【インタビュー】壱岐紀仁インタビュー「Black Magic」1

バリ・ヒンドゥに眠る黒魔術のドキュメンタリー

映画「ねぼけ」壱岐紀仁の幻の初期映像作品


映画「Black Magic The Movie In Balli」より。
映画「Black Magic The Movie In Balli」より。

映画「ねぼけ」の監督で話題の壱岐紀仁さんの自主制作映画「Black Magic The Movie In Balli」に関するインタビューを10年ほど前に行った。そのときの内容をブログに掲載する。Black Magicは、インドネシアのバリ島に残るバリ・ヒンドゥの黒魔術「ランダ」のドキュメンタリー映像である。ランダの舞手として現地で活躍している日本人僧侶こと川手鷹彦氏の魂の浄化を通じて、現在社会におけるランダ、そしてオルタナティブ文化の存在意義を問いただしている。

ランダとは


ランダとはインドネシア・バリ島の伝わる魔女。ランダは見るからに恐ろしい形相をしており、子供を食べるという。善を象徴する神獣バロンと対立する存在で、ランダは魔女の軍隊を率いてバロンと戦う。舞踏で表現されるバロンとランダの戦いは善と悪の永遠の戦いを表しているという。なお、ランダとは「未亡人」を意味する古いジャワの言葉でもある。映画「Black Magic The Movie In Balli」は、魔女ランダの舞踏と舞手たちを映したドキュメンタリー映画である。



バリ・ヒンドゥの黒魔術を撮影するに至った経緯を教えてください

自分の創作意欲と相手の極限状態が一致したんです


ちょうど僕が会社を辞めた翌日に、映画「Black Magic」の主人公で、ランダの舞手でもある川手鷹彦さんという方から「バリに来て、Rangda(ランダ)を撮らないか。これが最後になるかもしれないんだ」って突然連絡がきました。そのとき、事情はよくわかりませんでしたが、なにか鬼気迫るものを感じたので、すぐに行くことに決めました。

 

川手さんは演劇治癒教育者として世界中を駆けまわっている方です。心を病める子どものための治癒教育をしています。演劇や詩の朗唱など、芸術行為を通じて心の治癒を行います。川手さんと知り合ったのは、僕がライフワークで子どもの写真をずっと撮っているんですが、あるとき知り合いのカメラマンさんが僕の写真を見て、「これだったらいい人いるよ」って、紹介して出会ったのが川手さんでした。そこから親交が始まりました。

 

そのとき川手さんについては、変わった舞をやっているのを聞いていたぐらいでした。で、僕が会社を辞めて自分の映像を作りたいなと思っていたタイミングと、川手さんがバリ・ヒンドゥのランダの舞を極めて、精神的にはギリギリの危ない状態のところまで来ていたタイミングが見事に合致しました

Facebook「藝術治療教育者川手鷹彦伝言板」。
Facebook「藝術治療教育者川手鷹彦伝言板」。

ランダの舞に反応する人とはどういう人なのでしょうか

田舎から上京してきた真面目で頑張り屋の女性


「Black Magic」公開後、泣いていた女の子がいて。その子はうつ病のお父さんと一緒に生活していて、お父さんが必要以上に頑張るんだけど、娘たちは「もう、いいよ」と。私たちは十分生活できているし、大丈夫だからというのだけれども。うつの人って、頑張る方向になるから、非常にそこで苦労しているらしいのですね。

 

でも、あのランダの舞を見ていると自然と泣けたんだと。それは、たぶん成功したかなと僕は思ったのですよ。業が深い人ほど、たぶんランダの舞になにか感じるものがあるのだろうと。ほかに、プライベートで絵を描いていたのですけれども、仕事を始めて絵を描かなくなった女の子がいて、その子も泣いたっていう。「やっぱ、そういうものなんだなランダって」っていう確信が少しずつ持て始めましたね。

 

例えば辺境の、非常に厳しい環境で育てられて、逃げるように東京にきて、それでもうまくいかなくて・・・ その怒りに代わるエネルギーとして、ランダの文化に魅かれるところがあるのかもしれません。

 

ランダの舞手とはどういう人なんでしょうか

強烈なカルマを背負っていたり、トラウマ、秘密を抱えた人


ランダを舞う人も、ただ舞いが上手いだけではダメで、カルマを背負ってないとうまくいかないようです。川手さんの後継者でバユという若手の舞手がいるのですけど、おそらくまだ舞うレベルに達していないのですね。

 

なぜかっていうと、ランダは技術ではなくて、もっと過去に悪いこといっぱいしてきたとか、カルマを背負っているとか、隠していることが多いとか、秘密とか、根っこの闇とか、トラウマとか、非常に大きなものを抱えた人でないと舞えないというのがあるんですよ。

 

決してトラウマがなければ舞えないということではないのですけれども、その業の深さで導かれるとか、舞手として選ばれるので、そういう意味でまだ後継者のバユは足りない部分があるだろうと。

 

律儀で真面目だし、彼はすごい川手さんのこと信頼しているんですけれど。舞いの技術では川手さんより上ですしね。でも、居合わせる人々にトランスを導くことができない。

 

バユの舞いは、綺麗なんですけど、普段抱えているモヤモヤを出すまでには、まだ至っていないというか、そのへんは精神の問題になってくると思うんですけれど。

日本のアングラ文化に似ていますね

ランダは集団的作業なのが日本の文化との大きな違い


若い頃、アングラ作品・・・とりあえず丸尾末広から学んでいったのですけれども、なんでこの人たちの作品はこんなに印象に残るのかなと思っていたんです。その答えが、けっこうバリではっきりしたことがあって、やっぱりアングラっていわれる人たちは、非常に追いやられているんですよね。それは作品ではなくて日常で。

 

そういう人って、ただ生きるだけで、色んな人の悪意にものすごく触れてきたと思うのです。悪意に対して、外側からも内側からも極度に敏感になっているから、それがランダに近い状態じゃないのかって思います。一触即発で業が吹き出るっていう。

 

日本では、そういう業を出す文化がマンガだったり色々ありますが、まず個人に委ねられていますよね。でもバリのすごいところは、それが集団作業。バリでは1人で業を出す必要もないんですよね。ほとんどど個人作家が存在しない。

 

なぜかというと、それはバリ・ヒンドゥという大きな宗教の律の元に全てが成されるからです。

 

バリ・ヒンドゥって、旅行ガイド本なんかを見ると、左手が清浄で右手が不浄とか、不浄の手で子どもの神聖な部位にあたる頭を撫でてはいけないとか書いてあって、極端な二元論の国なんだなと思いこんでいたら、実は1つの体に清浄も不浄も両方あるという、正と悪とが混然一体となって共存しているっていう思想なんですね。

 

だから悪いものは悪いって排除しなくて、当たり前のようにみんなが共有しているんですよ。日本の個人の表現というのは非常に都市的であって、大衆的に洗練されている部分があるから、まず視聴者のマイルドな共有が前提に合って、形をある程度食べやすく変えていかないと皆に届いていかないという部分がありますね。

 

70年代の赤テントとかのアングラ演劇がけっこうランダの儀式に近い空気があったんでしょうけど、それも段々なくなってきて、今の日本の演劇って、それを否定する意味は全くないのですけど、どうも個人的にしっくりこなくて。変な話、トランスにならないというか、魂が揺さぶられないというのがあるんですけど。

 

それは僕のルーツでもあるんですけど。九州のド田舎で・・・航空基地があって、不法投棄があって、偏屈な価値観がぶつかり合っていて・・・非常にある種、閉鎖的な空気の中で育ったんですけれども、そういうところの祭りの空気って前近代的というか、非常に濃いのですよね。不穏な熱気がある。

 

一緒に行った早稲田の先生が、今の日本は浄化の場が非常に少ないとおっしゃてて。日ごろ抱えているストレスとか不安とかは誰でもあって、バリ人も同じ感覚なんですけど、それがあちらの人はヒンドゥの祭日が近づくと、その祭りでストレスを解放するために心も体も動き出し始めるのですよね。