【美術解説】植田正治「砂丘と幻想」

植田正治 / Shoji Ueda

幻想化された砂丘写真


概要


生年月日 1913年3月27日
死没月日 2000年7月4日
国籍 日本
表現媒体 写真
関連サイト 植田正治事務所

植田正治(1913年3月27日-2000年7月4日)は日本の写真家。山陰の空・地平線・そして鳥取砂丘を背景とした現実的な風景の中にシュルレアリスム的な要素を混ぜ込んだノスタルジックな写真作品で知られる。

 

特にアメリカやフランスで人気が高く、植田の作風は日本語表記そのままにUeda-cho(植田調)という言葉で広く紹介されている。

 

20代に一時的に東京にいたが、故郷である山陰地方を生涯の拠点とした。生涯アマチュア精神を貫き、世間の流行や要求に一切答えることなく、ただひたすらに砂丘と自分の撮りたいものだけを撮り続けた。

略歴


若齢期


植田は1913年3月27日に鳥取県の境港で生まれた。父は履物製造小売業だった。正治は幼少期を生き延びた唯一の子どもだったという。

 

「少年倶楽部」や「少年世界」「日本少年」などの常連の挿絵画家、高畠華宵・山口将吉郎・伊藤彦造などに魅力をおぼえ、とくに華宵にあこがれる。

 

この頃から写真熱も燃えさかり、授業中机の下にカメラ雑誌をひろげているところを教師に見つかって怒られる。また、手札判の陶製バットを現像・定着用に購入し、自宅の台所の押入れに潜り込んでベスト判の密着焼きに夢中になっていたところを父に見つかり、写真道楽をするのか、とすごい剣幕で叱られる。

 

植田正治が両親から最初のカメラ(国産ベスト判)を買い与えられたのは、彼が16歳のときである。1930年に父からカメラを譲り受けると、すぐに写真撮影を始める。以後、植田は、写真一色ともいえる人生を歩むことになった。

 

この写真家としてのキャリアの初期に彼は、マン・レイやアンドレ・ケルテスといった欧州の写真家たちの作品に触れ、レイヨグラムやソラリゼーションといったアヴァンギャルド技法を使った実験的作品の制作を始めた。

 

1931年、鳥取県立米子中学校卒業後、本格的に写真に取り組む。米子写友会入会。この頃、ヨーロッパの前衛写真が満載された『MODERN PHOTOGRAPHY』(『THE STUDIO』誌1931年秋の特別号)を手にし、強い刺激を受ける。

 

撮影した写真を雑誌に投稿するようになった。植田の作品「浜の子ども」は雑誌『カメラ』1931年12月号に掲載された。

 

1932年に東京のオリエンタル写真学校に入学、3ヶ月通う。その後、鳥取に帰郷して自宅で植田写真場を開業した。まだ19歳だった。東京で撮影した《水道橋風景》が「日本光画協会展」(京都烏丸商工会議所、8月)に特選入選し、その後日本光画協会に入会。

 

1935年に白石紀江と結婚。妻は植田の写真の仕事を補佐し続けた。植田にとって結婚は幸せな1つだった。植田の妻の間にできた3人の子どもは作品のモデルにもよくなっている。

 

1937年、石津良介の呼びかけで中国写真家集団が結成(2月)され、創立同人となる。以後、1940年まで4年にわたり、東京の小西六ホールで毎年展覧会を行う。

 

 

1941年に植田は戦場カメラマンになりたくなかったため、写真撮影をやめることに。しかし終戦近くになって、焼け跡地の撮影を余儀なくさせられる。

キャリア


 

1945年12月、大阪朝日新聞紙上の「朝日写真展覧会」公募の社告を目にし、再び写真家として活動できることを実感する。

 

1947年に植田は東京を拠点として活動する「銀龍社」に参加。この頃から植田は、人物画を撮影するのに鳥取砂丘を背景に利用するのが良いことを発見する。また正方形フォーマットモノクローム、そして人物をオブジェ化したような独特なシュルレアリスム作風になり始める。

 

植田自身の故郷、鳥取県にある鳥取砂丘は、彼の作品作りにとって理想的な背景となり、初期に彼の名前を広めた、最も著名な作品群の舞台となっている。

 

鳥取砂丘をスタジオ代わりに、植田は舞台監督同様、彼の作品の登場人物―モデルや植田の家族たち―である被写体に演出をほどこし、限りなく広がる砂の丘と空を背景に、夢想的な空間を創出した。この砂丘での作品群は、厳粛で洗練された構図を持ち、また鋭いユーモア感覚を浮き彫りにしている。

 

1949年に桑原甲子雄に影響を受ける。また雑誌『カメラ』の企画で、土門拳や緑川洋一らの鳥取砂丘撮影会に参加し、彼らを鳥取砂丘で撮影する。これらの作品は雑誌『カメラ』1949年9、10月号に掲載され、その後、幾度となく選集に収録されている。

 

1950年頃、植田の自宅に集まる山陰地方の若い写真家と写真家集団「エタン派」結成。

 

1951年から上田は砂丘を背景にしたヌード写真を撮り始める。1950年代にはMoMAに作品が収蔵、その独自の作風は「植田調(Ueda-cho)」と名付けられるようになる。

 

1955年から『童暦』シリーズを開始。日本海に面する山陰地方の四季の移ろいを、「子どもたち」と「祭り」という2つの主題を通して称賛した作品群である。植田にとって子どもたちはまさしく、彼が構成する空間の中で、彼自身が注意深く配置を決定する芸術的オブジェである。

 

慎重さを持って構成されたこれらの光景は極めて力強く、デジャヴュ以外の何物でもない感覚を伴いながら、私たちが忘れてしまった記憶を喚起する。

 

成熟期


1970年から広告写真やファッション写真の背景として砂丘を利用し始める。80年代以降はPARCOやTAKEO KIKUCHIなどファッション業界とのコラボレートによる広告写真でADC賞も受賞する。

 

1972年、米子市東倉吉町に三階建のビルを設け、1階に「植田カメラ」、2階には喫茶店「茶蘭花」、3階には「ギャラリーU」を開業する。この喫茶店やギャラリーには、植田を慕うアマチュアの写真家が集まり、「サークルU」を結成。初めての海外、ヨーロッパを旅行する。

 

海外に旅することは少なかったが、出向くところには常にカメラを携帯した。このセクションでは、1972~1973年にかけて欧州旅行をして旅行をテーマにした作品を発表している。これらの作品の中では、我々に馴染みの深い彼の世界観が、いくらか意外な新鮮さで表現されている。

 

彼自身は、欧州旅行での写真を「音のない土産」と呼ぶことにこだわったが、休暇中の作品でありながら、実際には写りこむ主題以上に、彼の芸術、そして興味の矛先を明らかにしている。

 

1982年、この頃より、ヨーロッパ各地の画廊で個展が開催されるようになり国際的な評価が高まる。

 

1983年、植田の創作活動を支え続けた妻・紀江死去。この年より、次男・充とともにファッション写真(シリーズ〈砂丘モード〉)に取り組む。

 

1984年、川崎市民ミュージアムに作品が収蔵される。以降現在まで、横浜美術館、東京都写真美術館、米子市美術館、山口県立美術館、東京国立近代美術館、ポンピドゥー・センター、ヒューストン美術館等に作品が収蔵される。

 

1987年、第18回アルル国際写真フェスティバル(7月)に招待され、砂丘を舞台とした1950年前後の作品と近作のファッション写真をフィルムで上映し、喝采をあびる。この頃より、多重露光を用いた静物のカラー作品に取り組む。

 

晩年


人生の終末が近づくにつれ、植田の視線は否応がなしに再び、故郷の海に向けられた。ファッション写真や広告写真のシリーズの撮影依頼を受けたとき、植田はそれらの依頼を受注してきた息子の充に勧められ、再度、鳥取砂丘へ赴いて撮影した。

 

そしてもう一度、砂の丘とその上に広がる空と光、海岸線しかない空虚な風景に出会う。しかし、円熟期の砂丘シリーズでは、新しい写真フォーマットにより、初期の頃とは違う種類の人々を被写体に、空間の広がりを極限まで活用した、実験的な作品を制作した。

 

2000年7月4日、急性心筋梗塞のため87歳で没。


■参考文献

植田正治事務所