225.金子國義「女の循環」

金子國義 / Kuniyoshi Kaneko

女の循環


「王女に扮したアリス」2005年
「王女に扮したアリス」2005年

概要


金子國義(1936年7月23日 - 2015年3月16日)は日本の画家、イラストレーター、写真家、舞台デザイナー。


デザイン会社退社後、独学で絵を描き始める。その独特の画風が澁澤龍彦の目に留まり、『O嬢の物語』の挿絵を手がけることになる。澁澤の金子評は「プリミティブだ。いや、バルテュスだ」。翌年、澁澤の紹介により青木画廊にて「花咲く乙女たち」を開き、正式に画家としての活動を始める。


イタリア旅行の際にジョルジオ・ソアビとの出会いがきっかけで絵本「不思議の国のアリス」を刊行。以後、アリスは金子のイラストレーション作品の代表的なモチーフとなり、また金子自体もアリスに思い入れが大きく、死ぬまでアリスシリーズを描き続ける。


90年には写真家としても活動を始める。「お遊戯」「Drink Me Eat Me」「Vamp」など挑発的な女性のポートレイト写真集を刊行。


2015年3月16日午後、虚血性心不全のため東京都品川区の自宅で死去。78歳没。

略年譜


   
1936年 ・7月23日、埼玉県蕨市に生まれる。四人兄弟の末ッ子(兄二人、姉一人)。生家は織物業を営む裕福な家庭で、特別に可愛がられて育った。
1938年

・クレヨンで夕焼けの景色を巧みに描き、母を驚かせる。

1940年 ・母と叔父に連れられ、東京宝塚劇場にて、少女歌劇「ローレライ」を観る。
1943年 ・蕨第一国民学校(現・蕨北小学校)入学。特に図画工作、習字に秀でる。華やかなものに憧れ、映画に影響をうけて衣装をつけて踊ったり、絵を描くとほとんどリボンをつけた人形だった。
1947年

・学芸会で「月の砂漠」に王子の役で出演。自分のコスチュームを自分なりにデザインする。

1949年

・東京・駒込のミッションスクール、聖学院中学校に入学。

「門を入ると西洋だったという感じで、ポーのウィリアム・ウィルスンの世界でした。アーサー・クラークの英国怪奇映画の中にいるみたいで、学校に行くのが愉しくてしょうがなかった」

1950年

・級友で幼なじみの五十嵐昌と銀座教会の日曜学校に通う。この教会に通っていたのが、おしゃれな少年少女ばかりであったのも、教会通いが続いた理由の1つ。

「春先になると誰よりも早く半ズボンを穿きシャツの裾にゴムを入れるような男の子でしたから、日曜学校通いも、おしゃれ志向の現れだったんでしょう。」(『エロスの劇場』)

ソニア・アロアやノラ・ケイの来日バレエ公演を観て憧れ、ひそかにバレエのレッスンにも通う。そのかたわら、古流松濤会の花、江戸千家の茶道も習い始める。

1952年

・聖学院高等学校に進学。映画狂時代。『巴里のアメリカ人』『ローマの休日』などが印象に残る。歌舞伎や新劇にも熱中する。

1954年

・『麗しのサブリナ』のコスチューム・ディレクター、イーデス・ヘッドによって、コスチューム・ファッションの魅力に開眼。『ハーパース・バザー』『ヴォーグ』誌などを洋書店や古本屋で見つけては買って読み、スタイル画に熱中する。

1955年

・東京芸術大学を受験するも不合格。新橋の光風会デッサン研究所に通う。

1956年

・日本大学芸術学部デザイン科入学。しかし遊ぶことが好きだったから、歌舞伎や明治座、新橋演舞場をまわり芝居の稽古ばかりする。

1957年

・若手舞踊家の集まり「二十日会」を結成。第一回公演「わがままな巨人」(大和ホール)で、春陽会・舞台美術部門に入選。

・草月流生け花を習い始める。

1958年

・「東をどり」(新橋演舞場)、「名古屋をどり」(名古屋・御園座)で「青海波」の舞台美術を担当。

1959年

・大学卒業後、東京・麹町で一人暮らしを始める。新宿のジャズ喫茶に通い、川井昭一四谷シモン内藤ルネ本間真夫白石かずこ篠山紀信江波杏子コシノジュンコらを知る。

1960年

・デザイン会社に入社するが、3ヶ月で解雇。なんとなく音楽が聞こえないと落ち着かないので、仕事中に踊りだし始めたのがクビの理由だった。その後、スタジオ・グラフィスでビクターのソノシートのデザインなどを手がけるも翌年退社。

1964年

・東京・四谷左門町に引っ越す。独学で油絵を描き始める。自分の部屋に絵を飾るために絵を描き始めたのがきっかけ画家・金子國義となる転機といえる年である。

1965年

・この頃、高橋睦郎澁澤龍彦らと知り合う。澁澤「プリミティブだ。いや、バルテュスだ」と金子の自室に飾られた作品を見て感想を述べる。

1966年

・唐十郎を知り、その誘いで新宿のジャズ喫茶「ビットイン」公演の状況劇場「ジョン・シルバー望郷篇」の舞台美術を担当、四谷もも子の薬名で女形としても出演。澁澤龍彦の勧めにより個展の準備に入る。

1967年

・状況劇場「ジョン・シルバー望郷編」(新宿ビットイン)の舞台美術・四谷シモンと共演。

・状況劇場「ジョン・シルバー新宿恋しや世鳴き篇」(草月ホール)の舞台美術/李礼仙(李麗仙)と共演。

・銀座・青木画廊にて初個展「花咲く乙女たち」を開催。

1968年

・「唐十郎 愛のリサイタル」(新宿文化劇場)に出演。

・映画『うたかたの恋』の美術を担当。

・夏、鎌倉海岸で出会った日大応援団の面々との交流が、のちの写真シリーズ『寄宿舎』のエスキースとなる。

1969年

・映画『新宿泥棒日記』に特別出演。

1971年

・ミラノ・ナビリオ画廊にて個展開催。

・『婦人公論』1月号より表紙画を担当。

1972年

・東京・大森に転居したのち、脚を骨折。占い師の勧めで、西に方違えをするため再びミラノへ行ったところ、オリベッティ社のアート・ディレクター、ジョルジオ・ソアビに出会う。

1974年

・オリベッティ社より、絵本『不思議の国のアリス』刊行

1975年

・生田耕作訳『バタイユ作品集/マダム・エドワルダ』の装幀・挿絵を担当。バタイユのエロティシズム溢れる世界は、まるで合わせ鏡で見たような金子の大好きな物語で、その中にあっさりと入り込んでいったとか。

1977年

・『アリスの夢』制作中の2月、自宅階段から落ちて肋骨を折る大怪我。この時に見たレントゲン写真と、主治医からもらった解剖学の書物が、『アリスの夢』に大きな影響を与える。

1978年 ・赤木仁が内弟子となる。
1980年

・バレエ「アリスの夢-金子國義とバレエ・ダンサーたち」(原宿ラフォーレミュージアム)の構成・演出・美術を担当。

1981年

・バレエ「アリスの夢」再構成版(西武劇場)を上演。

1982年

・「第二回雀右衛門の会」(草月ホール)、坂口安吾作『桜の森の満開の下』の美術を担当。

1983年

・バレエ「オルペウス」(西武劇場)の構成・演出・美術を担当。

・加藤和彦のアルバム『あの頃、マリー・ローランサン』のジャケットデザインを手がける。

1984年

・5月〜86年9月まで、ハナエモリビル(表参道)のウィンドー・ディスプレイを手がける。

・流行通信別冊・メンズ版『X-MEN』の表紙画を担当。

・コシミハルのアルバム『パラレリズム』のジャケットデザインを手がける。

1987年

・舞台「echo de MIHARU」のパンフレットとステージデザインを担当。

1988年

・雑誌『ユリイカ』1月号より表紙画・装幀を担当。

・加藤和彦のアルバム『ベル・エキセントリック』のジャケットデザインを手がける。

1990年

・映画『シンデレラ・エクスプレス』の宣伝美術、特別出演。

1992年

・銅版画の制作を始める。

1993年

本格的に写真を撮り始める

・松山バレエ団公演『シンデレラ』のパンフレット表紙画を手がける。

1996年

・モデルを伴い、イタリアへ撮影旅行。

・「天使の妖精展」をプロデュース。

1997年

・フランスに旅行。滞在中に、マダム・エドワルダをモチーフにしたドローイングを描き始める。

1998年

・東京・神田神保町に「美術倶楽部ひぐらし」を開設。

・国立劇場にて日舞・長唄の「黒髪」を舞う。

・『みだらな扉』の撮影のため、モデル・濱田のり子を伴い、再度フランスへ。

1999年

・NICAF'99 TOKYOに作品出展(早川画廊)。

2000年

・オリジナルの訳文・挿絵による絵本「不思議の国のアリス」を刊行。「僕のアリスは、物語よりもむしろ、ルイス・キャロルが撮ったアリスの写真に触発されて生まれたもの。少女特有の、どこかエロティシズム漂う危険な世界。だから、アリスをちょっと冒険させれば『眼球譚』のシモーヌになるし、さらに大人にすれば『マダム・エドワルダ』になる。そういう具合に、僕の中で、アリス(純粋無垢)、シモーヌ(思春期少女)、エドワルダ(娼婦)は、僕が描きたいものとして自然な流れで循環していく」。


(プリンツ21「金子國義」特集号)より

四谷シモンの金子國義解説



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