【美術解説】トリスタン・ツァラ「ダダ宣言」

トリスタン・ツァラ / Tristan Tzara

ダダ宣言


「ダダ宣言1918」が表明された集会のポスター
「ダダ宣言1918」が表明された集会のポスター

概要


生年月日 1896年4月16日
死没月日 1963年12月25日
国籍 ルーマニア、フランス
表現媒体 詩、エッセイ、脚本、パフォーマンス、作曲、美術、映画
ムーブメント 象徴主義、前衛芸術ダダイズムシュルレアリスム

トリスタン・ツァラ(1896年4月16日-1963年12月25日)は、ルーマニア人、またフランス人の前衛詩人、エッセイスト、パフォーマンス・アーティスト。ほかにジャーナリスト、劇作家、小説家、美術批評家、作曲家、映画監督などの活動もしている。数多くのキャリアにおいて代表的なのはダダイスト。ツァラはスイスのチューリヒで"反芸術"を掲げたダダ・ムーブメントの創設者であり、また中心人物の1人である。

 

エイドリアン・マニウの影響下、思春期のツァラは象徴主義に興味を持つようになり、アイアン・ビニアや画家のマルセル・ジャンコらとともに象徴主義の美術雑誌『Simbolul』を発行する。第一次世界大戦時にスイスのチューリヒへ移動し、そこでツァラはキャバレー・ヴォルテールやZunfthaus Zur Waagでさまざまなショーを行う。詩を読んだり、アート・マニフェストを掲げた。このマニフェストでは初期ダダイスム的な側面が見られた。

 

1916年に雑誌『キャバレー・ヴォルテール』を発行し、ダダ活動を開始。この雑誌で初めてダダという言葉が使用されたが、この時は正式にダダのマニフェストは出していない。1917年に雑誌『ダダ』を創刊し、1918年にダダの集会で「ダダ宣言1918」を発表し、正式にダダの本格的な活動が行われるようになった。

 

「ダダ宣言1918」を発表後、ブルトンの招きに応じて1919年にパリに移動。ツァラはダダの重要メンバーの1人として、雑誌『文学』に編集として参加。のちのシュルレアリスム・ムーブメントを起こす最初のステップとなった。しかしツァラは、アンドレ・ブルトンやフランシス・ピカビアと決裂。またルーマニアのビエラやジャンコらの折衷主義にも反対。ツァラの芸術ビジョンは、彼のダダ演劇「ガスハート」(1921年)や「雲のハンカチ」(1924年)でよく示されている。

 

しかし、オートマティスムの先駆者でもあるツァラは、最終的にブルトンのシュルレアリムと提携し、オートマティスムの影響のもとツァラはユートピア詩「おおよその男」を書いた。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Tristan_Tzara、2020年4月29日アクセス