【美術解説】アレクサンドル・ロトチェンコ「グラフィックデザインの父」

アレクサンドル・ロトチェンコ /Alexander Rodchenko

グラフィック・デザインの父


概要


アレクサンドル・ロトチェンコ(1891年11月23日-1956年12月3日)はロシアの美術家、彫刻家、写真家、グラフィック・デザイナー。ロシア革命後に発展したロシア構成主義やロシアン・デザインの創立者の1人。


これまでの美術としての絵画に反発し、論理的な画面構成を基盤に「日常生活に密着した芸術」を目標に「生産的芸術」を目指した。グラッフィク・デザインの父とみなされている。


また、分析やドキュメンタリーとしての写真撮影に関心を抱き、極端に高い位置から見下ろしたり、低い場所から見上げたりするなど、奇妙な視点から被写体を撮影した。


妻はロシア構成主義美術家のワルワーラ・ステパーノワ。

略歴


アレクサンドル・ロトチェンコは、サンクトペテルブルクのワーキングクラスの家庭に生まれた。1909年、18歳で父親が亡くなると、家族はタタールスタン共和国のカザンに移住。その頃から美術誌からインスピレーションを受け、多くのドローイングを描き始める。1910年にカザン美術学校に入学し、ニコライ・フェチンやジョージ・メドアバブのもとで学ぶ。また後に妻となるワルワーラ・ステパーノワと出会う。


卒業後、1914年にモスクワのストロガノフ研究所に入り、絵画の研究を進める。その後、ロシア構成主義の指導者であるウラジミール・タトリンが企画した「The Store」に参加し、ロシア構成主義を学ぶ。ロトチェンコの初期作品はマレーヴィチのシュプレマティズム同様、キュビスムや未来主義の影響が強かった。


1920年にボルシェヴィキ政府から芸術学校と美術館の再編を任されたロトチェンコは、モスクワ芸術家組合の理事を勤め、人民委員会の芸術部門を創設。また、1920年から1930年まで高度技術ー芸術スタジオやバウハウスで教員を勤める。


1921年、30歳のときにロシア構成主義のメンバーとなり、感覚や感情表現を排除した論理的な画面構成で「日常生活に密着した芸術」を目標に「生産的芸術」を目指した。グラフィック・デザインの始まりである。ポスター、書籍、映像のためのグラフィック・デザインの研究に集中するため絵画制作をやめる。ロシアの映画監督ジガ・ヴェルトフのアイデアや実践から多大な影響をうける。


その後、詩人ウラジミール・マヤコフスキーと共同で共産党のプロパガンダ・ポスターなどを制作。1923年から1928年までマヤコフスキーと左翼芸術雑誌『レフ』のデザインと挿絵を制作。また、ワルワーラ・ステパーノワとともに舞台装置、工業デザイン、インテリア・デザイン、ビルの壁面装飾などさまざまな分野に進出。


ドイツのダダイストたちのフォトモンタージュに感銘し、ロトチェンコ自身もフォトモンタージュの実験を始めるようになる。