【美術解説】ナイーブ・アート「美術教育を受けてないが向上心はあるアウトサイダー・アート」

素朴派 / Naïve art

美術教育を受けてないが向上心はあるアウトサイダー・アート


アンリ・ルソー《ライオンの食事》1907年
アンリ・ルソー《ライオンの食事》1907年

概要


ナイーブ・アートとは、通常、プロの芸術家が受ける正式な教育や訓練(解剖学、美術史、技術、遠近法、見方)を受けていない人が制作した視覚芸術と定義されている。日本では「素朴派」と呼ばれ、アウトサイダー・アートの系統に属する。代表的な作家はアンリ・ルソーである。

 

正統な美術教育受けた芸術家がナイーブ・アートに影響を受け、模倣するように制作した作品はプリミティヴィスム、疑似ナイーブ・アート、または偽ナイーブアートと呼ばれる。ポール・ゴーギャンパブロ・ピカソの作品が代表的なプリミティヴィスムである。

 

フォーク・アート(土着芸術)と異なるのは、その土地固有の明確な文化的背景や美術の伝統の形跡が見られないことである。また、独学の芸術家によって作られたものであり、実用的な用途を持つものはフォーク・アートの下位にあると認識されている。しかし、この区別は論争の的となっている。

 

次にナイーブ・アートは子どものようにシンプルで率直な作品が多い。

 

フォーク・アートは大衆文化の文脈や伝統に由来するものではない。アルフォンス・ミュシャロートレックを例にとれば、実際、先進国においては、印刷革命以降は版画やポスターといった大衆文化でもその土地のファインアートの美術教育を基盤に制作して制作している。

 

特徴的なのはナイーブ・アートの芸術家たちは、展覧会に出品するなど主流のアートの世界に接近しようと努力しており、さまざまな公募に作品を出品する。反発心はなく、あくまでファインアートと同等の立場に立とうとする傾向があることである。

 

しかし、ナイーブ・アートの芸術家たちは、遠近法や構図の規則などの「ファインアート」の規則を認識しているが、それを使いこなすことができないか、理由はわからないがあえて習わない、使わないでいることだろう

 

対照的に、アウトサイダー・アート(アール・ブリュット)の芸術家たちは、ナイーブ・アート似たような文脈の作品でありながら、主流のアート世界との接触が最小限にとどまっている。

 

この用語の定義や、フォーク・アートやアウトサイダー・アートといった類似用語との境界線についてはいくつかの論争を巻き起こしてきた。

 

日本では「ヘタウマ」と呼ばれる作家たちの性質がナイーブ・アーティストたちとよく似ている。

 

重要ポイント

  • アウトサイダー・アートではあるがファインアートに関心はある
  • しかし、なぜかファインアートの規則を勉強しようとしない
  • 日本では「ヘタウマ」と呼ばれる作家が相当する

特徴


ナイーブ・アートは、正式な(あるいはほとんどない)訓練や学位を受けていない人によるアウトサイダー・アートとして見られることが多い。これは20世紀以前にも当てはまったが、現在ではナイーブ・アートのためのアカデミーが存在する。

 

しかし、現在は世界中のアートギャラリーで展示されている、完全に認識された芸術のジャンルの1つになっている。

 

ナイーブアートの特徴は、特に遠近法の3つのルールを尊重しておらず、伝統的な絵画の様式と不協な関係になることである。

 

  • 距離に比例して物体の大きさが小さくなる。
  • 距離に応じて色を変える。
  • 距離に応じて細部の精度を変える。

 

結果としては、幾何学的に誤った遠近法の効果、パターンの執拗な使用、構図全体にわたる粗悪な色使い、遮蔽されるべき背景も含めて細部にまで均等な精度がある。

 

繊細さよりもシンプルさの方が、ナイーブ・アートにおける共通の価値観とされている。しかし、ナイーブ・アートが人気になると多くのナイーブ・アートは疑似ナイーブのスタイルになってしまう。

 

現在、ハンガリーのケスケメート、ラトビアのリガ、スペインのイェン、ブラジルのリオデジャネイロ、フランスのヴィック、パリにナイーブアートのための美術館がある。

運動


最初のナイーブ・アーティストがいつ登場したのかを正確に知る人はいないが、遅くとも1912年に表現主義のグループ青騎士が『青騎士』という年鑑を出版して以来、20世紀美術史の中で「公式」な評価を得てきた。

 

ワシリー・カンディンスキーとフランツ・マルクは年鑑でアンリ・ルソーの絵画の複製画6点を他の絵画例と比較して紹介した。

 

しかし、ほとんどの専門家は、ナイーブ・アートが「発見された」年は1885年であり、画家のポール・シニャックがアンリ・ルソーの才能に気づき、彼の作品の展覧会をいくつかの有名なギャラリーで開催することに着手した年であることに同意している。

地球グループ


地球グループ(Grupa Zemlja)は、1929年から1935年までザグレブで活動していたクロアチアの芸術家、建築家、知識人からなる集団である。このグループはマルクス主義的な思想がありり、部分的には「新即物主義」をモデルにしており、より様式化された形態のナイーブ・アートの出現につながっていた。

 

地球グループは、社会問題への答えを模索していた。彼らのプログラムは、独立した創造的な表現の重要性を強調し、外国のスタイルを無批判に模倣することに反対した。芸術のために芸術を制作するのではなく、生活の現実と現代社会のニーズを反映したものでなければならないと考えていた。

 

グループの展示会での活動は、当時の政府への挑発的なものとなり、1935年には禁止された

フレビネ・スクール


1930年頃からハンガリー国境近くのフレビネ村周辺で活動していたクロアチアのナイーブ・アーティストのこと。『世界ナイーブ・アート百科事典』(1984年)によると、当時の村は「泥だらけの曲がりくねった道と平屋の家」に過ぎなかったが、ユーゴスラビアのナイーブ・アーティストの代表となったほど、注目すべき画家を輩出していた。

 

フレビネは、1920年代に絵画のユニークでやや革命的なスタイルを開発した独学の農民のグループがいるクロアチアの北部にある小さな絵のように美しい自治体である。

 

このグループは、詩人のアントゥン・グスタフ・マトシュやクロアチア文学界の大御所ミロスラフ・クルレジャなど、当時の知識人たちが提唱したもので、彼らは西洋の影響から独立した独自の国家芸術のスタイルを主張した。

 

これらのアイデアは、フレビネ出身の著名な芸術家Krsto Hegedušićによって拾われ、彼は1930年にフレビネ・スクール・オブ・アートを設立し、国家的な "田舎の芸術表現 "を模索した。

 

イワン・ゼネリックはフレビネ派の最初の巨匠であり、独特の個人的な作風を最初に開発し、彼の芸術の高い水準を達成した。

 

第二次世界大戦後、次の世代のフレビネの画家たちは、想像力を駆使した田舎の生活を様式化して描くことに重点を置くようになった。ゼネリックは、彼の息子であるヨシップ・ゼネリックをはじめとする後進の画家たちを励ました。

 

最も有名なナイーブ・アーティストは、Dragan Gaži, Ivan Generalić, Josip Generalić, Krsto Hegedušić, Mijo Kovačić, Ivan Lacković-Croata, Franjo Mraz, Ivan Večenaj, Mirko Viriusである。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Na%C3%AFve_art、2020年5月26日アクセス