐殺
朝鮮の虐殺
マンドリンを弾く少女
マンドリンを弾く少女

ピカソのモデルたち


フェルナンド・オリヴィエ
フェルナンド・オリヴィエ
オルガ・コクラヴァ
オルガ・コクラヴァ
マリー・テレーズ・ウォルター
マリー・テレーズ・ウォルター
ドラ・マール
ドラ・マール

フランソワーズ・ジロー
フランソワーズ・ジロー
ジャクリーヌ・ロック
ジャクリーヌ・ロック

略歴


幼少期


ピカソと妹のローラ。(1889年)
ピカソと妹のローラ。(1889年)

ピカソの洗礼名は、パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・レメディオス・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダードで、聖人や親戚の名前を並べたものである。フルネームはこの後に、スペインの法律に基いて父親の第一姓ルイス (Ruiz) と母親の第一姓ピカソ (Picasso) が続く。


ピカソは、1881年10月25日、スペインのアンダルシア州マラガで、父親のホセ・ルイス・イ・ブラスコと母親のマリア・ピカソ・イ・ロペスの長男として生まれた。

 

カトリックの洗礼を受けているにも関わらず、ピカソはのちに無神論者になる。ピカソの家族は、ミドル・クラスで、父のルイスは自然主義的な技法で鳥を描くのが好きな画家。美術学校の教師や小さな美術館の館長も務めていた。ルイスの先祖は貴族だったといわれる。


ピカソは幼少期のころからドローイングの才能を見せていた。ピカソの母によれば、ピカソが最初に発した言葉は「ピザ・ピザ」。スペイン語で「鉛筆」のことを"lápiz"といい、その短縮形が"piz(ピザ)”である。


7歳のときからピカソは、画家の父親からドローイングや油絵の正式な的訓練を受けた。ルイスは伝統的な美術スタイルの美術家であり、また教育者だったので、古典巨匠の模写、石膏像を使った人物像や生身の人物のデッサンを通じた美術訓練の必要性を固く信じてピカソを教育していた。


1891年にピカソ一家はガリシア州ア・コルーニャに移動し、そこで父は美術学校の教授となる。一家は4年ほどア・コルーニャに滞在していた。ある日、ルイスは未完成のピカソの鳩のスケッチを発見し、息子の技術精度をチェックしたところ、自分自身はもう13歳の息子に追い越されたとショックを受け、以後、絵を描くことをやめるのを誓ったという。(作り話といわれ、ルイスの絵は晩年のものもある)。

 

1895年、ピカソは7歳の妹コンチータがジフテリアで亡くなり心に大きな傷を負った。妹の死後、家族はバルセロナに移動し。そこでルイスは美術学校の教職に就いた。ルイスはピカソが高度なクラスの入学試験が受験できるよう、「ラ・ロンハ」という美術大学の職員を強く説得した。


入学試験は本来は一ヶ月かかる課題だったが、ピカソの場合は1周間で完璧に仕上げて試験官を驚かせ、わずか13歳で上級の入学試験を突破した。この時代のピカソの素行は、規律を破り、あまり良くない生徒だったが、その後の人生の中でピカソに影響を与える友情も培ったという。ルイスは家の近くに小さな部屋を借りてピカソに貸し与え、ピカソはそこで1人で絵を描き始める。ピカソは一日に何度もドローイングを描きあげては、父に絵を見せチェックしてもらい、二人はよく絵の議論を行ったという。

 

ピカソの父と叔父は、ピカソをマドリードにあるサンフェルナンド王立アカデミーに進学させることに決める。16歳のときにピカソは初めて独り立ちすることになったが、学校授業を嫌い、入学後すぐに授業に出るのをやめ中退する。マドリードの町には学校よりも多くの魅力があり、プラド美術館に足を運び、ディエゴ・ベラスケス、フランシスコ・ゴヤ、フランシスコ·デ·スルバランの絵に感銘を受けた。特にエル・グレコの作品の細長い手足、色彩、神秘的な顔立ちに影響を受け、後年、それらグレコの要素はピカソにも見れるようになった。

1900年以前


パブロ・ピカソ「初聖体拝領」(1896年)
パブロ・ピカソ「初聖体拝領」(1896年)

父による美術教育は1890年以前から始まっている。ピカソの絵の発展は、バルセロナのピカソ美術館に現在保存されている初期作品のコレクションからたどることができる。


コレクションから分析すると、1893年頃の少年期のピカソ作品はまだクオリティ低かったが、1894年から急激に質が向上しており、このことから、1894年から本格的に画家を志し始めていることが分かる。

 

1890年代半ばからアカデミックに洗練された写実的な技巧が、たとえば、14歳の頃にピカソの妹ローラを描いた「初聖体拝領」 (1896)や、「叔母ペーパの肖像」(1896年)などの作品によく現れているのが分かる。

 

美術評論家のファン・エドワード・シロットは「叔母ペーパの肖像」をスペイン全美術史において疑う余地なしに最も優れた作品の1つ」と評価した。

パブロ・ピカソ「カフェの女」(1901-1902年)
パブロ・ピカソ「カフェの女」(1901-1902年)

1897年、非自然的な紫や緑のカラーが描写されるようになった風景画シリーズから、ピカソの絵には象徴主義の影響が見られるようになる。


この頃からピカソのモダニズム時代(1899-1900年)と呼ばれる時代が始まる。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、テオフィル・アレクサンドル・スタンラン、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、エドヴァルド・ムンクへといった象徴主義とエル・グレコのような好きな古典巨匠を融合させたピカソ独自のモダニズム絵画が制作された。


1900年にピカソは初めて当時のヨーロッパの芸術の首都パリに旅行し、そこで、ピカソは初めてのパリの友人でジャーナリストで詩人のマックス・ジャコブと出会った。ピカソはジャコブからフランス語や文学を学んだ。


その後彼らはアパートをシェアすることになり、ジャコブが夜寝ている、ピカソは起きて制作し、ジャコブが起きて仕事に行く昼にピカソは寝ていた。この頃は深刻な貧国と寒さと絶望の時代のときで、制作した作品の多くは小さな部屋で暖をとるために薪代わりにされた。


1901年の最初の5ヶ月間、ピカソはマドリードに住み、そこでアナーキストの友人フランシスコ·デ·アシス・ソレルと雑誌『Arte Joven』を発刊し、5号出版された。ソレルが記事を書き、ピカソが挿絵を担当するジャーナル雑誌で、貧しい人々の共感を得た現実主義的なマンガを描いていた。最初の号は1901年3月31日に出版され、そのときにピカソは作品に「Picasso」と正式な画家のサインを署名しはじめた。(それ以前は「Pablo Ruiz y Picasso」だった。)(続く)

青の時代


パブロ・ピカソ「人生」(1903年)。「青の時代」の集大成ともいえる作品。左側にカザジェマスと愛人ジュルメール、右側に子供を抱く痩せた母親を描き、間に失意と絶望を感じさせる二枚の絵が挟み込まれている。
パブロ・ピカソ「人生」(1903年)。「青の時代」の集大成ともいえる作品。左側にカザジェマスと愛人ジュルメール、右側に子供を抱く痩せた母親を描き、間に失意と絶望を感じさせる二枚の絵が挟み込まれている。

ピカソの「青の時代」(1901-1904年)は、薄暗い青や青緑とまれに現れる暖色系の色で描かれた陰鬱な絵画が特徴で、1901年初頭に滞在していたいスペインか、1901年下半期から移住したパリ時代から始まる。

 

「青の時代」に制作された絵画の多くは母子像で、ピカソがバルセロナとパリで過ごした時間を分離していた時期である。色の厳格な使い方やときに憂鬱で沈んだ主題では、売春婦と乞食が頻繁にモチーフとなっている。

 

また、ピカソはスペイン旅行や友人カルロス・カサヘマスの自殺にショックを受けていた時期で、カサヘマスの死後、1901年秋ごろからサジェマスを題材に何枚かの絵画を残している。

 

1903年、ピカソは青の時代の最後のそして最高傑作である「人生(La vie)」を完成させ、次の色彩のバラ色の時代へと力強く踏み出すことになる。「人生」は現在、アメリカのクリーブランド美術館に所蔵されている。

 

「青の時代」でほかによく知られている作品は、テーブルに腰掛けている盲人男性と晴眼女性を描いたエッチング作品「貧しき食事」(1904年)や「ラ・レスティーナ」(1903年)や「盲人の食事」(1903年)で、盲目は「青の時代」のピカソ作品で繰り返し現れるモチーフである。(続く)

パブロ・ピカソ「貧しき食事」(1904年)
パブロ・ピカソ「貧しき食事」(1904年)
パブロ・ピカソ「ラ・セレスティーナ」(1903年)
パブロ・ピカソ「ラ・セレスティーナ」(1903年)
パブロ・ピカソ「盲人の食事」(1903年)
パブロ・ピカソ「盲人の食事」(1903年)

バラ色の時代


パブロ・ピカソ「パイプを持つ少年」(1905年)
パブロ・ピカソ「パイプを持つ少年」(1905年)

「バラ色の時代」(1904-1906年)はオレンジとピンクが基調の陽気な色合いと、「サルタバンクの一家」の絵画が代表的なものであるように、フランスの多くのサーカス団の人々、曲芸、道化師が描かれるのが特徴である。

 

作品のなかのチェック柄の衣服を付けた道化師は、ピカソの個人的シンボルとなった。

 

また1904年にパリでピカソは、ボヘミアンアーティストのフェルナンド・オリヴィエと出会った。オリヴィエは、「ばら色の時代」の多くの絵画に登場するモチーフで、暖色系のカラーは、フランス絵画の影響に加えてオリヴィエとの関係が影響している。

 

恋人オリヴィエと旅行した、スペイン、カタルーニャ高地の人里離れた村ゴソルで描いた作品では、黄土色系のバラ色が多く使われており、この色が後に「バラ色の時代」の呼び名を生む由来となった。

パブロ・ピカソ「ガートルード・シュタインのポートレイト」(1906年)
パブロ・ピカソ「ガートルード・シュタインのポートレイト」(1906年)

1905年頃までに、ピカソはアメリカ人コレクターのレオ・シュタインとガートルード・シュタインのお気に入り作家となった。

 

彼らの兄のミヒャエル・シュタインとその妻のサラもまたピカソのコレクターとなった。ピカソはガートルード・シュタインと彼女の甥のアラン・シュタインの二人のポートレイトを描いた。

 

ガートルード・シュタインはピカソの主要なパトロンとなり、彼のドローイングや絵画や購入し、パリにある彼女のサロンで展覧会も行った。また、1905年彼女のパーティでピカソは、アンリ・マティスと出会い、以後終生の友人でありライバルとなった。ステイン一家はほかにピカソを、コレクターのコーン姉妹やアメリカ人コレクターで妹のエッタにも紹介した。

 

1907年にピカソは、ダニエル·ヘンリー·カーンワイラーがパリに開いた画廊に参加。カーンワイラーはドイツ美術史家でコレクターであり、20世紀の主要なフランス人アートコレクターの1人となった。彼はパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックらが共同発明したキュビスムの最初の最重要支援者であった。彼はアンドレ・ドランやキース・ヴァン・ドンゲン、フェルナンド・レジェ、フアン・グリス、ブラマンケや、当時世界中からやってきてモンパルナスに住んでいたさまざまな画家の成長を支援した。

アフリカ彫刻の時代


パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907年)
パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907年)

ピカソの「アフリカ彫刻の時代」(1907-1909年)は、作品右側の二人の女性の顔の造形がアフリカ彫刻の影響が見られる『アヴィニョンの娘たち』から始まる。この時期に発明されたアイデアは、次のキュビスムの時期に直接受け継がれていく。

キュビスム


パブロ・ピカソ「マンドリンを持つ少女」(1910年)
パブロ・ピカソ「マンドリンを持つ少女」(1910年)

分析的キュビスム(1909-1912年)は、ジョルジュ・ブラックともに開発した茶色がかったモノクロと中間色が特徴の絵画様式である。代表作品は『マンドリンを弾く少女』

 

分析的キュビスムは、ある立体が小さな切子面にいったん分解され、再構成された絵画である。「自然の中のすべての形態を円筒、球、円錐で処理する」というポール・セザンヌの言葉をヒントに、明暗法や遠近法を使わない立体表現を発展させた。

 

キュビスム表現により多面的な視覚効果が可能となり、それは万華鏡的をのぞいた時の感じに近いともいえるが、キュビスムにはシンメトリーや幾何学模様のような法則性はない。

 

総合的キュビズム(1912-1919年)は、文字、新聞の切り抜き、木目を印刷した壁紙、あるいは額縁代わりに使われたロープなど、本来の絵とは異質の、それも日常的な、身近な世界にあるものが画面に導入される。

 

こうした技法はコラージュ、それが紙の場合はパピエ・コレと呼ばれる。まったくそれぞれ関係のなさそうな断片をうまくつなぎあわせて新しい対象を創造しようというかんじではないだろう。また、アッサンブラージュの先駆けともいえる。

 

パリでピカソは、この時期にモントマルテやモンパルナスにいるアンドレ・ブルトンやギョーム・アポリネール、アルフレッド・ジャリ、ガートルードといった著名な友人グループを楽しませた。アポリネールは、1911年にルーブル美術館から「モナリザ」を盗んだ疑いで逮捕された。尋問時には友人のピカソも嫌疑をかけらたものの、後に二人とも無罪として釈放された。

新古典主義


1917年2月に、ピカソはイタリアを初めて旅行。第一次世界大戦の激動の時代下でピカソは多くの新古典主義スタイルの作品を制作した。この「古典回帰」は、アンドレ・ドラン、ジョルジョ・デ・キリコや新即物主義ムーブメントや1920年代に多くのヨーロッパの芸術家の作品において普遍的に見られた傾向である。ピカソの絵やドローイングはしばしばラファエルやアングルから影響したものが見られた。この時期の代表作は「母と子」などがある。

「眠っている農民」1919年
「眠っている農民」1919年

シュルレアリスム


「ゲルニカ」1937年
「ゲルニカ」1937年

1925年にアンドレ・ブルトンは、シュルレアリスム機関誌『シュルレアリスム革命』においてピカソをシュルレアリストと記事を書き、また『アヴィニョンの娘たち』がヨーロッパで初めて同じ号に掲載された。

 

1925年に初めて開催されたシュルレアリスム・グループの展覧会にピカソは参加。しかしこの段階では、まだピカソはキュビスム作品だった。展示された作品は、「シュルレアリスム宣言」で義された心の純粋な動きを描くオートマティスムがコンセプトだったが、完全な状態とはいえないもので、自分自身の感情を表現するための新しい様式や図像を発展させている段階だったといえる。

 

「暴力、精神的な不安、エロティズムの芸術的昇華は、1909年からかなり現れていた」と美術史家のメリッサ・マッキランは書いている。ピカソにとってのシュルレアリスム時代は、古典主義への回帰に続くプリミティヴィズムやエロティシズムへの回帰といっていいだろう。

 

1930年代の間、道化師に代わってミノトールが、作品上のピカソの共通のモチーフとして使われ始めた。ミノトールは一部にシュルレアリスムとの接触から由来しており、よく象徴的な意味合で利用される。「ゲルニカ」でもミノトールは描かれている。この時代、ミノトールのほかにピカソの愛人マリー・テレーズ・ウォルターが、有名なエッチング作品「ヴォラール・スイート」で描かれている。なおゲルニカにはマリー・テレーズ・ウォルターとドラ・マールが描かれている。

 

1939年から40年にニューヨークの近代美術館で、ピカソ愛好家で知られるアルフレッド・バルの企画のもと、ピカソの主要作品を展示する回顧展が行われた。

 

おそらくピカソの最も有名な作品は、スペイン市民戦争時におけるドイツ軍のゲルニカ空爆を描いた「ゲルニカ」である。この巨大なキャンバスにピカソは、多くの非人間性、残虐性、戦争の絶望性を体現した。ゲルニカは長い間ニューヨーク現代美術館に展示されていた。1981年に作品はスペインに返却され、マドリードのプラド美術館別館(カソン・デル・ブエン・レティーロ)に展示された。1992年の国立ソフィア王妃芸術センター開館時に「ゲルニカ」は移転されて展示された。

ナチス占領時代


Desire Caught by the Tail
Desire Caught by the Tail

第二次世界大戦の間、ドイツ軍がパリを占領したときでもピカソはパリに残っていた。

 

ピカソの美術様式はナチスの芸術的な理想と合わなかったため、この時代、ピカソは展示することができなかった。よくゲシュタポから嫌がらせをあった。アパートの家宅捜索の際、将官たちは「ゲルニカ」作品の写真を見て、「これはお前が描いたのか?」と質問されたとき、ピカソは「ちがう、お前たちがやった(空爆)」と答えたという。

 

スタジオを撤収してからもピカソは「Still Life with Guitar」 (1942) や「The Charnel House 」(1944–48)といった作品の制作をし続けた。ドイツ人がパリでブロンズ像制作を非合法化するものの、ピカソはフランス・レジスタンスからブロンズを密輸して彫刻の制作をし続けた。

 

この頃ピカソは、芸術の代替的手段として書き物をしていた。1935年から1959年の間に300以上の詩を制作している。制作日時や制作場所をのぞいて大部分は無題だった。それらの作品内容は、エロティックでときにスカトロジー的なものもあり、「Desire Caught by the Tail」と「The Four Little Girls」のような演劇作品もあった。

戦後


1944年、パリが解放されたときピカソは63歳で、若い女子美大生フランソワーズ・ジローと恋愛関係に入った。彼女はピカソよりも40歳年下だった。

 

ピカソはすでにドラ・マールとの恋愛に疲れ、ジローと同棲するようになった。彼女との間に二人の子どもが生まれた。1947年に生まれたクラウドと1949年に生まれたパロマである。

 

ジローが1964年に出版した「ピカソとの人生」で、ジローはピカソのドメスティック・バイオレンスや子どもやジローを放って不倫していたピカソの日常生活の実態を暴露した。

 

たとえば、ジローのパロマを出産後、体調を壊したフランソワーズに対してピカソは 「女は子供を産むと魅力を増すものなのに、なんたるざまだ」と突き放し、言い返す気力もない彼女に「怒るか泣くかしてみろ」と挑発した。ところが別れ話になると、「私に発見された恩を返せ」と激怒し、ついには「私のような男を捨てる女はいない」とまで言ったという。

 

1953年、ピカソの虐待に耐え切れなくなったジローは子どもを連れてパリに帰り、画家として自立への道を歩み始める。2年後、彼女が画家のリュック・シモンと結婚して娘を産むと、ピカソは逆上し、画商とギャラリーに彼女との仕事を継続しないよう圧力をかけてきたという。

晩年


「シカゴ・ピカソ」
「シカゴ・ピカソ」

ピカソは、1949年半ばにフィラデルフィア美術館で開催された「第三回国際彫刻展」で250の彫刻作品の1つを展示。1950年代にピカソのスタイルは再び変化し、個展巨匠作品の再解釈とオマージュのような作品制作を始めるようになる。

 

ベラスケスの「女官たち」を基盤としたシリーズ作品などが有名である。ほかにもゴヤ、マネ、プッサン、クールベ、ドラクロアの作品を基板したオマージュ作品を制作している。

 

ピカソはシカゴで建設予定の50フィートの大きさの公共彫刻の模型の依頼を受ける。それは普通「シカゴ・ピカソ」という名前で知られている。ピカソは多大な熱意をもってその彫刻プロジェクトの依頼を受けたが、やや曖昧で物議を醸した彫刻のデザインとなった。彫刻はシカゴの下町で最も有名なランドマークの1つとなり、1967年に完成。ピカソは報酬金10万ドルを拒否して、町へ寄付した。

 

ピカソの最後の作品はさまざまなスタイルを融合したもので、晩年まで定期的に作品が変化していった。晩年のピカソはより仕事にエネルギーを注ぎ込み、これまで以上に大胆でカラフルなプリミティブな作品に変化した。

 

1968年から1971年までピカソは何百もの絵画や銅版画を生産。ただこれらの作品は、全盛期を過ぎた無力な老人のポルノ・ファンタジーとして、なげやり的な作品として一般的には低い評価をされることになった。

 

ピカソ死後、80年代にアート・ワールドで新表現主義が流行りはじめると、晩年のピカソは新表現主義を先取りしていたと評価されるようになった。

ピカソの死


パブロ・ピカソは1973年4月8日、フランスのムージャンで死去。92歳だった。エクス·アン·プロヴァンス近郊のヴォヴナルグ城に埋葬された。

 

ヴォヴナルグ城は1958にピカソが購入して、59年からジャクリーヌ・ロックと一時的に住んでいた城だった。ピカソの膨大な作品がここに保管された。何百というピカソの作品と蔵書などがこの城に移され、城はさながらピカソの個人美術館のような呈をなした。

 

ジャクリーヌ・ロックはピカソの子どものクロードやパロマの葬儀への出席を断った。ピカソの死後、ジャクリーン・ロックは、精神的な荒廃と孤独に苛まれ、1986年に59歳のとき銃で自殺した。

 

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コメント: 1
  • #1

    Masao Tanaka (土曜日, 08 8月 2015 17:44)

    ピカソの生涯が端的にまとめられていて、大変参考になりました。私は、ピカソの初期作品が好きですが、本当に変遷した生涯だったかと思います。