ピカソ・モデル「マリー・テレーズ・ウォルター」

Marie-Thérèse Walter / マリー・テレーズ・ウォルター

ピカソ作品のモデルで最も有名な愛人


概要


マリー・テレーズ・ウォルター(1909年7月13日-1977年10月20日)はフランス人のピカソの愛人、パブロ・ピカソ作品(1927年から1935年まで)のモデル、ピカソとの間の子マーヤ・ウィドマリア・ピカソの母。

 

モデル代表作は「夢」。2013年に米国コレクターが1億5000万ドルで手に入れたが、この価格は米国コレクターが支払った価格で最高額だと言われている。

 

2人の関係は、マリー・テレーズが17歳の頃から始まっている。そのときピカソは45歳でまだ最初の妻オルガと結婚していた。なお1935年にピカソとの関係が終わった後、ピカソは次の愛人ドラ・マールへ移動。テレーズと娘マーヤはパリへ引っ越し、ピカソが死去してから4年後に自殺。

略歴


マリー・テレーズ・ウォルターは、フランスのル・ペルー=シュル=マルヌで生まれた。


1927年1月8日に、マリーはパリのギャラリー・ラファイエットの前で初めてピカソに出会ったことになっているが、著者ハーバート・T・ソーツは1925年の1月にパリのサン・ラザール駅で初めて会ったと記載しており、その一方、ロイ·マグレガー·ヘイスティーは1928年1月8日と記載しており、まちまちとなっている。


当時、ピカソはロシアのバレリーナのオルガ・コクラヴァと結婚しており、5歳の息子がいた。ピカソと会った当時のテレーズは17歳だった。1927年からテレーズはピカソの家族の近くに住んでおり、1935年まで妻には秘密で交際をし続けた。ウォルターが住んでいたアパートの部屋のとなりはピカソの美術商で友人のポール・ローゼンバーグが住んでいたという。

 

1930年からウォルターはピカソの家の反対側に住む。また、1930年7月に、ピカソはノルマンディーの次ゾール近くで古城を購入し、そこを彫刻用のアトリエとして利用するようになる。マリーは、家族からの足が届きづらい場所に完全に隔離されたあと、彫刻と絵画でピカソのモデルとなった。


1935年に、マリーは妊娠する。ピカソの妻のオルガは、知り合いからピカソには愛人がいて、愛人との間に子どもが生まれそうだということを聞きつけ、すぐにピカソの元を去り、息子とフランス南部へ別居。ただ、ピカソとは生涯オルガと離婚しなかった。なぜならフランスの法律によって規定されている財産の分割問題を避けたかったためだという。そのため、1955年にオルガが自殺するまで、別居状態で住んでいた。


1935年9月5日に、ピカソとマリーのあいだに娘マーヤが生まれた。マリーとマーヤは1935年3月25日から5月14日まで南フランスのジュアン・レ・パンに滞在し、週末にはリー・トレムブレー・サー・モルダーで娘と遊んで過ごした。マーヤはピカソ作品のモデルとしてもよく登場する。


1935年にピカソは、シュルレアル写真家のドラ・マールと関係ができはじめ、嫉妬しはじめる。ドラとマリーが、ピカソの「ゲルニカ」制作中のピカソアトリエで遭遇したことがあった。二人は言い合ったあと、ピカソに詰め寄った。ピカソは、「どちらかに決めるつもりはない。闘え」といった。すると二人は、絵の具や絵筆の散乱する床の上で大格闘のケンカを始めた。ピカソは大満悦だった。やがてドラは、彼女のカメラが壊されることを恐れ、ケンカをやめた。マリーは静かに、ゆっくりと出て行った。


1940年にマリーとマーヤは、ピカソの元を離れたものの、ピカソは以後も2人の経済的支援は行なった。1977年10月20日に死去。自宅のガレージで首をつっての自殺だった。2004年にマーヤの息子である、マリー・テレーズの息子で、ピカソの孫である、オリヴィエ・ウィドマイヤー・ピカソは、祖父ピカソの伝記「ピカソ:家族の本当の物語」を出版した。

 

 

モデルとなった作品


鏡の前の少女
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花を持つ女
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ヌード、観葉植物と胸像
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夢

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