【完全解説】マルク・シャガール「20世紀最大のユダヤ人前衛芸術家」

マルク・シャガール / Marc Chagall

20世紀最大のユダヤ人前衛芸術家


「誕生日」(1915年)
「誕生日」(1915年)

概要


生年月日 1887年7月6日
死没月日 1985年3月28日
国籍 ロシア、のちにフランス
ムーブメント エコール・ド・パリ、キュビスム、表現主義
タグ 絵画、ステンドグラス
配偶者

・ベラ・ローゼンフェルド(1915-1944)

・ヴァンレンティーナ・ブロウドスキー(1952-1985)

マルク・ザロヴィッチ・シャガール(1887年7月6日-1985年3月28日)はロシア出身のユダヤ系フランス人画家。初期モダニストの代表的な人物であり「エコール・ド・パリ」の中心人物。

 

キュビスム、フォーヴィスム、表現主義、シュルレアリスム、象徴主義など、さまざまな芸術スタイルを融合し、絵画、本、イラストレーション、ステンドグラス、舞台デザイン、陶芸、タペストリー、版画などさまざまなメディアで表現活動を行った。

 

シャガールは、一般的に“モダニズムの開拓者”“主要なユダヤ人画家”の2つの美術評価が与えられている。美術批評家のロバート・ヒューズは、シャガールを“20世紀を代表するユダヤ人画家”と批評。また、美術史家のミシェル・J・ルイズは、シャガールは“ヨーロッパ初期モダニストの最後の生存者”と評した。

 

数十年間、シャガールは世界有数のユダヤ人アーティストとして尊敬されていた。ステンドグラス作品においてシャガールは、イスラエルのハダーサ病院、国際連合本部、ノートルダム大聖堂、メス大聖堂のステンドグラスを担当。ほかにパリの歌劇場ガルニエ宮の天井画を担当した。

 

第一次世界大戦前、シャガールはサンクロペテルブルグ、パリ、ベルリン間を移動しながら活動をしていた。この時代シャガールは東ヨーロッパの土着ユダヤ人文化を基盤として多種多様な近代絵画の美術様式を混合させていった。

 

その後、ソ連のベラルーシで戦時を過ごしつつ、フランスで最も貢献した芸術家の1人となり、また前衛芸術家として認知されていく。1922年にヴィチェプスク現代美術館を創設するため、再びシャガールはパリを去ることになった。

 

概要


幼少期の源泉


シャガールの両親
シャガールの両親

マルク・シャガールは1887年、ヴィーツェプスク近郊のリオスナで、ユダヤ系リトアニア人として生まれた。当時のヴィーツェプスクの人口はおよそ66000人で半分はユダヤ人だった。

 

絵のように美しい教会やシナゴーグが立ち並び、人々はその町をスペイン帝国時代の世界観になぞらえて「ロシアのトレド」と呼んだ。

 

しかし、町に立ち並んでいた木製の家屋は、第二次世界大戦時にナチスドイツとソビエト軍による戦闘による破壊と占領で、ほとんどが消失してしまった。

 

シャガールは9人兄弟の長男として生まれた。家族の姓であるシャガールは英語でシーガルと呼び、ユダヤコミュニティにおいてはレヴ族出身であることを意味していた。父ザハール・シャガールは魚売りで、母フィーギャ・イティは自宅で食料を売っていた。

 

父は重い樽を持ち運ぶ重労働者だったが、月の稼ぎはたった20ルーブルだった(当時のロシア帝国時代の平均月収は13ルーブル)。シャガールはのちに魚をモチーフにした作品を描く事が多いが、その源泉は幼少の頃に見た働く父に対する敬意にあるという。

 

シャガールの幼少期について知られている事の多くは、自伝『マイライフ』で語られているように、ハシディズム文化から多大な影響を受けているというものである。実際にヴィーツェプスクという町は、1730年代からユダヤ教正統派から異端とみなされていたカバラ教義から派生したハシディズム文化の中心地だった。シャガールはこのハシディズム文化が芸術の源泉になっていると語っている。

イェフダペンによるシャガールのポートレイト。
イェフダペンによるシャガールのポートレイト。

当時のロシアで、ユダヤ人の子どもたちちはロシアの学校や大学に入学するのに規制がかけられていた。そのため、シャガールは地方のユダヤ教徒学校に通い、ヘブライ語や聖書の勉強をした。

 

13歳のとき、シャガールの母はロシアの高等学校に入学させようとしたが、シャガールは「普通、その学校はユダヤ人を受けれてくれないところだったが、母は躊躇せず、勇気をもって教師にかけあった。そして入学のため学長に50ルーブルを手渡した。」と話している。

 

シャガールが芸術家になるきっかけとなったのは、同級生がしていたドローイングであるという。シャガールは同級生に絵の描き方を尋ねると「図書館にいって本を探してこい。お前が好きな写真が乗っている本を選んで、あとはそれを模写するだけだ」と返答される。そこでシャガールはすぐに本の模写をはじめる。模写をしていると非常に楽しくなり、ついには芸術家になる決心をしたという。

 

シャガールはついに母親に絵描きになることを打ち明ける。母親は当時、シャガールの急な美術への目覚めと使命感に対して、非現実的な感覚がして理解できなかったという。1906年にシャガールは写実主義の画家のイェフダペンの小さな美術学校がヴィーツェプスクにあるのに気づいた。

 

この学校にはエル・リシツキーやオシップ・ザッキンも通うことになる。シャガールは当時お金がなかったため、ペンは無料でシャガールに美術を教えることにした。しかし、数カ月後、シャガールはアカデミックな芸術は自身には合わないことに気づいた。

 

当時のロシアにおけるユダヤ人芸術家たちは、一般的に2つの芸術的な方向性を選択した。1つはユダヤ人であることを隠すこと。もう1つはユダヤ人というアイデンティティを大切にして、芸術でそのユダヤ性を積極的に表現する方向である。シャガールは後者を選択した。シャガールにとって芸術とは「自己主張と原理の表現」なのであった。シャガールにはハシディズム精神が根本にあり、それが彼の創作の源泉であるという。

ロシア(1906−1910)


ベラ・ローゼンフェルト
ベラ・ローゼンフェルト

1906年にシャガールはサンクトペテルブルクに移動。当時、ユダヤ人は国内パスポートなしで町を出入りすることはできなかったが、シャガールは一時的に友達からパスポートを借りて入った。

 

シャガールは一流美術学校に入学し、2年間そこで学ぶ。1907年までにシャガールは自然主義のセルフポートレイトや風景画を描き始めた。

 

1908年から1910年までの間、シャガールはズバントセバ美術学校でレオン・バクストのもとで学ぶ。サンクトペテルブルクに滞在中、シャガールはポール・ゴーギャンのような作品や実験映画に出会う。バクストもユダヤ人で、装飾芸術のデザイナーであり、またロシアバレエ団の舞台衣装やファッションデザイナーとして活躍していた。またここで、伝説のダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーと知り合う。 

 

1909年の秋に後に妻となるベラ・ローゼンフェルトと出会っている。1910年までシャガールはサンクトペテルブルクに滞在していたが、よくヴィーツェプスクにいるベラ・ローゼンフェルトに会いにでかけたという。

パリ時代(1910-1914)


「私と村」(1911年)
「私と村」(1911年)

1910年、シャガールはパリへ移動しさらに芸術に磨きをかける。美術史家でキュレーターのジェームズ・スウィーニーは、シャガールがパリに初めて来た時、美術界ではキュビスムがトレンドで、フランス芸術全体が19世紀の唯物主義的な世界観で覆われていた。

 

そのため、シャガールの新鮮で、率直な感情表現、シンプルで詩的でユーモア感覚のある絵画は、パリの美術界では異端的であり、最初は画家からは無視された。

 

代わりにブレーズ・サンドラールやギヨーム・アポリネールといった詩人たちから注目を集めるようになった。シャガールの表現は、キュビストの方法、つまり対象物を外から複数の視点で描く方法とは真逆で、に向かって出て行くさまざまな内面感情を情熱的な表現だったのである。

 

23歳当時のシャガールのパリの最初の日々はフランス語を話せないこともであり、人生の中でも非常に孤独で、つらい時期だったといわれる。そうした孤独な環境が自然と故郷に対する哀愁の感情が芽生えさせ、ロシア民謡や、ハシディズム経験、家族、恋人ベラのことなど故郷ロシア時代の楽しい空想にふける絵画を描くようになったといわれる。

 

この時代の代表作は『私と村』である。これは1911年に制作された作品。キュビスムの絵画理論を応用する形でシャガールの内面に眠る故郷ロシアに関するさまざまな感情やシーンを夢のように同時に描いている。

 

前景の帽子をかぶっている緑顔の男がヤギや羊を見つめ、ヤギの頬には乳搾りのイメージが重なっている。また前景の男の手には成長している木が描かれている。背景には描かれているのはロシアのギリシア正教会と庶民の住宅、草刈鎌を持つ男や逆さまの女などが描かれている。これらはすべて、シャガールの生まれ故郷ヴィーツェプスクの記憶が融合して視覚化したものである。

 

また、画面中央の大小の円は太陽と月を表わしているとされる。キュビズムの理論に影響を受けているシャガールは、さまざまな意味を込めた象徴的なモティーフを平面的な色彩と円、三角形と対角線を基本とする幾何学的構成のなかに配置。キュビズムの理論とシャガール独自の土着的な世界観が融合された作品で評価が高い。

 

パリでシャガールは前衛芸術の学校「アカデミー・デ・ラ・パレット」に入学。そこでジャン・メッツァンジェ、アンドレ・デュノアイエデスゴンザック、アンリ・ルフォコニエらが教師をしていた。暇なときはギャラリーやサロンで過ごす事が多かった。中でもルーブル美術館はよく通った。レンブラントやル・ナン兄弟、ジャン・シメオン・シャルダン、ゴッホ、ルノワール、ピサロ、マティス、ゴーギャン、クーベレ、ミレー、モネ、ドラクロワといった画家に関心があった。パリでシャガールはガッシュ絵具の技法を学び、ベラルーシの風景画をよく描いた。

 

パリには絵描き、作家、詩人、作曲家、ダンサー、ロシア帝国からの移民などさまざまな人達が集まって賑やかだったが、シャガールは大都市の多くの誘惑にはのることはなく、毎日、数時間しか眠らず絵を描き続けた。「私のホームランドは私の魂にある」と語っている。

ロシア帝国とソビエト(1914-1922)


「誕生日」(1915年)
「誕生日」(1915年)

パリ滞在中、シャガールはヴィーツェプスクにいる婚約者のベラが自分に関心を失うのを恐れて結婚を決断する。

 

ちょうどベルリンの有名画商から個展を打診されていたので、個展でドイツへ行ったときに、近くのヴィーツェプスクに立ち寄ってそのまま結婚し、個展終了後、彼女をともなってパリに引き返す予定を立てた。

 

シャガールは40枚ものキャンバスやガッシュ水彩、ドローイングを持ち運んでドイツで個展で展示。個展はヘルヴァルト・ヴァルデンのシュトゥルムギャラリーで開催し、大成功となった。当時のドイツの批評家たちは皆シャガールを絶賛した。

 

展示後、シャガールはベラと結婚式を挙げる期間のみヴィーツェプスクに滞在する予定だったが、途中で第一次世界大戦が勃発。無期限にロシア国境線が封鎖されることになり、一年遅れてシャガールはベラと結婚し、子どもを出産。

 

結婚前、シャガールはベラの両親を説得するのに苦労した。ベラの両親は貧しい家庭の出身の画家の経済面が心配だったという。しかし、シャガールはドイツの個展で大成功して、有名画家になりかけていたので、この経済問題は解消されたという。

 

1915年、シャガールはモスクワで作品を展示。1916年にはサンクトペテルブルクで作品を展示。この頃から多くの富裕層コレクターがシャガールの作品をこぞって購入し始め、シャガールの家計は安定しはじめる。

 

また絵画だけでなく多くのイディッシュ語書籍のイラストレーション仕事も始める。有名な作品では1917年に刊行されたイツホク・レイブシュ・ペレツの『魔術師』などがある。30歳になる頃にはシャガールはロシアで有名人になっていた。

イツホク・レイブシュ・ペレツの『魔術師』
イツホク・レイブシュ・ペレツの『魔術師』

 

1917年にロシア革命はシャガールに新しい仕事をもたらした。シャガールはロシアで最も優れた芸術家の一人で前衛芸術家の一人とみなされていたため、ソ連の視覚美術人民委員の推薦を受けたが、政治的な仕事を好まなかったので、代わりにヴィーツェプスクに創立予定の美術大学「人民美術学校」で教鞭をとることにした。

 

この美術学校はシャガールだけでなく、エル・リシツキーカジミール・マレーヴィチなど当時のロシアで最も重要な芸術家たちが招集された。またシャガールは過去の自分の教師だったイェフダ・ペンを招いた。

 

シャガールは大学内に、各自が独立した芸術スタイルを持つ熱心な芸術家たちの集合的な雰囲気を作ろうとしたが失敗。マレーヴィチやリシツキーなど抽象性の高いシュープレマティスムを好む教授たちが、“ブルジョア個人主義”的としてシャガールの思想に難色を示した。その後、シャガールは学校を退職し、モスクワへ移動。

 

モスクワでシャガールは、新しく設立するユダヤ人商工会議劇場の舞台デザインの仕事に就く。1921年初頭にショーレム・アレイヘムによるさまざまな演劇を中心に劇場がオープン。シャガールはレオン・バクストに学んだ技術で舞台の巨大な背景画(縦2.7m✕横7.3m)を多数制作。

 

1918年に第一次世界大戦が終了すると飢饉が広まったため、シャガールは食料の物価高騰を避けて、モスクワ近くの小さな村へ移動。ただシャガールはモスクワで仕事をしていたため、毎日、混雑した電車に乗って通勤しなければならなかった。1921年にマラホフカ郊外にあるユダヤ人少年シェルター内の芸術劇場で働く。ここはウクライナのユダヤ人迫害(ポグロム)から孤立した難民を収容する場所だった。

シュープレマティスム活動中心となった「人民美術学校」。現在はヴィーツェプスク近代美術館に名前を変えている。
シュープレマティスム活動中心となった「人民美術学校」。現在はヴィーツェプスク近代美術館に名前を変えている。
『白襟とベラ』(1917年)
『白襟とベラ』(1917年)

フランス時代(1923−1941)


1923年にシャガールはモスクワを去り、フランスに戻る。パリへ戻る途中、戦争以前、ベルリンに約10年置いたままになっている多くの絵画を引き取るためにベルリンに立ち寄るが、すべて引き取ることはできず、シャガールの初期作品の多くは紛失状態となった。しかし、シャガールはヴィーツェプスクで過ごした幼年期の記憶をもとに再び絵画制作を始める。

 

シャガールはフランスの画商アンブロワーズ・ヴォラールと契約を結び、ニコライ・ゴーゴリの小説『死せる魂』や、聖書、『ラ・フォンテーヌの寓話』といった本のイラストのために銅版画制作を始める。画商からもたらされたイラストレーションの仕事は、のちにシャガールの版画の才能を開花されることになった。

 

1926年までにアメリカのニューヨークにあるラインハルトギャラリーで個展を開催。約100点の作品を展示した。美術批評家で美術史家のモーリス・レイナルが著書『近代フランス画家』でシャガールの名前を記す1927年まで、フランスのアートワールドにおいてシャガールの名前はまださほど知られていなかった。しかしながら、著書においてもレイナルは本当のところシャガールの作品について読者にどう説明すればよいか困っていたようである。

 

この時代、シャガールは旅行に夢中になる。特にフランスやコート・ダジュールを旅するのが好きで、そこで風景や豊かな植物、青い地中海、マイルドな天気を楽し、スケッチブックを持って何度も田舎に旅行をしていたという。ほかにもオランダ、スペイン、エジプトなどヨーロッパと地中海を中心にさまざまな場所を旅している。