【美術解説】ココ・シャネル「20世紀を代表するファッションデザイナー」

ココ・シャネル / Coco Chanel

シンプルで機能的な女性服を作ったデザイナー


概要


生年月日 1883年8月19日
死没月日 1971年1月10日
国籍 フランス
職業 帽子製造業、服飾、ファッションデザイナー、ナチスのスパイ
代表作品

・シャネルNo.5

・リトル・ブラック・ドレス

・シャネル・バッグ

・シャネル・スーツ

・ダブルCロゴ

ガブリエル・ボナール・シャネル(1883年8月19日-1971年1月10日)はフランスのファッションデザイナー、ナチスのスパイ、実業家。シャネルブランドの創立者。通称ココ・シャネル。

 

第一次世界大戦後、ポール・ポワレとともにシャネルはそれまで胸からウエスト、腰までを締め付けていたコルセットから女性を解放し、スポーティでカジュアルな女性の標準的な服装を一般大衆に広めたことで知られる。

 

多彩なファッションデザイナーであり、シャネルの影響はパリ・オートークチュール界(夜会用ドレス)まで拡大。彼女のデザイン美学はジュエリー、ハンドバッグ、香水など幅広いジャンルで認知されるようになった。

 

彼女が初めて送り出した香水「シャネルNo.5」はシャネルの象徴的な製品になった。シャネルは雑誌『Time』の「20世紀に最も影響を与えた100人」で唯一ランクインしたファッションデザイナーである。シャネルは自身で「C」の文字を組み合わせた有名な商標ロゴをデザインしているが、これは1920年代から使用されている。

 

ナチスドイツによるフランス占領時代にシャネルとナチス関係の噂が生じ、彼女はドイツ当局に接近しすぎることを批判されるようになったが、かえって彼女とナチスの接近を後押しする結果となった。シャネルと関係のあった人物の一人としてドイツの外交官のハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲが挙げられる。

 

ナチス・ドイツへの協力により自らのビジネスを守り、拡大しようとしたことは大変な問題となった。戦後、ナチスに協力したことで、フランスでは「売国奴」として非難を浴び、スイスに亡命せざるを得なくなった。戦後、シャネルはフォン・ディンクラーゲとの関係について尋問されたが、チャーチルの介入により不起訴処分となった。

 

戦後、スイスでしばらくの間過ごした後、パリに戻り、ファッションハウスを復建させる。2011年、ハル・ヴォーンは新しい機密解除された文書を基盤としたシャネルに関する本を出版し、彼女がドイツのスパイとして協力関係にあったことを明らかにした。

 

シャネルは、自らの仕事を通じて、社会的名声の獲得とビジネスウーマンの成功を達成した。また多くの芸術家や職人のパトロンとなった。特にシュルレアリスム作家との関わりが深かった。

略歴


幼少期


ガブリエル・ボナール・シャネルは1883年、フランスのメーヌ=エ=ロワール県ソミュールのシスターズ・オブ・プロビデンス(貧しい家)が運営する慈善病院で洗濯女だったジャンヌとして知られる母ユージニ・ジャンヌ・ディボラのもと生まれた。彼女はジャンヌと父ルバート・シャネルの2人めの子どもだった。1歳上に長女ジュリアがいた。

 

父アルバート・シャネルは作業服や下着を売買する行商人で、遊牧的な生活をおくり、町から町へと市場を行き来していた。シャネル一家はボロボロの宿泊施設に住んでいた。1884年、アルバートはジャンヌ・ディボラと結婚し家族の結束を強めるよう母に説得した。

 

生まれたとき、シャネルの名前は「Chasnel」として公式に戸籍に登録された。登録申請時、母ジャンヌには体調がすぐれず欠席し、またアルバートは行商に出ていたという。両親が不在だったため姓の綴りが間違っていた可能性があるが、これは両親の過失ではなく事務的な過失だったとみられている。

 

シャネル夫婦にはガブリエルをあわせて5人の子ども(2人の男の子と3人の女の子)がいた。家族はブリーブラガイヤルドの町の一部屋の宿泊施設に住んでいた。

 

ガブリエルが12歳のとき、シャネルの母親は32歳で亡くなった。死因は結核とみなされているが誤診の可能性もあり、実際は貧困や妊娠や肺炎が重なった衰弱死だといわれている。

 

父親は2人の息子を農場労働者として送り、3人の娘を孤児院が運営するオーバジーヌの修道院へ送った。孤児院では厳しい規律と質素な生活が強いられたが、孤児院での生活はココにとって裁縫を学ぶ学校でもあったので、ココの将来にとっては最高の場だったかもしれないといわれている。

 

18歳のときシャネルは、孤児院からムーランの町のカトリック少女の寄宿舎へ移った。

 

人生の後半、シャネルは子ども時代の話やヒトラーの秘密の愛人であったことなどを話すことがあるが、シャネルは自分をよく魅せるための虚言癖の持ち主だったので、彼女が語る自伝は事実といくぶん異なるところがある。

 

たとえば、母親が亡くなった際、父親は希望を託してアメリカへわたり、ココには2人の叔母のもとへ引き取られたと話している。また、生年月日をごまかし1883年よりも10年ほどに設定していたり、母親は12歳のときよりもっと幼少期に亡くなったと話している。

舞台女優を志すも挫折


オーバジーヌで6年間裁縫を学んだあと、シャネルは仕立て屋の職を見つける。裁縫をしていないとき彼女は騎兵隊の将校がよく集まるキャバレーで歌を歌っていた。

 

シャネルはムーランのパビリオンやラロトンドのカフェコンサート(当時の人気エンターテイメント会場)で歌手としてステージデビューした。彼女はショーの間に人々を楽しませるポーズをとるパフォーマーとなった。

 

ギャランティは皿が運ばれるときに客が置いていった分だった。当時、ガブリエルは「ココ」という芸名で、キャバレーで「ココを見たのは誰?」などを歌っていた。

 

ココのニックネームの由来は父親だったと話しているが、他の人は「ココ」という名前は「Ko Ko Ri KO」もしくは「Qui qu'a vu Coco」から由来していると考えている。それはフランスで「高級売春婦」を意味する言葉だった。エンターテイナーとしてシャネルは、キャバレーに集まる軍人を食い物にする少年的な誘惑を放っていた。

 

1906年、シャネルはスパリゾートの町ヴィシーで働く。ヴィシーにはコンサートホール、劇場、カフェがたくさんあり、彼女はそこでパフォーマーとして成功したいと考えていた。シャネルの若さや身体的な魅力はオーディションで注目を集めたものの、歌声はいまいちだったため落選し、舞台の仕事を見つけられなかった。

 

仕事を探す必要があった彼女はグランドグリルで働くことに決め、そこでドヌーズドーとなり、ヴィシーで有名だったうさんくさい治癒効果のあるミネラルウォーターをグラスに注ぐ仕事をした。

 

ヴィシー滞在が終わると、シャネルはムーランへ移り、以前活躍していたラロトンドで職を探した。彼女はシリアスな舞台女優の仕事に将来が見いだせないと理解した。 

バルサンとカペル


ムーリエでシャネルは若いフランス人の元刑務官で繊維業の跡取り息子エティエンヌ・バルサンと出会う。当時23歳のシャネルはそれまでバルサンの愛人だったエミリエンヌ・ダレンソンに代わる新しいお気に入りの愛人となった。

 

次の3年間、シャネルは樹木が茂り乗馬道と狩猟趣味の地域で名高いコンピエーニュ近郊にあるシャトー・ロイヤルリューで彼とともに暮らすことになった。この生活は彼女にとって自己満足的なライフスタイルだったという。バルサンが主催するパーティに参加することで、セレブたちとの交際範囲を拡大した。

 

バルサンはシャネルに富豪生活の賜物であるダイヤモンドやドレス、真珠などをプレゼントした。

 

伝記作家ジャスティン・ピカルディの2010年の研究書『ココ・シャネル/伝説とライフ』では、ファッションデザイナーの甥のアンドレ・パラスは、おそらく自殺した妹ジュリア・ベルトの唯一の子どもとされているが、バルサンとシャネルの間にできたこどもだったと考えられている。

 

1908年、シャネルはバルサンの友人のアーサー・カペルと関係を持ちはじめる。後年、シャルはこのころを回想し、「2人の紳士が私の熱い小さな身体に高い値を付けた」と話している。イギリスの上流階級だったカペルは、パリのアパートにシャネルを住まわせ、また彼女の最初の店舗に投資支援をした。

 

また、カペルの服装がシャネルのファッションセンスに影響を与えたと言われている。

 

『シャネルNo.5』のボトルデザインは2つの由来があり、両方とも彼女とカペルの関係に起因している。カペルがウイスキーを飲むのにいつも使っていた銚子である。もうひとつはカペルが革製の旅行用ケースに入れていたシャーベットの化粧用ボトルで、それは斜面が縁取られた長方形のデザインだった。シャネルはこのデザインを『シャネルNo.5』で採用したと考えられている。

 

2人はドーヴィルのようなファッショナブルなリゾート地で過ごすことが多かった。シャネルが同棲を希望していたが、カペルは常に同棲を拒んだ。2人の交際は9年続いた。カペルは1918年にイギリスの貴族ディアナ・ウィンダムと結婚したあとも、シャネルとの完全に別れることはなかった。

 

カペルは1919年12月21日に自動車事故で死去。カペルの事故現場の道路脇にある記念碑にはシャネルが委託したと言われている。事件の25年後、当時スイスに滞在していたシャネルは、友人のポールラモンに「彼の死は私にとってショックでした。カペルを失い、すべてを失いました。その後の人生に幸せはありませんでした」と話している。

 

シャネルはバルサンと暮らしながら婦人用帽子のデザインを始める。これは商業的事業への発展の転換となった。1910年に婦人用帽子業者の免許を取得し、パリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という名前のブティックを開く。

 

この場所にはすでに確立された衣料品事業社が多数乱立していたため、シャネルはここで婦人用帽子に焦点をしぼった販売をする。シャネルの帽子は、1912年に舞台女優のガブリエル・ドージアがフェルナンノジエールの演劇「ベルアミ」でシャネルの帽子を被ってから人気が出はじめた。

1912年、シャネル帽子を被ったガブリエル・ドージア。
1912年、シャネル帽子を被ったガブリエル・ドージア。

ドーヴィルとビアリッツ


1913年、シャネルはアーサー・カペルの資金提供のもとドーヴィルにブティックをオープン。レジャーとスポーツに適したデラックスなカジュアルウェアを導入した。ファッションは当時男性の下着として使われていたジャージやトリコットのような粗末な生地で作られていた。

 

場所は町の中心部のおしゃれな通りにある絶好の場所だった。シャネルは帽子、ジャケット、セーター、マリニエール、セーラー服などを販売した。

 

シャネルは当時2つの家族の、妹アントワネットと父方の叔母エイドリアンの生活支援もしていた。エイドリアンとアントワネットはシャネルのデザインをモデル化するため雇用されていた。毎日、2人の女性が町の遊歩道をパレードしてシャネル商品の宣伝をしていたという。

 

ドーヴィルで商業的成功をおさめたシャネルは、1915年にビアリッツに店舗をオープンする。スペインの富裕層顧客たちに近いコートバスクのビアリッツは、戦争により母国から亡命した人々の遊び場でもあった。

 

ビアリッツ店は商店街ではなくカジノの向かいの別荘地に建てた。1年間の運営後、このビジネスは非常に収益性が高くなり、1916年にシャネルはカペルの投資資金を返済できた。

 

ビアリッツでシャネルは、ロシアの駐在員貴族ドミトリ・パブロビッチ大公と出会った。2人は恋愛関係になり、その後何年もの間親密な関係を維持した。

 

1919年までにシャネルは女性ファッションデザイナーとして登録され、パリのカンボン通り31番地にメゾン・デ・クチュールを設立した。

彼女の帽子店内で接客するシャネル(右),1919年
彼女の帽子店内で接客するシャネル(右),1919年

クチュールの確立


1918年、シャネルはパリで最もおしゃな地区の1つカンボン通り31番地のビルを購入。1921年、シャネルはファッションブティックの仮店舗をオープン。

 

衣類、帽子、アクセサリーが中心で、のちにジュエリーやフレグランスも扱うようになった。1927年までにシャネルはカンボン通りに5つの土地と23から31の建物を所有するまでになった。

 

1920年の春(およそ5月)に、シャネルはロシアの作曲家イゴール・ストラヴィンスキーをロシアバレエの代表であるセルゲイ・ディアギレフから紹介される。

 

夏の間、シャネルはストラヴィンスキー一家が戦後ソビエト連邦を離れて住む場所を探していると聞き、シャネルはパリ郊外のガルシェにある新居ベルレスピーロに彼らの新居を見つけるまで居候させていた。結局1921年5月までストラヴィンスキー一家に滞在していたという。

 

また、シャネルはストランヴィスキーの1920年の新作バレエリュス『ル・サクレ・デュ・プランタン(春の祭典)』の制作に対する300000フランの金銭的損失を肩代わりした。

 

この頃シャネルは、クチュールコレクションを発表するだけでなく、バレエリュスのダンスコスチュームをデザインすることに専念していた。

 

1923年から1937年にかけて、シャネルはディアギレフやダンサーのバスラヴニジンスキーらと、特にダンスオペラ『青列車』の振付けにおいてコラボレーション活動を行った。

 

1922年、パリロンシャン競馬場のレースで、パリのギャラリー・ラファイエット創設者のテオフィル・バデはシャネルを実業家のピエール・ヴェルテメールに紹介した。

 

バデは彼のデパートでの「シャネルNo.5」を販売に関心があった。1924年、シャネルは有名香水化粧品会社ブルジョアの1917年以来ディレクターを務めていたヴェルメール兄弟ことピエールとポールと契約を結んだ。

 

彼らは社団法人「パルファム・シャネル」を設立し、ヴェルメール兄弟は「シャネルNo.5」の生産、マーケティング、流通に対する資金を全額提供することに同意した。

 

ヴェルメール兄弟は利益の70%を受け取り、テオフィル・バデは20%を受け取った。株式の10%を取得したシャネルは自身の名前をパルファム・シャネルを使うことを許可し、彼女自身は事業運営への関与を撤回した。

 

その後、契約に不満のあったシャネルは20年以上にわたってパルファム・シャネルの完全な利権を獲得するため動く。シャネルはピエール・ヴェルトハイマーに対して「私を台無しにした盗賊だった」と話している。

 

シャネルと最も長い関係のあった人物の1人はパリのボヘミアン集団のメンバーでスペイン人画家ジュゼップ・マリア・セルトの妻ミシア・セールだった。2人は親族並な精神的な絆で結ばれ、ミシアは「シャネルの天才性、知性、アイロニー、狂気をもった破壊力」に魅了された。

 

2人とも女子修道院出身で共通の関心事を持ち信頼関係を維持した。また2人はドラッグ趣味仲間でもあった。1935年までにシャネルは麻薬常習犯になり、毎日モルヒネを打っていたという。パリで最も素晴らしいコカインを使っていたので「ココ」と呼ばれるようになったという噂も流れた。

英国貴族との関係


1923年、ケンブリッジ男爵の私生児と噂されていたベラ・ベイト・ロンバーディがシャネルを英国貴族の最高レベルのサロンに招待した。このサロンには政治家のウェストン・チャーチル、ウェストミンスター公爵といった貴族、ウェールズ王子のような王室などの最高クラスの人物で構成されているエリートサロンだった。

 

1923年、モンテカルロで40歳のときにシャネルはロンバルディの紹介で裕福なウェストミンスター公爵のヒュー・リチャード・アーサー・グロブナーと出会う。公爵は高価な宝石、高額な芸術、ロンドンの有名なメイフェア地区にある邸宅とともにシャネルを贅沢に使用していた。彼とシャネルの関係は10年間続いた。

 

率直な反ユダヤ主義者だった公爵は、ユダヤ人に対するシャネルの先天的な嫌悪感を強めることになった。また、2人は同性愛嫌悪を共有していた。

 

同時期に再びロンバルディの紹介でロンバルディのいとこであるエドワード8世ことプリンス・オブ・ウェールズと出会う。王子はシャネルに心奪われウェストミンスター公爵と関係にありながらも彼女を追いかけたという。

 

1927年、ウェストミンスター公爵はシャネルにフレンチ・リビエラのロクブリュヌ・キャップ・マルタンで購入した土地区画を与えた。1929年2月、シャネルはその土地に別荘「ラ・パウザ」を建てた。

 

この別荘にはさまざまな当時の芸術家が訪問し、滞在した。詩人ピエール・リバーディは1930年代にラ・パウザに長期滞在し、ほかにパブロ・ピカソサルバドール・ダリ、ルキーノ・ヴィスコンティなども客として訪れた。

 

1939年、ラ・パウザに招待されたダリはそこで巨大な絵画を描き、のちにそれはニューヨークのジュリアン・レビー・ギャラリーで展示された。20世紀末にラ・パウザはダラス美術館によって一部複製され、リーブスコレクションやシャネルのオリジナル家具の一部として収蔵された。

 

設計はウェストミンスター公爵の紹介で知り合った若手建築家のロバート ストレイツが手がけている。シャネルが幼少期を過ごしたオバジーヌ修道院の影響を受けた内装で、温かみのある素朴な家具や光沢のあるカーペット、サンバースト ミラー、巨大なシャンデリアが取り入れられた。

 

なぜ、ウェストミンスター公爵と結婚しなかった尋ねられたとき、彼女は「ウェストミンスター公爵夫人は複数いた。シャネルはその中の1人」と話した。

シャネルとウェストン・チャーチル
シャネルとウェストン・チャーチル
ウェスト・ミンスター公爵とココ・シャネル
ウェスト・ミンスター公爵とココ・シャネル

映画のデザイン


1931年、モンテカルロでシャネルはサミュエル・ゴードンと知り合う。彼女はロシア最後の皇帝ニコラス2世のいとこで、共通の友人だったドミトリ・パヴロビッチ大公を通じて紹介された。

 

ゴードンはシャネルに食指が動く提案をした。総額100万ドル(現在換算で約7,500万ドル)で、彼は彼女を年に2回ハリウッドへ連れ、MGMスターの衣装デザインの仕事を依頼した。シャネルはこのオファーを受け入れた。

 

ハリウッドへの初めての旅行であり、友人のミシア・サートもハリウッド出張に同伴することになった。ニューヨークからカリフォルニアへ向かう途中、豪華な装飾の彼女専用の白い車両で移動し、1932年の『コリアーズ』誌のインタビューでシャネルは「映画を見ることが話ツァイに何をもたらしてくるか知るためにハリウッドに行くことにした」と答えている。

 

シャネルは1931年の『トゥナイト・オア・ねばー』でグロリア・スワンソンの衣装のデザインを担当した。また、1932年の『The Greeks Had a Word for Them』ではアンナ・クレアの衣装を担当した。また、ハリウッド映画女優グレタ・ガルボやマレーネ・ディートリヒらがプライベートにおけるクライアントになった。

 

しかし、アメリカ映画制作で得た彼女の体験は、シャルにとってハリウッド映画ビジネスに対する嫌悪感だった。彼女はハリウッド映画分化に対して「幼児」と罵ることもあった。シャネルは「ハリウッドはバッドテイストの首都で、下品に尽きます」とバッサリ宣告した。

 

結局、彼女のデザインの美学は映画でうまく活かされることはなかった。

 

シャネルはレディをレディらしく見せようとしたが、ハリウッドは2人のレディ像を見せたかった。その後、シャネルはさまざまなフランス映画で衣装デザインを続け、1939年のジャン・ルノワールの映画「ラ・レグル・デュ・ジュー」では「ラ・メゾン・シャネル」とクレジットが付けされるようになった。

重要愛人:レヴェルディとイリベ


シャネルは当時最も影響力のある男性たちの愛人だったが、誰とも結婚にはいたらなかった。なかでも、シャネルは詩人ピエール・レヴェルディやイラストレーターでデザイナーのポール・イリベと深い関係を持っていた。

 

1926年にレヴェルディとの関係が終焉したあとも、2人は約40年近い友情を維持し続けた。

 

イリベとは1935年に彼が急死するまで深い関係にあった。イリベとシャネルは同じ反動的な政治観を共有していた。外国人を脅威とみなし反ユダヤ主義を奨励していたイリベの極右反共和党向け月刊ニュースレーター『ル・テモアン』にシャネルは融資していた。

 

『ル・テモアン』が休刊になった翌年の1936年、シャネルはピエール・ルストリンゲスの極左雑誌『Futur』に融資し、雑誌の方向性を正反対へ変えた。

エルザ・スキャパレッリとの競争


シャネルのクチュールは1935年までに4,000人の従業員を抱える大企業に成長した。1930年代が進むにつれて、シャネルのオートクチュールにおける王位は脅かされるようになった。1920年代のフラッパーのボーイッシュな外観やショートスカートは一晩で消えていった。

 

ハリウッド映画スターに対して行ったデザインはうまくいかず、アメリカでは期待通りの評判を高めることができなかった。さらに重要なことに、シャネルのスターは、彼女の最高のライバルであるデザイナーのエルザ・スキャパレッリに奪われていった。

 

スキャパレッリの革新的なデザインは、シュルレアリスムの遊び心に満ちた表現をふんだんに活用したもので、批評家たちから称賛を集め、ファッション業界に熱気を生み出した。

 

シャネルは前衛的な感覚を喪失していると感じ、ジャン・コクトーとコラボレーションをはじめる。コクトーの劇場作品『オイディプス王』に参加したが、彼女がデザインした衣装は嘲笑され、批判を浴びた。「包帯に包まれた俳優は、事故で救急車で運ばれた犠牲者、もしくはミイラのように見えた」という。

 

また、シャネルはバレエ・リュス・ド・モンテカルロの『バッカナール』の衣装制作にも参加した。デザインはサルバドール・ダリが行った。しかし、1939年9月3日にイギリスが宣戦布告したためバレエ団はロンドンを離れることを余儀なくされた。

第二次世界大戦


1939年、第二次世界大戦が始まるとシャネルは店舗を閉じ、カーボン31番通りにあるクチュールハウス上に位置する彼女のアパートに立てこもった。シャネルは今はファッションの時代ではないと言い、結果、4,000人の従業員を解雇することにした。

 

シャネルの伝記作家ヴォーンは、シャネルが1936年のフランスの一般労働ストライキでより高い賃金と長時間労働の改善を求めていた労働者に対する報復措置として、戦争勃発を解雇理由に利用したかもれいないと書いている。

 

シャネルはクチュールハウスを閉鎖するにあたり、自身の政治的立ち位置を明確に表明した。彼女のユダヤ人に対する嫌悪は、エリート社会と深く関わることで研ぎ澄まされていき、よりユダヤ人嫌悪の信念を固め、ソ連におけるボルシェヴィキ政府を理由にユダヤ人はヨーロッパに対する脅威であるという思想を多くのサークルらと共有した。

 

1930年代のウェストミンスター公爵と恋愛中に、シャネルのスタイルは個人的な感情を反映させるようになった。彼女が小さな黒いドレスを新たに発明できなかったのはそのような現実の兆候だった。そして、彼女はミニマリズムの美学をファッションデザインにに取り入れはじめた。

パルファム・シャネルをめぐる戦い


ハル・ヴォーンの『愛がこわれるとき、ココ・シャネルと秘密の戦争」で、ココはヒトラーを称賛した「悪質な反ユダヤ主義者」として描かれている。ヴォーンはアメリカのジャーナリストで、CIAの諜報活動に通じていた経験を十全に活かして、シャネルとナチスの関係の罪状の証拠文書を次々と並べていった。

 

第二次世界大戦、特に全ユダヤ人が所有する財産および土地のナチスの収奪行為は、シャネルにとってパルファム・シャネルと収益性の高い同社の商品「シャネル No.5」の権利を取り戻す絶好の機会となった。

 

当時、パルファム・シャネルのディレクターのアラン・ヴェルテメールはユダヤ人だったが、シャネルは「アーリア人」であるという自身の立場を利用し、ドイツの役人にパルファム・シャネルの単独所有権の合法化を申請した。

 

1941年5月5日、シャネルには政府関係者にユダヤ人の金融資産の処分に関する請求書を送る。パルファム・シャネルの所有権はシャネルにあり優先権の議論をする余地はなく、この事業の創設以来17年間自身の製品から享受した利益は不相応なもので、当局はこれまで自身が被った詐害を回復してほしいという内容だった。

 

しかし、シャネルはヴェルトハイマーズが1940年5月にユダヤ人に対するナチスの命令が来るのを先回りして、合法的にパルファム・シャネルの権利をキリスト教のフランス人実業家で産業家のフェリックス・アミオットに法的に委譲したことを把握していなかった。戦争の終わりにアミオットはパルファム・シャネルをヴェルトハイヤーの元に返却した。

 

第二次世界対戦の終結直後の期間中、ビジネスシーンでは、パルファム・シャネルの所有をめぐる現在進行系の法的闘争に対して関心と懸念を持ちながら見守っていた。

 

訴訟に関心のある一行は、戦時中におけるシャネルのナチスの関係が公に知られれば、シャネルブランドの評判や価値は深刻な状態になるだろうと認識していた。『フォーブス』誌はヴェルトハイマーが直面しているジレンマを要約した。「法的係争は戦時中におけるシャネルの活動を露わにし、彼女のパブリック・イメージを破壊し、さらに彼女のビジネスも破壊することになるだろう」。

 

シャネルは、ヴィシーフランス政府のピエール・ラヴァル首相の義理の息子ルネ・ド・シャンブランを弁護士として雇い、ヴェルトハイマーを訴えた。最終的に、ヴェルトハイマーとシャネルは、1924年の最初の契約を再交渉することになり、相互和解にいたった。

 

 1947年5月17日、シャネルは「シャネル No.5」の売却し、今日の価格で約900万ドルに相当する戦時利益を受領した。

ナチスのスパイ活動


伝記作家ハル・ヴォーンが発見した国家機密文書によれば、パリ警視庁がシャネルに関して「クチュリエで調香師」と記述している文書を所有していたことを明らかにした。

 

その文書には、ドイツ軍情報部のエージェントとしてのシャネルの名前が、エージェント番号及びコードネームとともに記されていた。シャネルはパリ警視庁が認めたナチスのれっきとしたスパイだった。この文書はヴォーンにとって、シャネルとドイツのスパイ活動を関連を想起させる情報だった。

 

ただ、反ナチの活動家セルジュ・クラースフェルドは、「シャネルがスパイ番号を持っていたからといって、必ずしも個人的に関与したとは限らない」と表明している。

 

ヴォーンによれば、1941年初頭に彼女自身からドイツに接近し、ナチスの国外諜報機関の局長であるヴァルター・シェレンベルク将軍のもと、ベルリンにある国家保安本部で諜報機関のアプヴェーアのメンバーとして活動していたという。

 

また、ボーガンは、シャネルが二重生活を送り、ナチスのスパイだったハンス・ギュンター・フォン・ディンクレイジ男爵と愛人関係にあったという長年にわたる証拠を積み上げている。

 

シャネルはナチス占領時代、あるドイツ人男性と愛人関係にあった。それがディンクレイジ男爵で、ドイツ王族の血を引くハンサムな貴公子で、シャネルは彼にぞっこんだった。ところが彼は、ドイツ諜報機関の大物スパイでもあった。

 

連合軍によってフランスが解放されるとシャネルは逮捕されるが、チャーチルや英国貴族と親交が深かったシャネルはイギリスの計らいで釈放された。

 

第二次大戦終わりごろ、シェレンベルクはニュルンベルク継続裁判で裁判にかけられ、6年の禁固刑を言い渡された。彼は難治性の肝臓病のため1951年に釈放されイタリアへ亡命した。シャネルはシェレンベルクの医療費や生活費を扶養し、彼の妻や家族を財政的に支援した。1952年に彼が亡くなるとシャネルが葬儀代を支払った。

 

戦後


1945年、シャネルはスイスへ移り、そこで数年間過ごし、一時期ナチスのスパイだったハンス・ギュンター・フォン・ディンクレイジと暮らした。

 

1953年、シャネルはフランスのリビエラにあるヴィラ・ラ・パウサを編集者で翻訳者のエメリー・リービスに売却した。ダラス美術館にはラ・パウサにあった5つの部屋が復元され、リービスのアートコレクションやシャネルが所有していた家具が収蔵されている。

 

女性が最高クチュリエとして君臨していた戦前とは異なり、戦後は1947年にクリスチャン・ディオールが「ニュールック」で成功をおさめ、またクリストバル・バレンシアガ、ロバート・ピゲ、ジャック・ファットなど男性デザイナーがクチュリエとして成功しはじめた。

 

しかし、シャネルは女性は最終的には男性クチュリエが好みがちな美学「非論理的」デザインと呼ぶもの、たとえば「ウエスト・ニッパー、パッド入りブラ、ヘビースカート、強化ジャケット」に対して反抗するだろうと考えていた。

 

1954年に、スイスでの亡命生活を終えパリに戻ったシャネルは、ヴァンドーム広場を望むホテル・リッツに住まいを構ええる。70歳を過ぎたころ、クチュールハウスを閉めて15年過ぎたころにシャネルはファッション世界への復帰を考える。

 

1954年にシャネルは香水業界でシャネルのライバルだったピエール・ヴェルトハイマーから資金提供を受けクチュールハウスを復活させた。カムバックコレクションを発表した際、フランスのマスコミは戦時中の彼女のコラボレーションやコレクション論争を理由で慎重に扱った。

 

フランスやドイツではバッシングを受けるなど散々だったが、アメリカやイギリスでは受け入れられた。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Coco_Chanel、2019年11月11日アクセス