ダニエル=ヘンリー・カーンワイラー

ダニエル=ヘンリー・カーンワイラー / Daniel Henry Kahnweiler

現代ギャラリストの先駆け


パブロ・ピカソ「カーンワイラーの肖像」(1910年)
パブロ・ピカソ「カーンワイラーの肖像」(1910年)

概要


生年月日 1884年6月25日
死没月日  1979年1月11日
職業 画商、美術史家
関連人物 パブロ・ピカソジョルジュ・ブラックアンドレ・ドラン
取扱ジャンル 20世紀初頭のフランス前衛芸術全般、キュビスム、フォーヴィスム

ダニエル・ヘンリー・カーンワイラー(1884年6月25日-1979年1月11日)はドイツの美術史家、画商。20世紀初頭のフランス美術を扱う重要な画商の1人。

 

1907年にパリで画廊を開き、特にパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックらのキュビスムを中心とした前衛芸術の作家をサポートした。

 

カーンワイラーの家族は、ドイツのプファルツ地方にある小さな村ロッケンハウゼンからドイツ南西部のバーデン領邦へ移り、そこでカーンワイラーは1884年に生まれた。ドイツ中等学校の教育は、カーンワイラーを実践的なビジネスマンとして、また芸術哲学のエキスパートを養成した。

 

また家族や親戚たちは、ドイツやパリで株式取引の仕事をしていたためカーンワイラーは、幼少期から株取引をはじめビジネスの知識が豊富だった。カーンワイラーの叔父は有名なロンドンの証券仲人会社を経営しており、伝統的なイギリス美術や家具のコレクターだった。

 

カーンワイラーはキュビスムのスポークスマンとして、また画商として最も重要な人物とみなされている。彼はピカソの『アヴィニョンの娘たち』の美術的価値を最初に見出した人物で、アトリエで作品を初めてみるとすぐにピカソに購入を希望した。

 

ピカソは「カーンワイラーにもし、ビジネスセンスがなかったら私はどうなっただろうか?」と話している。ピカソの最も有名な作品が制作されていた時期、ピカソはまったく知られていない貧困の芸術家だった。

 

カーンワイラーは、ファンやコレクターがまだいない時代の芸術家の多くを、自分のギャラリーでサポートした。ピカソのほかには、アンドレ・ドラン、フェルナンド・レジェ、ジョルジュ・ブラック、ジャン・ウリス、モーリス・ド・ブラマンク、キース・ヴァン・ドンゲンらピカソと同時代の芸術家たちをサポートしていた。

 

ビジネスマンとしてカーンワイラーは天才だった。芸術家たちとさまざまな共同ビジネス作業を発明した。

 

  • 芸術家と契約を結んで作品を一括購入し、生活と制作の両立に関する不安を取り除き、作品制作に集中できるようにした。
  • カーンワイラーが信じていた同世代の芸術家をサポートした。
  • 毎日、芸術家の制作状況をチェックして、ディスカッションをした。
  • すべての作品を写真撮影して記録に残しはじめた。
  • 作品の展覧会を開き、海外に作品を積極的に宣伝を行った。

カーンワイラーは、今日の現代美術の画商「ギャラリスト」の活動の先駆けといえる。この時代の画商は一般に「ディーラー」と呼ばれるものしかいなかった。

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【完全解説】草間彌生「前衛の女王」

草間彌生 / Yayoi Kusama

前衛の女王


概要


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草間彌生とファッション

草間彌生とファッション

クサマ・ファッション・カンパニー


1968年に草間は、クサマ・ファッション・カンパニーを設立。アメリカのデパートブルーミングデールズに用意された"クサマ・コーナー"で前衛的なファッションの販売を始めた。

フェラガモとコラボレーション


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【完全解説】ジョゼフ・コーネル「箱の中の夢のようなアッサンブラージュ作品」

ジョゼフ・コーネル / Joseph Cornell

箱の中の夢のようなアッサンブラージュ作品


ジョゼフ・コーネル「メディチ・プリンセス」(1948年)
ジョゼフ・コーネル「メディチ・プリンセス」(1948年)

概要


生年月日 1903年12月24日
死没月日 1972年12月29日
国籍 アメリカ
表現形式 アッサンブラージュ、映像
ムーブメント シュルレアリスム
関連人物 草間彌生マルセル・デュシャン
関連サイト

The Art Story(略歴・作品)

WikiArt(作品)

ジョゼフ・コーネル(1903年12月24日-1972年12月29日)はアメリカの彫刻作家。

 

前面ガラスの箱「シャドーボックス」を使ったアッサンブラージュ作品が代表的だが、ほかにシュルレアリスムから影響を受けた前衛実験映像作品でもよく知られている。

 

コーネルの芸術的努力の大半は独学である。ニューヨークの中古道具店で購入した古道具をや雑誌の切り抜きなどを即興的に組み合わせるという独自の芸術スタイルで、夢のようなボックス作品を制作する。

 

コーネルがアッサンブラージュに好んで利用する素材は、ヴィクトリア風の古い骨董、ビンテージ写真、低級の子ども玩具、アクセサリーなどである。コーネルのシャドーボックス作品は、のちにインスタレーション作家や前衛芸術グループフルクサスに影響を与えた。

 

生涯の大半を身体の不自由な弟や両親を自宅で介護しながら社会的に孤立した状態で過ごしていたが、同時代の現代美術家たちを意識し、また彼らと連絡も取っていた。

 

シュルレアリスム運動から大きな影響を受けるが、彼自身がシュルレアリスム運動に参加することはなく、シュルレアリスムとレッテルを貼られることも嫌っていた。

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【完全解説】ジョージア・オキーフ「アメリカモダニズムの母」

ジョージア・オキーフ / Georgia O'Keeffe

アメリカモダニズムの母


ジョージア・オキーフ「レッドカンナ」(1919年)
ジョージア・オキーフ「レッドカンナ」(1919年)

概要


生年月日 1887年11月15日
死没月日 1986年3月6日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画
ムーブメント アメリカモダニズム
関連人物 アルフレド・スティーグリッツ草間彌生
関連サイト

The Art Story(略歴・作品)

WikiArt(作品)

ジョージア・トット・オキーフ(1887年11月15日-1986年3月6日)はアメリカの美術家。

 

前衛芸術がまだほとんど知られていなかったアメリカの時期に、花や都市の風景、メキシコの風景などを抽象的に描いた作風で注目を集めるようになる。彼女は"アメリカモダニズムの母"と呼ばれるようになった。

 

夫は写真家のアルフレド・スティーグリッツ。草間彌生の渡米生活を支援したことでも知られる。

 

1905年にオキーフはシカゴ美術大学で本格的にファインアートを学んだあと、アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークへ進むが、自然にあるものをそのまま模写する伝統的な美術教育に不満を感じ始める。学費不足を賄うためオキーフは、1908年から商業イラストレーターとして2年ほど働き、その後1911年から1918年までヴァージニア州やテキサス州やサウスカロライナ州で教師をしてながら学費を稼ぎ、絵を学んだ。

 

1912年から1914年の夏の期間に美術を学んでいる頃に、自然をそのまま模写するより個人的なスタイルを基盤として制作することを推奨していた画家のアーサー・ウェスレイ・ダウに出会う。彼の思想はオキーフの芸術観に大きな変化をもたらし、抽象的な作風へ移行していった。

 

画商で写真家のアルフレド・スティーグリッツは、1916年にオキーフの個展を自身の画廊「291」で開催。その後の数年間、オキーフはコロンビア大学の教員養成課程で教鞭をとり、1918年にスティーグリッツの要望でニューヨークへ移り、本格的に芸術家として活動を始める。スティーグリッツはオキーフの展示を開催したりプロモート活動を行う、1924年に二人は結婚。

 

この頃からオキーフは「レッドカンナ」をはじめとする多くの花の抽象絵画を制作しはじめる。オキーフは花を描くことの意図について一貫して何も話していなかったが、一般的には女性器を象徴していると指摘される。女性の性に関する描写の評判は、スティーグリッツが撮影したオキーフの官能的な写真を展示していた点を見ても明らかだった。

 

オキーフとスティーグリッツは1929年までニューヨークに住み、その後、一年のうちの一時期をアメリカで南西部で過ごすことになる。ニューメキシコ州の風景や動物の骨にインスピレーションを受け、『牛の骨:赤、白、青』や『羊の頭』や『白タチアオイ』といった作品を制作する。

 

スティグリッツが死去すると、ニューヨークの人間関係から遠ざりたかった彼女は、ニューメキシコに移り、アビクィウの荒野に自宅とアトリエを建てる。62歳から1986年に亡くなるまでの約40年間を荒野に建つゴーストランチの家と緑豊かなアビキューの2つの家で過ごした。

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草間彌生と映像作品

草間彌生と映像作品


草間彌生はさまざまな映像作品を制作、または他人の映像作品に出演している。

 

「草間の消滅」は、1968年に草間彌生が制作した自主制作映画。ベルギーで第4回国際実験映画コンクール受賞。第二回メリーランド映画祭受賞、アナーバー映画祭受賞。そのほかいくつか自主制作映画作品を制作している。

また、1991年には村上龍原作・監督映画「トパーズ」に占い師役として出演。

イギリス人ミュージシャンのピーター・ガブリエルとコラボレーション。1993年2月リリースされた「ラブタウン」のミュージックビデオで草間の作品が多数使われている。にコラボレートでインスタレーション作品に出演している。

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草間彌生「ウォーキング・ピース」

ウォーキング・ピース

ニューヨーク在住の草間の孤独感を表現


概要


「ウォーキング・ピース」は、1966年の草間彌生のパフォーマンス・アート。着物を着て傘をさした草間が、ニューヨークのストリートを歩きまわるシーンを25枚のカラースライド写真に収めたものである。

 

着物は草間にとって日本の女性の伝統的な習慣を象徴していると考えられる。傘は本当は黒傘だが表面は白く塗られており、偽物の花束で装飾されている。そうした格好で草間はよく分からない未知のニューヨークのストリートを歩いている。

 

アメリカの中心地で日本の伝統的な衣装を着て歩く姿に周囲から異様な目が向けられる。最後は、草間は理由もなく身体を反転させ、泣き始め、最後は視界から離れて見えなくなる、という内容である。

 

このパフォーマンスは、アジア系アメリカ人の女性がアメリカで直面するステレオタイプを表現している。しかしながら、ニューヨーク在住で前衛芸術家として地位を確立した草間の場合、この状況は異なる意味合いがある。この作品は草間がニューヨークに移ってから9年後に作成されたものである。着物は文脈を変えて「伝統」から「異文化融合」によるポジティブな意味あいにもなる。

 

草間はもともと保守的で厳しい日本の家庭で育った。家族からの圧力が原因で、彼女は精神病に患わり、彼女は水玉の幻覚が見えるようになった。その後の日本での芸術活動も家族と同じく草間にとっては大きなストレスになる。こうした環境からなんとか逃れるため草間は、1957年に日本(家族)を捨ててアメリカへ移る。移るやいなや草間はハニングやパフォーマンスなどで国際的なアートシーンで成功するものの、巨大な街ニューヨークで疎外感を感じたという。

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【作品解説】草間彌生「無限の鏡の部屋:ファリスの平原」

無限の鏡の部屋:ファリスの平原 / Infinity Mirror Room - Phalli's Field

ブレークスルーのきっかけとなった最も重要な「鏡の部屋」作品


草間彌生「無限の鏡の部屋:ファリスの平原」(1965年)
草間彌生「無限の鏡の部屋:ファリスの平原」(1965年)

概要


「無限の鏡の部屋:ファリスの平原」は、1965年にニューヨークのカスラーヌ・ギャラリーでの個展「フロア・ショー」で初めて公開されたインスタレーション作品。間がブレークスルーするきっかけとなった最重要作品の1つ

 

これまでの活動で、草間は20以上の異なる「無限の鏡の部屋」シリーズを制作している。「ファリスの平原」は最初の作品である。

 

15平方フィートの鏡の部屋の床に、赤と白の水玉模様の布で覆われた数百点のぬいぐるみ製の陰茎(ファリス)のようなものが敷き詰められており、壁には鏡が貼り付けられている。

 

草間は1962年から1964年の間に、何千ものぬいぐるみ製の陰茎を制作し、それらを家具に貼り付けた「アキュミレーション・スカルプチャー(集積彫刻)」を制作している。ファリスの平原は集積彫刻の延長線上にある作品である。

 

当初、草間は部屋全体を陰茎状の物体で覆われた幻覚的な世界にしよと考えたが、自分自身もまたお手伝いをする人にとっても精神的にも肉体的もつらいことがわかり断念。そこで、反復性のある鏡を部屋の壁に敷き詰めるアイデアを思いついたという。

 

それどころか鏡の反射面によって、彼女自身が制作できる点数よりもはるかに物理的限界を超える世界観を創造することができたという。

 

■参考文献

Infinity Mirror Rooms – Yayoi Kusama: Infinity Mirrors | Hirshhorn Museum | Smithsonian 

Into the Land of Polka Dots and Mirrors, With Yayoi Kusama

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【展示】アートバーゼル香港2017

アートバーゼル香港2017


概要


アートバーゼル香港2017では、20世紀から21世紀の今日までのアジアと欧米の近現代美術の巨匠から才能のある若手芸術家の美術までを幅広く紹介。世界中から3000人以上の芸術家たちの絵画、彫刻、ドローイング、インスタレーション、写真、映像、高品質な限定作品が展示される。

 

アジアや太平洋岸から参加するギャラリーが半分以上を占め、地域のアーティストたちに門を開くだけでなく、世界中のギャラリーから最高品質の作品をアジア地域へもたらす場所を提供する機会ともなるだろう。

 

展示だけでなくディスカッションやプレゼンテーションのプログラムを通じて、フェアでは芸術家、ギャラリスト、キュレーター、コレクター、ビジターらと意見交換なども行われる。

 

また、アート・バーゼル期間中には、地元の美術機関と協力し、街全体で何百もの文化イベントやアートプログラムの企画を開催する予定だ。

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【アートフェア】アート・バーゼル「世界最大のアートフェア」

アート・バーゼル / Art Basel

世界最大のアートフェア


概要


「アート・バーゼル」は、スイスのバーゼル、アメリカフロリダ州マイアミビーチ、中国の香港で毎年開催される世界最大の近代美術と現代美術のアートフェア。各ブースには、著名芸術家や期待の若手芸術家たちの今の作品が展示される。また、各ブースで展示される作品に加え、開催都市に所在している美術機関と協力して共同プログラムを開催している。

 

アート・バーゼルはアーティストの成長を支える原動力となり、また視覚美術(visual arts)の発展とプロモーションを続けている。世界的に有名なアーティストの刺激的な作品を展示するだけなく、常に視覚美術の新人アーティストを発掘、意見交換、プレゼンテーションをするためのプラットフォームとなっている。

 

アートバーゼルに参加するギャラリーは、長年展示運営を務めてきた国際的なギャラリーから構成される選考委員会による審査を受ける。1週間以上の審査プロセスを経たあと、アートバーゼルによって確立された厳格な審査基準にそって、フェアへの参加を許可するか選考される。

 

2002年にアート・バーゼルは公式ディレクターであるサミュエル・キラーのリーダーシップのもとマイアミ・ビーチでも開始。また2013年の5月より香港でもアート・バーゼルが始まった。

 

公式サイト:https://www.artbasel.com

 

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アメリカ美術

アメリカ美術 / American art

アメリカ人が制作、またはアメリカで制作された視覚美術


ジャスパー・ジョーンズ『3つの旗』(1958年)
ジャスパー・ジョーンズ『3つの旗』(1958年)

概要


アメリカ美術は、アメリカ国内またはアメリカ人によって制作された視覚芸術。アメリカン・アートともいう。アメリカには植民地以前からネイティブ・アメリカ人の伝統芸術は多数存在し、またスペイン植民地時代にはスペイン風の美術様式の建築物が多数存在した。

 

東海岸の初期の植民地時代の芸術は、当初はヨーロッパ出身の芸術家頼みで、アメリカ人の芸術家はほとんどいなかった。当時の代表的な芸術家はイギリス出身のジョン・ホワイトである。18世紀後半から19世紀初頭には、芸術家はおもにイギリス絵画風に肖像画や風景画を描いていた。

 

18世紀後半になると、ベンジャミン・ウェストとジョン・シングルトン・コプリーの2人のアメリカ人画家がロンドンの美術界で成功する。この頃になるとアメリカ本土で制作を行うアメリカ人画家のスキルはかなり熟練したものになった。

 

19世紀になると、芸術家を養成するためのインフラストラクチャーがアメリカで多数設立し始める。1820年からハドソン・リバー学校はロマン主義風景画を制作する。彼らはハドソン渓谷やキャッツキル山地などアメリカの自然風景を描いて、ハドソン・リバー派という新しいムーブメントを起こした。また、アメリカ独立革命は、特に歴史絵画に大きな需要を産み出した。

 

1913年にニューヨークで開催されたアーモリー・ショーでヨーロッパの近代美術がアメリカで紹介された。

 

第二次世界大戦後、ニューヨークはパリに変わってアートの中心地になった。それ以来、21世紀の現在にいたるまで、アメリカで発生したムーブメントは、近代美術とポストモダン芸術の歴史を形作った。今日のアメリカの芸術スタイルはいまだ世界のムーブメントに影響力を持っている。

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アメリカ現代美術史3「連邦美術計画と亡命芸術家たち」

アメリカ現代美術史3

連邦美術計画と亡命芸術家(1930s〜1940s)


連邦美術計画のロゴ。
連邦美術計画のロゴ。

抽象表現作家の活動を支えた「連邦美術計画」


1930年代に世界大恐慌が発生すると、当時の大統領のルーズベルトはニューディール政策を発動する。

 

WPA(雇用促進局)は失業した芸術家たちを救済するため、公共施設に装飾ペイントを行うなど、さまざまな芸術家支援計画「連邦計画第一」を実行した。ディレクターはホルガー・ケイヒル。この芸術家の支援プログラムは、1935年8月29日から1943年6月30日まで続いた。

 

「連邦美術計画(FAP)」は「連邦計画第一」のプログラムのひとつ。ヴィジュアル・アート(美術、視覚芸術)分野に特化した支援計画で、壁画、絵画、ポスター、写真、Tシャツ、彫刻、舞台芸術、工芸などに携わる芸術家の仕事を支援した。

 

連邦美術計画はアメリカ全州で100以上もの芸術コミュニティセンターを設立。10000人以上の芸術家が連邦美術計画から依頼を受け、地方自治体の芸術コミュニティセンターで作品を制作・展示したり、また自治体の建物を装飾や美術の教育活動を行った。当時、芸術家に支払われた賃金は週給23.60ドルだったという。

 

この時代、1930年代から1940年代の頃のアメリカでは、まだ一般的に抽象芸術は美術とみなされていなかったが、WPAのプログラムでは具象作家と抽象作家を区別せず支援していたといわれる

 

その結果、連邦美術計画はジャクソン・ポロックデ・クーニングをはじめ、のちの抽象表現運動を支援することになり、最終的に彼らはアメリカを代表する芸術家まで成長した。連邦美術計画のサポートがなければ、抽象表現主義が生まれていなかったかもしれないといわれている。

1936年の連邦美術計画の雇用活動の概要ポスター。
1936年の連邦美術計画の雇用活動の概要ポスター。
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【作品解説】アンリ・マティス「生きる喜び」

生きる喜び / The Joy of Life

「ダンス」の基盤になったマスターピース


アンリ・マティス『生きる喜び』(1905-1906年)
アンリ・マティス『生きる喜び』(1905-1906年)

概要


「アヴィニョンの娘」と並ぶ初期前衛芸術の代表作


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ウィーン分離派

ウィーン分離派 / Vienna Secession

伝統に反発したオーストリア前衛運動


分離派ビル
分離派ビル

概要


ウィーン分離派は1897年にオーストリアの芸術家たちによって創設された芸術運動。画家、彫刻家、建築家たちから構成される。初代理事長はグスタフ・クリムトとルドルフ・フォン・アルトで、彼らは名誉会長となった。ウィーン分離派が発行していた公式雑誌は『Ver Sacrum』という。

 

ウィーン分離派は1897年4月3日にグスタフ・クリムト、コロマン・モーザー、ヨーゼフ・ホフマン、ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ、マックス・クルツヴァイル、ヴィルヘルム・ベルナツクをはじめ多数の芸術家によって創設された。

 

のちに参加した芸術家にエゴン・シーレオスカー・ココシュカがいる。オットー・ワーグナーはウィーン分離派の重要メンバーとして見なされることがあるが、創設メンバーではない。

 

分離派の芸術家たちは、ウィーン・キュンストラーハウスを基盤に活動していたオーストリア芸術連盟から脱退したメンバーで構成される。歴史主義建築などの保守主義芸術に向かうウィーン・キュンストラーハウスに反発してより前衛的で実験的な表現を目指した。

 

ほかのムーブメントと異なり、ウィーン分離派に参加したメンバーの作風を統一スタイルが存在していない。保守主義や伝統芸術に反対する芸術家たちの集まりといってよいだろう。分離派ビルの入口には「全世代のための芸術。芸術に自由を」というプレートがかけられていた。彼らは歴史的な影響を受けていない新しいスタイルの芸術創造を希望していた。

 

分離派の展示で最も有名なのは、1901年のオーストリアの作曲家ベートーベンに焦点をあてた第14回ウィーン分離派展示会。クリムトは縦7フィート(約2m)、横幅は112フィート(34m)もある壁画作品『ベートーベン・フリーズ』を制作。ほかに注目浴びた作品はマックス・クリンガーのベートーベンの彫刻作品だった。


オスカー・ココシュカ

オスカー・ココシュカ / Oskar Kokoschka

独自の道を歩んだ表現主義作家


オスカー・ココシュカ『風の花嫁』(1917年)
オスカー・ココシュカ『風の花嫁』(1917年)

概要


生年月日 1886年3月1日
死没月日 1980年2月22日
国籍 オーストリア、イギリス
表現形式 絵画、詩
ムーブメント 表現主義
関連サイト WikiArt(作品)

オスカー・ココシュカ(1886年3月1日-1980年2月22日)はオーストリアの画家、詩人、劇作家。激しい表現主義のポートレイトや風景画がよく知られている。

 

ドイツ表現主義、またはオーストリア表現主義周辺で活躍した作家として一般的には紹介されるが、ココシュカはどちらにも正式には参加していない。生涯、独自の絵画スタイルを追求した。

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ロバート・マザーウェル

ロバート・マザーウェル / Robert Motherwell

抽象表現主義を理論化して運動を先導


ロバート・マザーウェル『スペイン共和国へのエレジー No.110』(1971年)
ロバート・マザーウェル『スペイン共和国へのエレジー No.110』(1971年)

概要


生年月日 1915年1月24日
死没月日 1991年7月16日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画
ムーブメント 抽象表現主義、ニューヨーク・スクール
関連人物 ロベルト・マッタ、ウォルフガング・パーレーン、ジャクソン・ポロック
関連サイト The Art Story(略歴)
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【完全解説】村上隆「ハイとロウの境界を曖昧化するスーパーフラット」

村上隆 / Takashi Murakami

ハイとロウの境界を曖昧化スーパーフラット


村上隆『727』(1996年)
村上隆『727』(1996年)

概要


生年月日 1962年2月1日
国籍 日本
活動場所 埼玉県(日本)
表現形式 絵画、彫刻、版画
ムーブメント スーパーフラット
関連人物 奈良美智Mr.Blum&Poeシェイカ・アル=マヤッサラリー・ガゴシアン
関連サイト

Kaikai Kiki

Artsy(作品・略歴)

artnet(作品・略歴)

村上隆(1962年2月1日生まれ)は、国際的に幅広く活動している日本の美術家。絵画や彫刻などのファイン・アートが活動の中心ではあるが、ほかにもファッション、グッズ販売、アニメーション、映画など、従来においてはコマーシャル・メディアと見なされている領域でも積極的に活動している。

 

村上は、美術史において「ハイ」と「ロウ」の境界線を曖昧にした表現「スーパーフラット」で評価されている。浮世絵や琳派など日本の伝統美術と戦後の日本のポップカルチャーの平面的な視覚表現に類似性や同質性を見出し、それらを1つの画面に圧縮している。

 

また、スーパーフラットは、戦後の日本社会で発生した無階層的で一様な大衆文化も表しているという。

 

村上の芸術キャリアは美術史上においてかなり特異な存在である。活動初期から日本の美術業界のマーケットに絶望していた村上は、戦略的に欧米を中心とした美術市場で、芸術家としての自己を確立することを決める。

 

さらに、欧米の美術市場で自己を確立したあと、逆輸入する形で日本での活躍を試みた新しいタイプの芸術家だった。これは、海外で評価されたものは積極的受容しがち日本の国民性を理解した上での行動であると思われる。(草間彌生や奈良美智など以前から逆輸入型の芸術家はたくさんいるが、戦略的ではない。)

 

彼はアートをビジネスとしてとらえており、芸術家であると同時に有限会社『カイカイキキ』の代表であり、多くの人を雇用して芸術を生産する経営者である。絵若手芸術家のキャリア育成や『GEISAI』などのアートフェアの企画・運営、中野ブロードウェイに画廊『Hidari Zingaro』、バー『Bar Zingaro』など多数の店舗を経営している。

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【完全解説】マーク・ロスコ「瞑想する絵画」

マーク・ロスコ / Mark Rothko

瞑想する絵画


マーク・ロスコ「緑と栗色」(1953年)
マーク・ロスコ「緑と栗色」(1953年)

概要


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抽象芸術

抽象芸術 / Abstract art

造形要素それ自体で構成される作品


カジミール・マレーヴィチ『シュプレマティズム』(1916年)
カジミール・マレーヴィチ『シュプレマティズム』(1916年)

概要


抽象芸術とは、現実世界における具体的な対象を写しとらず、形状、形態、色、線といった造形要素それ自体を使って構成される作品。現実という表層の下に隠れた世界の本質(骨組みや構造など)を表現することを目的としている。

 

西洋芸術はルネサンスから19世紀のなかばまで、できるかぎり現実の世界(目で見える世界)をそのまま忠実に再現しようと努力してきた。

 

しかし、19世紀の終わりごろから写真や科学が浸透し始めて、絵画の存在意義が低下してくると、これまで画家たちの顧客だった教会からの支援が減少する。生活に危機感を感じた多くの芸術家たちは、絵画に対して新しい価値観を提示する必要に迫られた。

 

そうして、目に見えないものを描こうとするさまざまな新しい美術(近代美術)が現れ始めた。内面を表現しようとフォーヴィスムやシュルレアリスム、複数の視点から世界を描くキュビスム、速度を描く未来主義などである。

 

この新しい絵画はかつての顧客であった教会よりも、一般人、特に富裕層や哲学者たちに受けいられるようになった。芸術家の顧客は教会から富裕層へ知識人へ移行した。抽象芸術もこうした流れの中で発生して、受けいられるようになった。

 

20世紀以前から抽象絵画は存在し、たとえば日本や中国の水墨画、イスラム世界の装飾芸術など西洋以外のほとんどの芸術は抽象芸術だったが、最初に意図的に抽象絵画を制作したのはワシリー・カンディンスキーで1910年とされる。ほかに最初期の代表的な抽象画家としては、ピート・モンドリアンフランシス・ピカビアカシミール・マレーヴィチパウル・クレーなどが挙げられる。

 

また、抽象芸術は大別して、色彩で人間の内面のエネルギーを表現する「熱い抽象」と、合理的な幾何学形態により純粋造形に徹する「冷たい抽象」の二つの方向がある。

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茶一

茶一 / Chaichi

閉ざされた空間内の美女を表現


モデル:桐生すばる
モデル:桐生すばる

概要


茶一は日本の写真家。薄暗い閉ざされた空間内で女性の美しさを表す作品を制作している。なかでも格子、ブロック、風呂などタイル状になった空間を背景にして撮影された写真は、内面的で非現実的な世界観を生成している。

 

撮影場所の多くは旧家の古い蔵をイメージしたセットに改造した自宅。以前は職業写真家として活動しており、本格的に表現活動を始めたのはここ数年。2016年には2度個展を開催し、自費制作の作品集も刊行している。

 

■おもな展示履歴

・2010「紅唐」(前衛芸術珈琲マッチング・モール)

・2011「ひとめよくらむ」(カフェ百日紅)

・2016「緋色を纏う」(ギャラリー新宿座)

・2016「爪紅恋歌」(寫眞喫茶 アウラ舎)

・2017「ひめごとの匣」(新宿眼科画廊)

 

公式Twitter:gubaidulina1

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