壱岐紀仁インタビュー201605

落語にも神楽と同じような要素があるのでしょうか?

多数の次元が同居する多元的空間 / 容れ物


そして落語も神楽と似たようなことがあります。日本の古典芸能には、欧米圏とちがって自我が自己主張するよりも、見えざる他者や隠世の霊魂が自分に降りてくるのを待ち、降りてきたものをみんなが取り囲んで、現実とは異なる次元の場が刹那的に生じるという多元的な空間を内包しています。

 

落語は高座で1人で喋っていて、それに大勢が耳を側立ててる…というのが、当たり前に見えて実は異様な風景なんですよね。お茶のすする音を聞くために、誰もが耳を側立てるんです。それって、ものすごい変な状況じゃないですか。一種の宗教儀礼の構造ですよね。

 

日本人って真似ることが得意な民族です。渡来のものを真似る、架空の人物を真似る、神の物を真似るという部分に心が強く感応するという、日本人特有の精神構造がある。だから日本人にとって、個人というのは「個性」ではなく「容れ物」なんだと。個人がより「優れた容れ物」であればあるほど、より神を感じるというような考え方なんだなと、今回、落語を探求していてわかりました。

 

 落語も神楽も宗教的であり芸術的なんですね。僕の中では宗教的と芸術的というのは全く同じものなんです。

 

物語の流れとして、最初は落語っていう庶民という地続きの地点から始まって、次に神楽で感覚を拡張して、それでもう一回最後に「ねぼけ」のエンディング曲で感覚を高みにもっていきたいと思ったんです。エンディング曲が1つのピークなんです。イノトモさんにお願いして、鎮魂歌(レクイエム)を作曲していただいた。

 

だから本当のカタルシスはエンディングにあるんですね。魂の救済は、最後の最後に設える。その構造っていうのは、僕がバリのランダで体験したことでもあるんです。

映画「ねぼけ」の本当のカタルシスはエンディングで流れる日本を代表するアコースティック系シンガーソングライター、イノトモによる主題歌「イトナミ」にあるという。
映画「ねぼけ」の本当のカタルシスはエンディングで流れる日本を代表するアコースティック系シンガーソングライター、イノトモによる主題歌「イトナミ」にあるという。

映画制作時に影響を受けた監督や作品などはあるでしょうか?

タイのアピチャートポン監督は理想形です


タイのアピチャートポン・ウィーラセータクン監督ですね。『ブンミおじさんの森』でカンヌでいきなり最高賞をとった人なんですが、彼の映画を見たときに、自分がやりたいと思っていたことがやり尽くされている感じがして、度肝を抜かれました。僕にとって理想形のような映画監督です。

 

『ブンミおじさんの森』というのは、腎臓病を患い自らの死期を悟ったブンミおじさんの話なんですけど、庭先の食卓のシーンで、何の前触れもなく、いきなり半透明の人が現れるんです。それは生き別れた奥さんの幽霊なんです。

 

それでびっくりしたのが、現れた幽霊に向かってさほど驚くことなく、普通に雑談し始めるんです。「ああ、お前か」「元気にしてたか」と。さらに、目の赤く光った類人猿みたいのが、唐突に食卓に姿を現れるんですよ。それはブンミおじさんの甥っ子が猿の精霊になった姿なんです。それで、幽霊と精霊とおじさんの家族が、食卓でご飯を食べながら淡々と世間話をしているんですよ。

 

現実とイリュージョンが当然のごとく同居している神秘に、誰もが腰を抜かしました。ティム・バートンが『この映画にはミラクル(奇跡)がある』と絶賛したのも頷けます。

映画「ブンミおじさんの森」より。画面中央左に見える半透明の姿の女性は幽霊。劇中、突然現れる。
映画「ブンミおじさんの森」より。画面中央左に見える半透明の姿の女性は幽霊。劇中、突然現れる。

「共存」という感覚


 商業映画だとこういうシーンは考えられないし、許されません。たとえば商業アニメーションだと現実とファンタジーの世界の境界が明確に区別されている。でも、アピチャッポン監督は「現も夢も、生も死もすべて等価である」という思想があるので、映画を見ていると現実とイリュージョンの区別がしづらいのです。

 

 

SF映画のように魔法や未来の科学を使って、新しい世界が開けて次の物事が展開していくという、単一の空間がバラバラに多層的にあって、それを物語で強引に繋げてくことはしません。現実と幽霊と精霊が当たり前のように、同じ空間・時間軸に浮遊するように存在している。「共存」って言う感覚でしょうか。僕もそういう問いかけを、映像を通じて探っていきたいです。

ポスト・フラットと古典


また、あらゆるものがフラットになった現代においては「古典」が強くなると思ってます。古いものというのは、人間の本質に寄り添うものだから、やはり時代に左右されない堅牢さがあります。も

 

し、表現の細分化の横溢にウンザリしている人がいたら、落語にせよ神楽にせよ、もう一度古いものを見直してもいいんじゃないかと思います。古典を紐解くことが、自分の根源に繋がっていくんじゃないかと感じています。