【完全解説】アンドレ・ドラン「マティスとともにフォーヴィスムを創設」

アンドレ・ドラン / André Derain

マティスとともにフォーヴィスムを創設


アンドレ・ドラン「チャリング・クロス橋」(1906年)
アンドレ・ドラン「チャリング・クロス橋」(1906年)

概要


生年月日 1880年6月10日
死没月日 1954年9月8日
国籍 フランス
表現形式 絵画、彫刻、舞台デザイン
ムーブメント フォーヴィスム、新古典主義
関連人物 アンリ・マティスパブロ・ピカソモーリス・ド・ブラマンク

アンドレ・ドラン(1880年6月10日-1954年9月8日)はフランスの画家、彫刻家。

 

アンリ・マティスやモーリス・ド・ブラマンクとともにフォーヴィスムを創設したメンバーの一人。ロンドンの風景画をこれまでと異なる、大胆で鮮やかな色彩と構図で描いたことで知られる。

 

フォーヴィズム運動が終了すると、キュビスムやアフリカ彫刻に影響を受け平面的で色彩を抑えた画風に変化。その後、古典回帰の傾向を強め、戦後の新古典主義のリーダーとして活躍し、国内外から高い評価を得た。

 

ほかに、セルゲイ・ディアギレフのバレエ団で舞台衣装などを手がけて成功した。

チェックポイント


  • フォーヴィスムの設立者
  • 新古典主義のリーダー
  • バレイの舞台デザインでも活躍

略歴


初期キャリア


アンドレ・ドランは、1880年にパリ郊外にあるイル=ド=フランス地域圏イヴリーヌ県のシャトーで生まれた。

 

マティスやブラマンクとの出会いが、絵画を始めたきっかけとして書かれることがあるが、父ジャコミンの友人だったポール・セザンヌの影響で1895年から独学で絵を描き始めている。1898年にカミッロ大学で工学を学んでいるとき、ドランはウジェーヌ・カリエールのクラスで絵画を学ぶ。このときにドランはマティスと出会った。

 

1900年、ドランはマティスやブラマンクとアトリエを共有しはじめ、近隣の風景画を描きはじめる。しかし、1901年9月から兵役のため絵画を数年中断する。1904年になって絵画制作を再開。絵画に専念にするため両親を説得し、エンジニアの職に就くのはあきらめ、その後、アカデミア・ジュリアンに入学して本格的に美術を学び始める。

アンドレ・ドラン「アトリエでのセルフポートレイト」(1903年)
アンドレ・ドラン「アトリエでのセルフポートレイト」(1903年)

フォーヴィスム


ドランとマティスは、1905年の夏、地中海に面した村コリウールにアトリエを借りて共同で制作を始める。地中海に面した港町コリウールの豊かな色彩は、2人の画家の作風に決定的な影響を与えたという。

 

同年後半にドランはヴォーヴィズムの原点となる展示サロン・ドートンヌに参加して、画期的な絵画を展示。その鮮やかでありながらも不自然な色合いの作品を見た批評家ルイス・ヴォクセルは「フォーヴ(野獣)」と叫んだ。これをきっかけにフォーヴィスム運動が始まった。

アンドレ・ドラン「乾燥中の帆」(1905年)。サロン・ドートンヌ展示作品。
アンドレ・ドラン「乾燥中の帆」(1905年)。サロン・ドートンヌ展示作品。

ロンドン風景画


1906年3月、有力画商のアンブロワーズ・ヴォラールが都市をテーマにした絵画シリーズの制作のため、ドランをロンドンへ招待。そこでドランはテムズ川沿いの風景を描く。ロンドンの風景画を描き始める。

 

30点ほどロンドンの風景画を描き上げたが、それらはウィスラーやモネのようなこれまでの都市風景を描いてきた画家とは根本的に異なるロンドンの風景画となった。大胆な色使いと構成で、テムズ川やタワーブリッジを描いた。

 

こうしてできたロンドン風景画はのちにドランの代表作となった。

アンドレ・ドラン「チャンリグクロス橋」(1906年)。フォーヴィスム期の代表的な作品。
アンドレ・ドラン「チャンリグクロス橋」(1906年)。フォーヴィスム期の代表的な作品。

パリのモンマルトル時代


1907年に画商のカーンワイラーはドランの制作を支援するためスタジオを購入。彼はドランの大パトロンとなった。またドランは石彫刻の実験を始め、友人パブロ・ピカソが住む近くのモンマルトルへ移り、そこでピカソの恋人のフェルナンド・オリヴィエや「洗濯船」の芸術家たちと交流を始めるようになる。

 

モンマルトルでドランは、キュビスムやポール・セザンヌの影響で、これまでの大胆で鮮やかな色使いのフォーヴィズムスタイルから、平面的で色の抑えた画風へ切り替え始めた。ガートルードによれば、キュビズムの影響以前に、ドランはピカソと同じくアフリカの彫刻から影響を受けていたともいう。

 

1909年には、ギヨーム・アポリネールの最初の詩集『腐ってゆく魔術師』の挿絵用に、プリミティヴィズム様式での木版画を制作。この時代のドランの作品は、1910年にミュンヘンのミュンヘン新芸術家協会での展示、1912年の青騎士の分離派での展示、1913年のニューヨークのアーモリー・ショーなどで展示された。

 

ほかに1912年にマックス・ジャコブの詩集の挿絵も描いている。

アンドレ・ドラン「カーニュの風景」(1910年)。セザンヌやキュビスムの影響が色濃く見られる。
アンドレ・ドラン「カーニュの風景」(1910年)。セザンヌやキュビスムの影響が色濃く見られる。

古典回帰時代


1910年以降になるとドランは古典巨匠の作品に関心を移し、それらを作品に反映するようになる。絵画における色の重要性は小さくなっていき、形状に対して注意を払うようになる1911年から1914年は特にゴシック時代の画風が現れるようになった。

 

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、軍に従事。1919年に兵役が解除されるまでの間はほとんど絵を描くことができなかったが1916年には画商ポール・ギョームにより個展が開催されている。また1916年に刊行されたアンドレ・ブルトンの最初の本「モン・ド・ピエテ」の挿絵を描いている。

 

戦後、ドランは新たにムーブメントが起こった新古典主義のリーダーとして活躍し、伝統を守る芸術家として高い評価を得るようになった。

 

1919年にバレエ・リュスのプロデューサーのセルゲイ・ディアギレフのバレエ劇「風変わりな店」で衣装や舞台装飾を手がけて大成功する。その後、ドランは多くのバレエ関連の仕事を手がけるようになる。

 

1921年にイタリアを旅行したのをきっかけに、古典への回帰が決定的となる。

 

1928年、カーネギー賞を受賞、これを機に海外でも認知されるようになりる。同年制作した「死のゲームの静物」は、ロンドン、ベルリン、フランクフルト、デュッセルドルフ、ニューヨーク、シンシナティなどで展示され海外で高い評価を得る。このころがドランの絶頂期といえる。1935年、55歳でシャンブールシに居を構え、画壇からはなれて制作を始める。

 

第二次世界大戦が勃発してフランスにドイツ軍を侵入すると、ドイツ軍に法定にかけられる。なぜなら彼はフランス文化の権威として賞賛されていたためである。1941年にドイツに公で訪れ、ナチの彫刻家アルノ・ブレーカーのナチ展に出席し、ナチスに協力するようになる。ドイツにおけるドランの存在は、ナチスの宣伝に効果的に利用されることになり、戦後は親ナチとしての以前の支持者たちから追求を受けることになった。

 

死の前年の1953年にドランは目の感染症を患い、回復することなく視力を失う。1954年にフランスのセーヌ川沿いの町ガルチェで自動車に轢かれて亡くなった。

アンドレ・ドラン「死のゲームと静物」(1928年)
アンドレ・ドラン「死のゲームと静物」(1928年)

■参考文献

André Derain - Wikipedia



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