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【美術解説】オーブリー・ビアズリー「耽美主義と装飾芸術の融合」

オーブリー・ビアズリー / Aubrey Beardsley

耽美主義と装飾芸術の融合


オーブリー・ビアズリーは、耽美主義の中心的な芸術家の一人であり、アール・ヌーヴォーの創始者の一人として位置づけられている重要な人物です。ほかの画家たちが次々とそのスタイルを模倣し、日本でも多くの少女漫画でビアズリーの影響が見られます。本記事では、オーブリー・ビアズリーの芸術的な活動と、彼が残した作品を詳しく解説します。ぜひ、オーブリー・ビアズリーの素晴らしい芸術活動を学び、彼の作品を楽しんでください。

目次

概要


生年月日 1872年8月21日
死没月日 1898年3月16日
国籍 イギリス
表現媒体 イラストレーション
表現スタイル アール・ヌーヴォー耽美主義

オーブリー・ビンセント・ビアズリー(1872年8月21日-1898年3月16日)は、イギリスのイラストレーター、グラフィックデザイナー、作家。

 

黒色のドローイング作品は、日本の浮世絵からの影響が大きく、またグロテスク性や退廃性、エロティシズムを強調した表現となっている。オスカー・ワイルドやホイッスラーを含めた耽美主義の中心的な芸術家の一人である。

 

アール・ヌーヴォーの発展においても多大な影響力を持ち、ほかの画家たちが次々とそのビアズリーのスタイルを模倣し、アール・ヌーヴォーを展開したことから、アール・ヌーヴォーの創始者の一人として位置づけられている。

 

日本では、水島爾保布、米倉斉加年、佐伯俊男、山名文夫たちの作品にビアズリーの影響が濃厚である。漫画家では山岸凉子や魔夜峰央がビアズリーからの影響を自認しているほか、手塚治虫もその作品『MW』で彼の作品の模倣を行なっている。

 

結核で亡くなるまでのキャリアが短いにもかかわらず、アール・ヌーヴォーやポスターの発展に大きく貢献した。

重要ポイント

  • 耽美主義ムーブメントの中心人物
  • アール・ヌーヴォーの創始者としても位置づけられている
  • 日本の浮世絵や平面画の影響が強い

略歴

若齢期


エミール・ブランシュによるビアズリー。1895年
エミール・ブランシュによるビアズリー。1895年

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーは、1872年8月21日、イギリス南部のブライトンで生まれ、1872年10月24日に洗礼を受けた。

 

父親のヴィンセント・ポール・ビアズリーはクラーケンウェルの宝石商の息子、母親のエレン・アグネスはピット家という裕福な中産階級出身だった。

 

インディアン軍のウィリアム・ピット軍曹の娘でピット家はブライトンの名家である。ビアズリーの母親は、予想されていたよりも社会的地位の低い男性と結婚した。

 

彼結婚後まもなく、ヴィンセントは、別の女性との結婚の約束違反の請求を解決するために、財産の一部を売却せざるを得なくなった。

 

ビアズリーが生まれた当時、1歳年上の姉メイベルを含むビアズリーの家族は、バッキンガム・ロード12番地にあるエレンの家族の家に住んでいた。バッキンガム・ロードの家の番号は12だったが、番号が変更され、現在は31になっている。

 

幼少時から父親から工芸技術を教わり、また音楽の家庭教師をしていた母親から音楽教育をほどこされる。7歳になった1879年の秋、寄宿学校入学の頃までに、オーブリーは非常に読み書きができ、音楽的才能にも恵まれていた。

 

1879年頃から結核の兆候が現れる。1881年、病気のためにハミルトン・ロッジを退学し、保養のため一家でロンドン南郊のエプソムに転居する。家族は2年間そこにとどまった。

 

この時期の終わりごろに、ビアズリーが初めて絵の注文を受けて、報酬を得る。それは、当時ビアズリー家を援助していたヘンリエッタ・ペラム夫人からの注文で、ケイト・グリーナウェイの絵本からの模写だった。

 

1884年、金銭上の問題のため、オーブリーと姉のメイベル、母親の三人は再びブライトンに戻り、そこで裕福な親戚のサラ・ピットとともに暮らし始める。この地でビアズリーはブライトン・グラマースクールに通う。

 

スクールでは寮長アーサー・ウィリアム・キングがビアズリーの才能を認めて奨励し、ビアズリーの絵を集めて保存したり学校の雑誌に発表するなど多くの援助を行う。ビアズリーはこの頃から演劇に関心を持っていく。オペラも含めたあらゆる演劇がビアズリーのインスピレーションの源泉となる。また、彼の最初の詩、ドローイング、漫画は、学校の雑誌『Past and Present』に掲載された。

 

16歳になったビアズリーは、1889年からロンドンのガーディアン保険会社で働きはじめる。当時のビアズリーの関心事は本と演劇で仕事に対しては熱心でなかったという。1890年になると結核の容態が悪化し、保険会社を辞めることになる。

 

21歳の時に母方の祖父が不動産開発業者であったことから得た遺産からの個人的な収入に頼り、結核だったこともあり、その後はヴィンセント自身が仕事をすることはなかった。

 

絵描きへ


エドワード・バーン=ジョーンズ
エドワード・バーン=ジョーンズ

1891年、健康を回復し、仕事と絵の制作に復帰。この頃の重要な出来事としてはエドワード・バーン=ジョーンズとの出会いがある。バーン=ジョーンズは画家であり、イラストレーターであり、デザイナーでもあった。

 

姉メイベルと共にバーン=ジョーンズを訪問し、作品を見せたところ、才能を認められ、勤めを辞して画家になることを勧められる。

 

バーン=ジョーンズは、ビアズリーに適切な美術学校を見つける約束をし、考慮した末、1891年にウェストミンスター美術学校の夜間クラスの入学を勧められ、通うことになる。

 

この学校の校長は印象派画家フレデリック・ブラウンだった。ビアズリーの正規の美術教育はこの1年の夜間クラスとなった。

 

またバーン=ジョーンズを訪ねた一週間前に、ビアズリーはもうひとつ決定的な刺激を受けている。芸術パトロンのフレデリック・レイランドの絵で見かけたラファエル前派の画家ダンテ・ガブリエル・ロセッテイの絵だった。そして耽美主義ホイッスラーにも大きな影響を受けた。

 

ビアズリー様式の確立


「シガール夫人の誕生日」1892年
「シガール夫人の誕生日」1892年

1891年後半から92年前半にかけて描かれた他の作品は、バーン=ジョーンズの影響に加えて、マンテーニャやウォルター・クレインの影響もある。

 

しかし、1892年に病気から回復した後には、ホイッスラーの近代性と日本美術の影響が色濃く現れ始める、ビアズリー様式が確立し始める。

 

ビアズリーはパリに旅行し、そこでアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックのポスターアートと日本の浮世絵の流行を見たのが要因だという。

 

1892年に描いた「シガール夫人の誕生日」や「詩人の残骸」は、白と黒の関係を効果的に取り入れ、また装飾的なモチーフが使われるようになったビアズリー様式の基本的で完成度の高い作品である。

 

ビアズリーにとって白と黒は、趣味だった演劇やオペラから影響が大きく、広い空白に黒を旋律的に配置することで画面を音楽的に構成し、さらにたった一本のはずむような輪郭線で形にきめてしまうという表現思想があった。

 

初期は彼の作品はほとんどが無署名である。1891年から1892年にかけて、彼は自分のイニシャルであるA.V.B.を使用するようになった。

アーサー王の死


「アーサー王の死」挿絵「愛の媚薬を飲むトリスタン」1893年
「アーサー王の死」挿絵「愛の媚薬を飲むトリスタン」1893年

ビアズリーの友人で書籍を商い、写真家でもあったフレデリック・エヴァンスが、出版業者J.M.デントをビアズリーに紹介知る。

 

デントは「アーサー王の死」の挿絵を描く人を探しており、中世風の様式に仕立てようと考えていた。

 

ビアズリーはデントの要請ですぐに「聖杯の発見」を描き上げ、それを見たデントは、順次発行していく予定の「アーサー王の死」2巻全体の挿絵の契約を結ぶ。

 

その後、「名言集」など他の小さな仕事の注文で収入が入り出すようになり、保険会社を辞める。

ステューディオ


1892年11月、当時『アート・ジャーナル』の副編集長であり、『ステューディオ』という美術雑誌の創刊を計画中であったルイス・ハインドを紹介される。


ハインドは、創刊号のため何か目をひくものを探していたが、ビアズリーの作品がそれにぴったりだと考え、『ステューディオ』の表紙デザインを注文する。


そうして『ステューディオ』創刊号に「アーサー王の死」や「シガール夫人の誕生日」などを含むビアズリーの業績を網羅する8枚の作品が掲載され、一気にイギリス中で注目を集めるようになる。

サロメと全盛期


『サロメ』挿絵『踊りの褒美』1893年
『サロメ』挿絵『踊りの褒美』1893年

出版業者ジョン・レインからの依頼でビアズリーは、オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』英語版の挿絵を描くという大仕事を引き受けることになる。

 

直接のきっかけとなったのは、『ステューディオ』に掲載された作品『ヨカナーンよ、私はおまえの唇に接吻した』である。

 

この絵は、1893年2月22日にパリとロンドンで同時に出版されたフランス語の『サロメ』を読んだ後で、ビアズリーがまったく自発的に描いたものであった。

 

これを見たワイルドは、ビアズリーの芸術と自身の戯曲との間に強い類似性を感じていることを感じ、献辞の手紙を送ってきたのである。

 

ワイルドは、当時この新進の芸術家とはほとんど面識がなかったはずであり、そんな見知らぬ人物に献辞を添えた本を送ったという事実からも、ワイルドがビアズリーに対して強い関心を抱いていたことがわかる。

 

ワイルドは1893年から『サロメ』の一連の挿絵を制作する。これらの作品は、ビアズリーの短い生涯のなかで、彼の最高傑作であり、全作品の中で最も創意にあふれた様式が展開されることになった

「イエロー・ブック」の創刊とその波及


『サロメ』以後、ビアズリーは聖書や中世の世界から遠ざかり、人生や芸術・文学に関する独自の視野を発展させていくことになる。つまり『イエロー・ブック』の時代に入っていくのである。

 

『イエロー・ブック』は、ビアズリーの言葉を借りれば「新しい文学と芸術のための季刊誌」である。友人ヘンリー・ハーランドとともにをはじめホイッスラーを取り巻く前衛芸術家の仲間が集め、1894年1月の手紙で「現在発行されている雑誌が、多くの才能あふれる若手作家を取り上げることは、まずあり得ないと見ていいでしょう。なにしろ彼らは知名度も低く、それに多少危機なこともあるからです」と書いている。

 

4月に『イエロー・ブック』創刊号が発売されると、保守的な新聞や雑誌は酷評した。しかし、今までロンドンの芸術仲間だけに知らされていたビアズリーの名は突如として一般大衆の間に広まり、有名となった。

 

最初の4版ではビアズリーはアート・エディターを務め、表紙のデザインや多くのイラストを手がけた。ビアズリーは、デカダンス象徴主義のイギリス的な対極にある美学派に属していた。

 

彼のイメージのほとんどはインクで描かれており、大きな暗い部分と大きな空白の部分のコントラストや、細かいディテールのある部分と全くない部分のコントラストが特徴的であうる。

 

このころ経済的に余裕ができたため、ピムリコ地区ケンブリッジ通り114番地に家を購入し、姉メイベルと同居。近親相姦説もささやかれた。

 

1895年4月5日、オスカー・ワイルドが猥褻行為で逮捕されると、ビアズリー周辺のデカダン派は突然終局を迎える。ワイルドがビアズリーの『イエロー・ブック』を読んでいたことがわかると、イエロー・ブックに非難の対象となる。ワイルドの『サロメ』の悪名高いイラストレーターだったビアズリーも非難の対象となった。その後、『イエロー・ブック』5号からビアズリーは解雇された。

 

4月20日、ビアズリーはパリにわたり、作家のアンドレ・ラファロビッチに助言と援助を依頼する。ラファロヴィッチはビアズリーの救済者となり、経済的援助を引き受けただけでなく、カトリックに改宗させた。

 

同年5月5日、パリから帰国後に、出版業者レナード・スミザーズと知り合う。スミザーズは社会的に爪弾きされている芸術家の作品を専門に出版していたため、これ以後ビアズリーと切っても切れない間柄となった(ワイルドはスミザーズを「ビアズリーの持ち主」と呼んだ)。

雑誌『イエロー・ブック』(1894年)
雑誌『イエロー・ブック』(1894年)
オスカー・ワイルド
オスカー・ワイルド

「サヴォイ」誌創刊


詩人のアーサー・シモンズは、『イエロー・ブック』がビアズリーを解雇した際に離れていった読者層を引き戻すために、新しい雑誌を創刊することを考えていた。そこで『サヴォイ』というタイトルの雑誌を1896年1月に創刊。

 

ビアズリーはもちろん美術を担当する。サヴォイの仕事のおかげで毎週25ポンドの支払い契約を結び、ビアズリーの生活は外面的にはある程度回復した。それでもワイルド逮捕後のビアズリーの評判は取り戻せないほど変わってしまった。

 

ビアズリーが制作した『サヴォイ』のデザインや『丘の麓で』の挿絵は、新たな飛躍的発展となったが、これはビアズリーが18世紀フランスの芸術や文学、風俗に対して特に関心を深めた結果であるという。

 

この様式によってビアズリーの構図は、さらに均衡と調和が取れ、古典的なものになり、挿絵画家としての技量は絶頂期を迎えた。

『サヴォイ』(1896年)
『サヴォイ』(1896年)

晩年


1896年3月、ブラッセルで突然巣食っていた結核が猛威をふるい、彼は激しい吐血に見舞われる。これ以降ビアズリーの体調は急激に悪化する。

 

1896年6月後半から8月前半にかけて、スミザーズの依頼により、アリストパネスの『女の平和』の挿絵をエプソムのホテル「スプレッド・イーグル」にて制作。7月、遺言状を作成。同年12月、『サヴォイ』廃刊。

 

健康状態の悪化により経済的に困窮し、借金がかさみ、1897年にカトリックに改宗する。以降はカトリック詩人マルク=アンドレ・ラファロヴィチからの一季100ポンドの支援で露命をつないだ。

 

1898年1月、結核の進行により右手が動かなくなる。1月末以降は寝たきりとなり、詩「象牙の一片」を書く。カトリックの信仰に沈潜し、聖徒伝を読みふける日々が続く。

 

ベン・ジョンソン『ヴォルポーネ』挿絵(1898)同年3月16日、結核のためマントンにて死去。遺産は836ポンド17シリング10ペンス。ベン・ジョンソン作『ヴォルポーネ』のために描いた作品(未完)が絶筆となった。享年25歳。翌日、メントン大聖堂で鎮魂ミサが行われた後、彼の遺骨はトラブケ教会に埋葬された。

プライベート


・ベアズリーは公私ともにエキセントリックだった。彼は「私の目的は一つ、グロテスクだ。グロテスクでなければ、私は何者でもない」と言っている。ワイルドは、ビアズリーの顔は「銀の斧のような顔で、髪の毛は草のような緑色」だったと言っている。

 

・ビアズリーは服装に細心の注意を払っていた。鳩色のスーツに帽子、ネクタイ、黄色い手袋。朝のコートとコートシューズを履いて出版社に出向いた。

 

・ビアズリーは、オスカー・ワイルドをはじめとするイギリスの美学者たちを含む同性愛者の集まりに属していたが、彼のセクシュアリティの詳細については疑問が残っている。彼のセクシュアリティについての憶測には、姉のメイベルとの近親相姦の噂も含まれている。

 

・ビアズリーは美術キャリアの全期間中、結核の発作を繰り返していた。頻繁に肺出血を起こし、家から出ることもできなかった。

 

・ベアズリーは1897年3月にカトリックに改宗した。翌年、彼が死ぬ前の最後の手紙は、彼の出版者レナード・スミザーズと親しい友人ハーバート・チャールズ・ポリットに宛てたものだった。

 

「1898年3月7日|イエスは私たちの主であり裁判官である|親愛なる友よ、私はあなたにリシストラータのすべてのコピーと悪い絵を破棄するように懇願します...すべての聖なるものによって、すべての卑猥な絵を破棄してください。| オーブリー・ビアズリー|私の死の苦しみの中で」

 

二人ともベアズリーの願いを無視し、スミザーズは実際にベアズリーの作品の複製品や贋作を販売し続けた。

略年譜


■1872年

8月21日、イギリス南部の保養地ブライトンで生まれる。

 

■1879年

ブライトンの寄宿学校入学。この頃から絵を描き始めるが、すでに結核の初期徴候が現れる。

 

■1884年

ブライトン・グラマー・スクール入学。寮長アーサー・ウィリアム・キングの奨励を受ける。

 

■1889年

同校卒業。ロンドンに移住。

 

■1890年

ロンドンで保険会社に就職。

 

■1891年

バーン=ジョーンズを訪問。励ましと美術教育の推薦を受ける。

 

■1892年

『シガール夫人の誕生日』『詩人の残骸』で独自の様式を打ち立てる。6月、作品を持ってパリに向かう。ピュヴィス・ド・シャヴァンヌに会い、奨励を受ける。ロンドンに戻ると『アーサー王の死』の挿絵の注文を受ける。

 

■1893年

4月『ステューディオ』創刊号がビアズリーを賞賛するジョセフ・ペネルの記事を掲載し、8枚の作品を紹介。ワイルドの『サロメ』の注文を受ける。

 

■1894年

新雑誌『イエロー・ブック』の美術編集者に指名される。

 

■1895年

ワイルドの逮捕。ビアズリーは『イエロー・ブック』から解任。レナード・スミザーズと作品契約を結ぶ。

 

■1896年

スミザーズ、ビアズリー、アーサー・シモンズ協同で新雑誌『サヴォイ』創刊。この年『毛髪掠奪』『女の平和』など集中的に多くの作品を制作。

 

■1897年

多くの計画があったが、結核の進行が制作を妨げるようになり、医師のすすめでフランス・イタリア国境の地中海沿いの保養地メントンに滞在。

 

■1898年

3月15日から16日にかけての夜半、同地にて死亡。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Aubrey_Beardsley、2020年5月22日アクセス

・オーブリー・ビアズリー展図録