251.植田正治「砂丘と幻想」

植田正治 / Shoji Ueda

幻想化された砂丘写真


概要


植田正治(1913-2000年、鳥取県出身)は日本の写真家。山陰の空・地平線・そして鳥取砂丘を背景とした現実的な風景の中にシュルレアリスム的な要素を混ぜ込んだノスタルジックな写真作品で知られる。

 

特にアメリカやフランスで人気が高く、植田の作風は日本語表記そのままにUeda-cho(植田調)という言葉で広く紹介されている。


20代に一時的に東京にいたが、故郷である山陰地方を生涯の拠点とした。生涯アマチュア精神を貫き、世間の流行や要求に一切答えることなく、ただひたすらに砂丘と自分の撮りたいものだけを撮り続けた。


作品リンク:Tumbler

略歴


植田は1913年5月27日に鳥取県の境港で生まれた。父は履物製造小売業だった。正治は幼少期を生き延びた唯一の子どもだったという。


1930年に父からカメラを譲り受けると、すぐに写真撮影を始める。撮影した写真を雑誌に投稿するようになった。植田の作品「浜の子ども」は雑誌『カメラ』1930年12月号に掲載された。また同年、石津良介や正岡国男や野村秋良らとともに中国写真家集団を結成。1932年から1937年まで東京・日本橋の小西六ホールにで少なくとも4回、グループ展を行った。


1932年に東京のオリエンタル写真学校に入学、3ヶ月通う。その後、鳥取に帰郷して自宅で植田写真場を開業した。まだ19歳だった。


1935年に結婚。妻は植田の写真の仕事を補佐し続けた。植田にとって結婚は幸せな1つだった。植田の妻の間にできた3人の子どもは作品のモデルにもよくなっている。


1941年に植田は戦場カメラマンになりたくなかったため、写真撮影をやめることに。しかし終戦近くになって、焼け跡地の撮影を余儀なくさせられる。


戦後、1947年に植田は東京を拠点として活動する「銀龍社」に参加。この頃から植田は、人物画を撮影するのに鳥取砂丘を背景に利用するのが良いことを発見する。また正方形フォーマットモノクローム、そして人物をオブジェ化したような独特なシュルレアリスム作風になり始める。


1949年に桑原甲子雄に影響を受ける。また雑誌『カメラ』の企画で、土門拳や緑川洋一らの鳥取砂丘撮影会に参加し、彼らを鳥取砂丘で撮影する。これらの作品は雑誌『カメラ』1949年9、10月号に掲載され、その後、幾度となく選集に収録されている。


1951年から上田は砂丘を背景にしたヌード写真を撮り始める。1950年代にはMoMAに作品が収蔵、その独自の作風は「植田調(Ueda-cho)」と名付けられるようになる。


1970年から広告写真やファッション写真の背景として砂丘を利用し始める。80年代以降はPARCOやTAKEO KIKUCHIなどファッション業界とのコラボレートによる広告写真でADC賞も受賞する。


2000年7月4日、87歳で没。