【美術解説】ヴィヴィアン・マイヤー「謎のアマチュア写真家」

ヴィヴィアン・マイヤー / Vivian Maier

謎のアマチュア写真家


概要


本名 ヴィヴィアン・ドロシー・マイヤー
生年月日 1926年2月1日(アメリカ、ニューヨーク)
死没月日 2009年4月21日(83歳)
国籍 アメリカ
表現形式 写真
公式サイト http://www.vivianmaier.com/

ヴィヴィアン・マイヤー(1926年2月1日-2009年4月21日)はアメリカのアマチュア写真家。シカゴのノースショアでベビーシッターとして約40年間働きながら、空き時間に写真の撮影・研究をしていた。生涯に15万以上の写真を撮影しており、被写体の中心はニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス内の人物と建物で、世界中を旅して写真の撮影をしていた。

 

その作品は死後に発見され、認知された。彼女は乳母として約40年間、主にシカゴのノースショアで働きながら、写真を追求しており、彼女のネガフィルムの多くは一度も印刷されることはなかった。

 

シカゴのコレクターのジョン・マルーフが2007年にマイヤーの写真をオークション・ハウスでいくつか手にいれ、また同時期にロン・スラッテリーやランディ・プローといったほかのコレクターも箱やスーツケースにいっぱい入った彼女の写真やネガフィルムを発見する。

 

マイヤーの写真が初めて一般公開されたのは、2008年7月。ジョン・マルーフによってインターネット上にアップロードされた。しかし当初の反応はほとんどなかった。2009年10月にマルーフがFlickerに共有したマイヤーの写真をブログで紹介すると、今度は何千ものユーザーが関心を示しはじめ、ウイルス感染のように一気に彼女の名前は世界中に広まっていった。

 

マイヤー作品への高評価と関心はどんどん広がり、マイヤーの写真は北アメリカ、ヨーロッパ、アジア、南アメリカで展示されることになり、さらに彼女の生涯を描いたドキュメンタリー映画や書籍が刊行されるようになった。

 

日本では2015年10月にシアター・イメージフォーラムでドキュメンタリー『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』が公開。2016年3月2日にはDVDリリースも予定されており、また2011年に発売された彼女の写真作品集『Street Photographer』はAmazon洋書の写真部門で一位を獲得した。

略歴


幼少期


マイヤーの生涯に関する情報はほとんど残っていない。友達がいた気配もなく、もちろん結婚もしていない。背がとても高く大柄で、手を振って軍隊のような歩き方をする。わざとフランス語訛りの英語を話し、出生地や家族については絶対に明かさなかったという。

 

出生記録によれば、ヴィヴィアン・マイヤーは、1926年2月1日、アメリカのニューヨーク市で、フランス人の母マリア・ジャソード・ジャスティンとオーストリア人の父チャールズ・マイヤーとの間に生まれている。

 

子供時代に何度かアメリカとフランス間を行き来したことがあり、フランス滞在時には、母親側の親族が住むサン=ボネ=アン=シャンソールのアルパイン村で生活していたという。理由は不明だが、父親は1930年まで一時的に蒸発をしていた。

 

1930年に行われた国勢調査によれば、ボストン滞在時のマイヤー一家の世帯主は有名写真家のジャンル・ベルトランと記録されている。

 

1935年頃にヴィヴィアンと母親は、フランスのサン・ジュリアン・アン・シャンソールの農園で生活している。この土地の遺産はあとでマイヤーに受け継がれている。1940年までにマイヤーと母はニューヨークに戻り、父チャールズ、母マリア、弟チャールズと一緒に生活をはじめた。父親は鉄鋼技師として働いていたという。

ベビーシッターとして40年間過ごす


1951年、マイヤーが25歳のときにニューヨークへの搾取工場(ブラック企業のようなもの)で働き始める。1958年にシカゴのノースショアへ移ると、以後40年間、ベビーシッターや介護関係の仕事で生活を立てるようになる。(当時のシカゴには偶然ヘンリー・ダーガーも住んでいた)。

 

シカゴに着いてからの最初の17年間は、マイヤーは2つの家庭で長く家政婦として働いていた。1956年から1972年までレーゲンスブルク家で、1967年から1973年までレイモンド家で働いていた。リーン・レーゲンスブクによれば、マイヤーはまるでメアリー・ポピンズのようで、決して子どもたちをしゃべり負かすことはなく、また子どもたちをよく豊かな郊外の世界に連れていって、外の世界について勉強させていたという。この頃のマイヤーは、問題ない乳母だった

 

当時、マイヤーは休日にはたいていはローライフレックスのカメラを持って、シカゴの通りを散歩しながら写真を撮っていた。

 

1959年から1960年にかけてマイヤーは世界旅行に出かけている。ロサンゼルス、マニラ、バンコク、上海、北京、インド、シリア、エジプト、イタリアを写真撮影しながら旅していた。旅費はおそらくフランスのサン・ジュリアン・アン・シャンソールにある受け継いだ農場を売却して得たお金だろうと推測されている。

加齢とともに偏屈化していくマイヤー


1970年代の短い期間、マイヤーはトークショーの司会者フィル・ドナヒュー(Phil Donahue)の家政婦として働いていた。この頃からマイヤーの性格が偏屈化して、狂気じみてきたという。彼女は荷物を雇用主に預けていましたが、その分量が凄まじかったといわれる。彼女はモノをすてることが出来なかった性格で、持ち物は200箱分もあった

 

その大半は写真かネガでしたが、ほかに彼女は新聞、靴、服なども捨てずに集めていた。新聞は天井に届くぐらいの分量だった。彼女が撮影した人たちと会話したときの録音テープなんかも大量にあったという。

 

また、2013年のドキュメンタリー映画『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』や『ヴィヴィアン・マイヤーの不思議』で、マイヤーの雇用主や世話をした子どもたちへのインタビューが収録されているが、中年以降の彼女の気性は非常に激しく、近隣とのトラブルや常軌を逸した行為がより目立つようになった。

 

インタビューした子どもたちの中には、虐待に近い出来事や怪しい場所に連れて行かれた記憶を語る人もいる。そのため、晩年は乳母の仕事を見つけるのが難しくなっていき、貧しさと狂気に蝕まれた生活になっていった。

晩年


亡くなる2年前の2007年、マイヤーはシカゴのノースサイドに借りていた倉庫の支払いを滞納していた。その結果、彼女のネガ、プリント、オーディオ録音、8ミリフィルムがオークションにかけられることになった。

 

3人の写真コレクターが彼女の作品の一部を購入した。ジョン・マルーフ(John Maloof)、ロン・スラッテリー(Ron Slatteryy)、ランディ・プロウ(Randie Prow)である。2008年7月にスラッテリーが生存中に初めてマイヤーの写真をインターネット上で公開したが、ほとんど反響はなかった。

 

 

子供時代にマイヤーに世話をしてもらっていたジェンズバーグ兄弟は、年老いて仕事もなくなり貧しくなった彼女を援助しようとした。

 

彼女はがキケロ郊外に借りていた安アパートからまさに追い出されそうになときに、ジェンズバーグ兄弟が助けに入る。シカゴに彼女のためのアパートを手配し、兄弟でアパートの家賃を負担していたという。

 

2008年11月にマイヤーは氷上で転倒し、頭を強く打つ。病院へ運ばれましたが回復することなかった。2009年1月にイリノイ州のハイランドパークの看護病棟に移され、2009年4月21日に亡くなった。

 

コレクション


マルーフはマイヤーの作品の中で大部分約3万枚のネガを購入しているが、理由は彼がシカゴのポーテージ・パーク周辺の歴史についての本を執筆していたからである。マルーフはその後、同じオークションで別のバイヤーからマイヤーの写真をさらに購入している。

 

マルーフはグーグル検索で2009年4月にシカゴ・トリビューン紙に掲載されたマイヤーの死亡通知の記事を見つけるまでは、彼女について何も知ることができなかったという。2009年10月、マルーフは自身のブログにFlickr上のマイヤーの写真をアップロードした。すると何千人もの人々が興味を示し、その写真はウイルスのように広がっていった。

 

2010年初頭、シカゴのアートコレクターであるジェフリー・ゴールドスタインは、最初の購入者の一人であるプロウからマイヤーのコレクションの一部を購入した。ゴールドスタインの最初の購入以来、彼のコレクションは17,500枚のネガ、2,000枚のプリント、30本の自作映画、多数のスライドを含むまでに成長した。

 

2014年12月、ゴールドスタインはモノクロームネガのコレクションをトロントのスティーブン・バルジャー・ギャラリーに売却した。

 

マルーフ・コレクションを運営するマルーフは現在、10万から15万枚のネガ、3,000枚以上のヴィンテージプリント、数百ロールのフィルム、ホームムービー、オーディオテープによるインタビュー、カメラや書類を含むエフェメラなど、マイヤーの全作品の約90%を所有しており、彼女の知られている作品の約90%を占めていると主張している。

 

死後に発見されて以来、マイヤーの写真とその発見はメインストリームのメディアで国際的に注目され、ギャラリーでの展覧会や数冊の本、ドキュメンタリー映画にも登場している。

 

2014年6月、弁護士で元写真家のDavid C. Deal氏は、マイヤーのネガの現所有者がネガを商品化する権利に異議を唱える訴訟を提起した。 この訴訟は、アメリカの法律の下で認められるべきマイヤーの遺産相続人、つまりフランスにいるいとこがいるかどうかを立証しようとしたものである。

 

米国の著作権法では、写真の所有権は著作権の所有権とは別物であり、特に相続人となる可能性のある人は米国外に住んでいる場合、解決までに数年かかる可能性がある。

 

マイヤーの写真の大部分を所有しているマルーフは、以前、フランスで一度いとこを追跡し、見つけて権利の対価を支払っているが、ディールは、遺産の受益者である可能性のあるフランスの近親者をほか見つけたと考えている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Vivian_Maier、2020年6月6日アクセス