【美術解説】デビッド・ホックニー「同性愛を主題とした英国ポップ・アーティスト」

デビッド・ホックニー / David Hockney

自身の同性愛を主題とした英国ポップ・アーティスト


《芸術家の肖像 -プールと2人の人物-》1972年
《芸術家の肖像 -プールと2人の人物-》1972年

概要


生年月日 1937年7月9日
国籍 イギリス
表現媒体 絵画、版画、舞台デザイン、写真
ムーブメント ポップ・アート新表現主義

デビッド・ホックニー(1937年7月9日生まれ)はイギリスの画家、版画家、舞台デザイナー、写真家。

 

1960年代のイギリスのポップ・アートムーブメントに最も貢献した人物で、最も影響力のある20世紀のイギリスの画家の一人とみなされている。

 

1964年以降、アメリカのロサンゼルスをおもに活動拠点してたこともありアメリカでも人気が高い。母国イギリスでも人気は高い。ロンドンのケンジントンに自宅とアトリエをかまえ、またカリフォルニアに2つの住居を持ち、30年以上芸術家として生活をしている。

略歴


若齢期


デビッド・ホックニーはイギリスのブラッドフォードで、ローラ&ケネス・ホックニー夫妻のあいだに5人兄弟の4番目の子どもとして生まれた。

 

ウェリトン小学校、ブラッドフォード高等学校、ブラッドフォード美術大学を経てロンドン王立美術大学に入学。そこでロナルド・B.キタイと出会う。ホックニーは大学にいる間、学校を自宅のように感じ、作品制作に誇りを持っていたという。

 

ロンドン王立美術大学でホックニーは、若手美術家に絞った展覧会「ヤング・コンテポラリーズ」展に参加し、しだいに注目を集めるようになる。また並行してピーター・ブレイクやキタイらとともにイギリスのポップ・アート運動を始める。ホックニーはポップ・アート運動の作家として語られることが多いが、彼の初期作品は表現主義的な色合いが強く、特にフランシス・ベーコンの作品から影響を受けていたと思われる。

 

1962年にロンドン王立美術大学が彼を落第させようとしたとき、ホックニーは抗議のための作品「卒業証書」を制作する。卒業試験で必要なエッセイを書くことを拒否したのが原因だと、エッセイを提出しなかった理由としてホックニーは「作品についてのみ評価するべきだ」と主張したという。

 

当時、ホックニーの才能が世の中に認められ、評判が高まっていたこともあり、ロンドン王立美術大学は学校の規則を変更し、結局卒業証書を授与することにしたという。ロンドン王立美術大学卒業後、ホックニーは一時的にメードストン美術大学で教鞭をとる。

芸術家として活動


大学卒業後、ホックニーはアメリカのカリフォルニアを旅行し、1964年から数年間滞在することにする。現地の家庭に設置されているスイミング・プールからインスピレーションを得て、スイミングプールの絵画シリーズを制作し始める。当時、新しく普及しはじめたアクリル絵の具をいち早く使い、活力に満ちた写実的な明るいスタイルでスイミングプールの絵画を描いた。

 

《大きな水しぶき》1967年
《大きな水しぶき》1967年

1968年にロンドンへ戻る。1973年から1975年までパリに滞在する。1974年にホックニーはその後数十年にわたる長い個人的な関係を築くことになるグレゴリー・エバンスと出会う。1978年に再びロサンゼルスに移るのを期に、2017年の現在までエバンスはホックニーのビジネスパートナーを勤めている。

 

 

1978年にロサンゼルスに移住するときに利用する家を借り、のちにその家を購入し、スタジオとして使うため改修増築を行った。またホックニーはほかにマリブのカリフォルニア州道1号線沿いにある1643平方フィートのビーチハウスを所有していたが、1999年には150万ドルで売却している。

自身の同性愛の姿を探求


ホックニーは自身がゲイであることをカミングアウトしているが、親友であり同じ同性愛者でありポップアーティストだったアンディ・ウォーホルと異なり、積極的に自身のポートレイト作品内で同性愛の本質を表現していた。

 

たとえば、1961年の作品《私たち2人の少年はいちゃつく》では、アメリカの詩人のウォルト・ホイットマンの同性愛を言及する詩からの引用である。1963年作品《ドメスティック・シーン》や《ロサンゼルス》なども同性愛に言及した作品である。1966年夏、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で教鞭をとっているときに、当時美大生だったホックニーはピーター・シュレジンジャーと出会う。シュレジンジャーはホックニーの作品のモデルとなり、また愛人となった。

《私たち2人の少年はいちゃつく》1961年
《私たち2人の少年はいちゃつく》1961年
《ドメスティックシーン》1963年
《ドメスティックシーン》1963年

アシスタントの死亡事故


2013年3月18日の朝、ホックニーの23歳のアシスタントであるドミニク・エリオットがホックニーのブリドリントン・スタジオでドレーンクリーナーを飲んで亡くなった。彼はほかに早くからアルコール中速で、ほかにコカイン、エクスタシー、テマゼパムなどの覚せい剤や抗うつ剤を使用していた。エリオットはブリドリントン・ラグビー・クラブの選手だったという。

 

報告によれば、ホックニーのパートナーがエリオットを総合病院へ連れていき、その後亡くなったという。検死の結果、エリオットは変死扱いとされ、ホックニーが事故に関与した疑いはないとされている。

現在の生活


2015年11月、ホックニーはイギリスのブリドリントンの自宅を62万5000ポンドで売却し、これまで住んでいた町との関係をすべて断ち切った。現在はロンドンにスタジオ、カリフォルニアのマリブに家を所有している。

 

ホックニーは60年以上のヘビースモーカーで、1990年以降、心臓発作を何度か起こしている。またホックニーは医療目的で大麻を購入すための「カリフォルニア医療大麻証明カード」を保有している。1979年以来補聴器を使用しているが、ずっと以前から耳が遠くなったという。

 

毎日30分泳ぎ、イーゼルの前に6時間立つことが日課だという。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/David_Hockney、2020年6月4日アクセス