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【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「黄色い家」

黄色い家 / The Yellow House

青と黃が幻想的な美を生み出すアルルの風景


フィンセント・ファン・ゴッホ《黄色い家》,1888年
フィンセント・ファン・ゴッホ《黄色い家》,1888年

概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1888年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 76 cm × 94 cm
コレクション ファン・ゴッホ美術館

《黄色い家》は1888年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。《通り》と呼ばれることもある。

 

この家は、1888年5月1日にゴッホが借りたフランスのアルルにあるラマルティーヌ広場2丁目の右角にあった4フロアの家屋のことを指している。

 

 

画面手前中央右側の緑色のシャッターの小さな家屋がゴッホが借りていた家である。入居直後、ゴッホはテオに手紙で「陽光で黄色になる家と背景の新鮮な青色の対比が素晴らしい」と黄色い家に関する説明とそのスケッチ画を同封して送付している。

ゴッホがテオに送った黄色い家のスケッチ画
ゴッホがテオに送った黄色い家のスケッチ画

ゴーギャンも寝泊まりした芸術コロニー


ゴッホは家屋1階にある2つの大部屋をアトリエと台所として利用していた。

 

また2階のシャッターの開いている部屋はゴッホの客室であり、ここにポール・ゴーギャンが1888年10月末から9週間ほど滞在していた。

 

2階の隣のシャッターがほぼ閉じた部屋はゴッホの寝室だった。奥にある2つの小部屋は、後年ゴッホが借りたものである。

 

家賃は月に15フランで、中古家具屋からベッド、椅子、テーブル、鏡などを購入したという。なおこれらすべての金銭は弟テオが支払っていた。

 

ゴッホは当時、黄色い家を芸術家のコロニーのように利用するつもりで、ゴーギャンをはじめさまざまな画家を呼んで共同制作を行う予定だったという。

 

なお、画面左にある背景に木があるピンク色の家(ラマルティーヌ広場28番地)はゴッホが毎日食事をしていたレストランである。ヴェニサク未亡人が経営していた店であり、黄色い家に入居する前はこのレストランでおもに生活をしていた。彼女はゴッホの大家であり、ほかにもいくつか部屋を所有していた。

 

黄色い家の右側にあるモンマジュール通りは、背面の2つの鉄道の橋まで続いている。列車がちょうど通過している手前の橋はリュネル地方への伸びる路線で、リュネル地方は画面右方向にある。奥にあるもう一つの橋はP.-L.-M鉄道会社が所有していたものである。

 

前景左には歩行者用の通路の角があり、ラマルティーヌ広場にある公衆庭園を取り囲んでいる。モンマジュール通りの左端を橋に向かって伸びている溝はガスパイプで、のちにゴッホのアトリエにガス灯が入ることになる。

ゴッホによる「黄色い家」の水彩画版。
ゴッホによる「黄色い家」の水彩画版。
1932年にポール・シニャックが描いた「ゴッホの家」。
1932年にポール・シニャックが描いた「ゴッホの家」。

黄色い家は取り壊され観光名所に


黄色い家は、1944年6月25日に第二次世界大戦中に戦禍に巻き込まれて損傷し、後に取り壊された。

 

現在この場は、家屋がなく木樹が植えられ「黄色い家」の場所を示すプラカードが立てられているだけだが、土地の形状は変わっておらず、当時ゴッホが絵を描いていた風景を体験することができる。