読書メモ 「私と直観と宇宙人 横尾忠則」

私と直観と宇宙人 横尾忠則

横尾忠則のすべてがここにある


▼シンクロニシティ

このシンクロニシティの不思議さにいつも彼は驚いている。しかし。天界におけるシンクロニシティは、主にその人間の運命すなわち使命を示唆するときにのみ用いるのだ。従って現界で起こっているシンクロニシティは天界から直接受けている事はまれなのである。感度のいい人間が宇宙波を通じて、運命的示唆を時々察知するぐらいで、天界波と宇宙波をちゃんと認識して、その区別をする必要があるとおもう。


シンクロニシティが神がかり的に説かれていることがよくあるが、現界で起こっているシンクロニシティは誰しも感知できる事象で、むしろ自然界は全てこのシンクロニシティによって成り立っているというべきだ。天界は安易なシンクロニシティによって人間を諭すようなことは絶対にしないことを知るべきである。従って天界はシンクロニシティというより、その人間の運命すなわち使命を諭す場合のみに、その人間がより理解しやすい形の奇跡を起こすのである。


▼夢

夢はビジョンや。経験を通して常に何かを人に伝えたり教えたりすることに必死になっているように思う。夢こそ真実の自己に出会う唯一のメディアだと考えとるのだ。だから夢と同様、無意識で行ったことは、いずれ顕在意識にもその影響の波及があってもおかしくないのではないやろうか。古代人が夢を啓示として受け取ったようにワシも彼等に見習おうとおもっとる。そして夢を導師とあがめ、また友と慕っている。

 

▼イルカ

那智の3の滝の前に立っているワシの足元からいきなり二頭のイルカがピョーンと二頭宙に弧を描く夢のシーンを見た。そしてNHK教育テレビの番組「横尾忠則と滝と冒険」のスポットがそのシーンである。そしてこの3の滝こそ、ワシが滝つぼに飛び込むかどうか思案にあぐねていた滝だったのである。


▼過呼吸

ワシは心と身体が分離して酸素過多症候群とかで入院する羽目になってしもた。夕食を前にして突然呼吸困難に陥ってしまったのだ。病院に運ばれたときは足の先から痺れはじめ、それがどんどん這い上がってきた。万事休すとおもったとき、ピカピカと光るものが見えた。半分死にかけて幽体が地球を離れようとでもしているのだろうか。その閃光を眺めていると次第に悲しい感情がこみ上げてきて、涙がとめどなく流れ始めた。この悲しみは普通の悲しみとは違うで。まるでマリア様が人類に代わってないているみたいや。するとワシの涙はマリア様の代理涙ちゅうことになるのかな。ワシは顔中涙でずくずくにぬらしながら、意識の片隅でぜんざいが食べたくて仕方がないという感情にとらわれていた。この症状は時々若い女性のみに起こる発作で、男性が経験することはほとんどないらしい。つまり脳の中の酸素が過剰になって生じる呼吸困難で、そんなことを知らない救急隊員は必死に酸素呼吸を行なったためさらに過剰な酸素が増量され、痺れがおきたのだという岡本かの子もいつもしくしくと悲しいこともないのに泣いていたそうで、一種の宗教体験なんだって。


▼カトリック

長女が大きくなったときだ。「夕べも白い長い洋服を着たきれいな外国人のような女の人がベッドの所に来たわ」といった。何でも時々その美しい女性が深夜に彼女の所に訪れるらしい。そして「わたしはマリアよ」と自分のことをそう呼ぶのだった。そんな娘は学校へ行くようになってからはキリストやマリアの聖画を集めるのが趣味になった。幽体離脱も頻繁にするようになった。これに似た経験はワシもあるが、彼女はその回数はかなり多い。そしてある日ついに、というべきか、寝ているときに部屋いっぱいに羽を広げた大きい天使が飛び込んできた。そしてグレゴリオ聖歌を彼女にたっぷり聴かせた。その日から彼女は教会に足を運ぶようになり、その数年後、洗礼を受けて本物のクリスチャンになり、一日も欠かさず教会の礼拝に出席している。彼女がなぜクリスチャンになったかワシは知らないが、彼女を突き動かした何か見えない力によって導かれていったことだけは確かのようだ。


▼建前

東京弁の論理に対して関西弁は感覚的でだ。時には五感全体を使って表現するから身体的でもある。東京人の動作と関西人の動作は違う。東京人は犬のようにきびきびしているが関西人は猫のようにのらりくらしながら身体を猫のようにぐねぐねさせる。東京人は本音と建前を分離させているが、関西人はその二つがごっちゃである。本音の中に建前があり、建前の中に本音があるのだ。

 

▼京都
その典型が京都にある。「あらまもうお帰りやすか、まあ上がってブブでも飲んでおくれやす」。その気になって座敷に上がってお茶でも飲もうなら、腹の底で「まあ、このどあつかましい」ということになる。この辺の心理の機敏をかぎ分けるスリルは醍醐味でもある。だけど日本の文化は関西弁に代表されるように西洋に比較するとかなり曖昧だ。日本家屋ひとつとっても内部と外部がはっきりしていない。山水画だって天地の境がない。朦朧としている。西洋はやたらとジャンル分けをしたがる。自己に対して他者を位置づけ、何でも対立させて喜んでいるようだ。そしていちいち意味を問う。「なぜ、なぜ、なぜ」と。理由が認められないものに対する評価の恐れか。


▼直観

芸術家は自我から出発するが、最終的には自我を消さなければいけない。「オレがオレが」という意識は努力によるものだが、努力を強調するあまり、我に執着してしまう危険性がある。その結果、己しか信じられない人間になりやすい。直観に従うことは自己放棄の第一歩かもわからん。直感は認識に関して分析的な思考と違って、精神が対象を直接に知的に把握する力の作用がある。この働きの本源をワシは自然や宇宙や神が有する情報だと考えている。直観とは本来神的なもので、天界の願望を素直に感ずることだ。つまり使命を諭すための作用でもある。この場合無意識による自我などどいうものと違う。だから直観は受けるものの特に由来する場合が多い。だから直観と閃きは違うのや。直観は神的、閃きは人的というわけや。


▼テレパシー

テレパシーによってUFOが応答してくれるようになってからは、人とワシの間でもテレパシーが可能であることも知った。その先ず最初はユリ・ゲラーとの直接的なテレパシー実験をやった。テレパシー能力のある人の共通した性格は自分に妥協できない子どものようなわがままで無邪気な人に多かった。ワシは天空に向かって波動を送信するのである。ワシの波動は宇宙の友に矢のように届くそうだ。すると友は次元移動を試みてワシの設定した視覚空域に光体と化して顕現してくるのである。


▼天界

天界の存在よりその都度、媒介者を通してワシに必要なメッセージや波動が送られてきた。その結果、ワシは天界の意志を地上に下すべき媒体の役割を自らに約束した。そして芸術家は神の道具となるべく運命づけられた使命によって創造すべきであるという考えに達したのだ。

 

▼一定の方向

ワシは直観で人間が輪廻転生することを理解し、過去世も来世もその存在には何の疑問も抱いていなかった。魂はある一定の方向性を持っとるので、前世と全くかけ離れたような人生を生きるというようなことはないと思う。だけどその魂が前世でか今生でかでカルマ(業)を解脱した場合は、一定の魂の方向性は無視されるはずや。だからよくない性癖は止めたほうがいいというのはそういうわけと違うやろか。でないといつまでも輪廻のサイクルの中でぐるぐる廻っているだけで、ちっとも幸せな人生に遭遇しないと愚痴ばかり言うことになるはずや。インドではこの輪廻のサイクルからなんとか離脱して再びこの世に生まれ変わってこないことを願うために、修行したり宗教生活をしたりするのや。たとえばワシは今生において絵を描いているが、ではワシがなぜ絵を描かなければないのかといえば、その答えは前世にあって今生では知る由もない。。両親に才能があったわけでもないし、家系にそんな趣味のある人物がいた話など聞いたことがない。魂は肉体のように遺伝子を持っていないので遺伝するというようなことはないが、魂自体の性質による方向性はある。

 

▼母

瀬戸内寂聴さんは少し上空を飛ぶ蛍を見て「UFOだわ」とおっしゃるものだからワシが「あれはホタル」と訂正したら、「だって点滅しているわよ」だって。よくこれで王朝文学の世界と通じ合えるものだ。そりゃ錯覚したほうが愉しいに決まっているかもしれんが、ワシのUFO目撃までが錯覚の産物だと思われたら困るので、幻想と現実の間に線を引いたというわけだ。それともワシのUFO体験を瀬戸内さんはみんなワシの暗示だと思っているのでは。前世ではワシの母親であった瀬戸内さんは子どもの言うことを認めてくれなきゃ困る。


▼先祖供養

ワシは芸術は本来あちらの世界をこちらの世界に映すものだと思っている。たとえば先祖供養はその最もたるものじゃないかな。こういう行事を通して生者が心理的に浄化されるというともあるやろうけど、生者と死者の間は念で結ばれているから、当然供養などをしてあげると死者にはその想いが通じて、彼らの魂も浄化されるはずだ。こちらがあちらの助けを必要なようにあちらもこちらの助けを必要としているのだ。つまり異界と現界は相対的なもので常に合わせ鏡と思えばいいのじゃないかな。


▼アカシック・レコード

この世界に必要なものはすでにあちらの世界に用意されていると考えればいいと思う。自我の範囲内でゴチャゴチャやっている間はこの宇宙のアカシック・レコードという知恵袋の存在に気づかないやろうけど、自我を一旦離れればそれはダイレクトにあちらの世界がこちらに顕在化するはずだ。ワシがコンセプトを放棄するのはこういう理由からや。直観こそ最大のコンセプトである。


▼冒険

僕が冒険小説が好きなのは、もちろん冒険という未知に対する挑戦に興奮するわけですが。それは異界に接触することと全く同じなんじゃないかと思うからです。ぼくの中の因子がどうしても異界と接触したがわるわけですね。


▼アンドロギュヌス

滝はエロチックだ。垂直に滝つぼに落下する滝は、男性器と女性器の合体だ。滝はその性質上両性だからアンドロギュヌスであり、芸術家の特性でもある。那智滝はそれをその形体で説明している。この滝は全国でも有名な御神体である。そやけどエロチックな表現がされているかいないかで、作品の深さはうんと変わる。


▼車

「横尾さんと車に乗るとヤバイなあ」それもそのはずワシは3度もタクシーで事故を起こしているからだ。「旅」誌で取材したときもタクシーが対向車と正面衝突した。そのときも同乗の編集者は事故の原因がワシにあると思い恐怖したらしい。


▼死

ワシの死後のイメージは生の延長線上に置いているので、生も死もさほど変わらないと判断している。そりゃ死んだ当初はパニックを起こしているので、すぐ自分が死んだことを認識できないと思うが、そのうち時間が経つに従って死を認めることになるだろう。現世に対して執着が強いければ強いほど苦痛は激しいだろうと想像できる。ワシは死の世界から生の世界をのぞくことによって生を実感しているのだ。自分の最もヤバイ自分を描くことだ。自分で自分の首をしめてみせる。そのギリギリがロマン主義だ。三島由紀夫がそうだったけど。