【完全解説】ジョルジュ・ルオー「20世紀で最も情熱的な前衛宗教画家」

ジョルジュ・ルオー / Georges Rouault

前衛表現を取り入れた20世紀最大の宗教画家


ジョルジュ・ルオー「Holy Shroud,」(1913年)
ジョルジュ・ルオー「Holy Shroud,」(1913年)

概要


生年月日 1871年5月27日
死没月日 1958年2月13日
国籍 フランス
表現形式 絵画、版画家
ムーブメント フォーヴィスム
関連サイト WikiArt(作品)

ジョルジュ・アンリ・ルオー(1871年5月27日-1958年2月13日)はフランスの画家、製図者、版画家。

 

美術史では一般的にアンリ・マティス、アンドレ・ドランなどのフォービスムや表現主義の作家として知られている。

 

ほかの表現主義作家よりもグロテスクな色使いで荒々しいタッチが特徴で、またキリスト教を主題とした作風が多い。非常にモラリストで信仰心が篤かったルオーは、絵画の中でよく売春婦やピエロや道化者たちをネガティブに表現し、一方でキリストの肖像画やその他の精神的象徴を崇拝するように描いた。

略歴


幼少期


ルオーはパリの貧しい家庭に生まれた。母はルオーの芸術の才能を励まし、1885年に14歳でルオーはステンドグラス職人や修復作家として修業を始め、1890年で卒業した。

 

ステンドグラス職人時代から、すでにのちのルオーの特徴である重黒い輪郭線や真っ赤な色彩が見られる。職人の見習い期間中にルオーはまた芸術学校の夜間クラスに入学し、次いで1891年にパリのエコール・デ・ボザールに入学して、本格的に美術を学ぶ。

 

ギュスターヴ・モローのもとで学び、モローのお気に入りの生徒になった。ルオーの初期作品は、おそらくルオーの影響が色濃く、色の使い方で象徴主義の傾向が見られる。1898年にモローが死去すると、モローと深いかかわりがあったルオーは、パリのモロー美術館のキュレーターとして選ばれた。

フォーヴィスム運動


ジョルジュ・ルオーはまたアンリ・マティス、アルベール・マルケ、アンリ・マンギン、シャルル・カモワンらと出会った。彼らとの友好関係はフォーヴィスム運動への関心をルオーにもたらした。

 

1895年からルオーは、主要な公的な展示に参加し始める。とりわけサロン・ドートンヌで宗教を主題とした作品や風景画、そして静物画などを発表して知名度を高めていった。

 

1905年のサロン・ドートンヌ展でルオーは他のフォービスムの作家たちと参加。フォーヴィスム・グループにおいてマティスは理論的な側面を作品に反映していたが、ルオーはもっと本能的で自発的な作風だった。

 

ルオーの激しい色のコントラストと感情的な色の使い方はフィンセント・ファン・ゴッホからの影響が強い。過激でグロテスクな作風はのちに表現主義の作家に多大な影響を与えた。

1905年のサロン・ドートンヌでフォービストたちと参加。ルオーは「虐殺」を出品。
1905年のサロン・ドートンヌでフォービストたちと参加。ルオーは「虐殺」を出品。
ジョルジュ・ルオー「虐殺」(1905年)
ジョルジュ・ルオー「虐殺」(1905年)

20世紀で最も情熱的な宗教画家に


1907年、ルオーは議会、ピエロ、売春婦を主題にした作品シリーズを描き始める。これらの作品は社会批評やモラルを意識していると解釈されている。ルオーは精神世界や実存主義の哲学者ジャック・マリテインに関心を持っていた。マリテインはルオーの生涯における友人となった。その後、ルオーは宗教を主題にした作品を自分自身に捧げる意図を持ち制作を始める。人間性は常にルオーの興味ごとであった。

 

1910年、ルオーはドリュー画廊で最初の個展を開催。この個展でルオーの作品はドレスデン出身のドイツ人芸術家たちを魅了し、のちにドイツ表現主義の生成に影響を与えることになった。

 

1917年以降、ルオーはこれまで以上に自分自身のための絵画制作へ向かうようになる。キリスト教の信仰は作品制作のためのインスピレーションを得るための源泉となり、おそらく20世紀で最も情熱的なキリスト教の宗教芸術家となった。なによりも第一に、ルオーはキリストの情熱をテーマにした。

 

1929年にルオーは、バレエ・リュスの『放蕩息子』の舞台デザインを担当。1930年には、ロンドン、ニューヨーク、シカゴを中心に海外で展示も行い始めた。1936年に制作した「旧王」はルオーの代表作で、彼の優れた表現主義作品として見られている。晩年にルオーは300もの作品を焼却した。焼却した理由は深刻なものではなく、シンプルに彼にとって未完成だったためだという。1958年にパリで死去。

ジョルジュ・ルオー「旧王」(1936年)
ジョルジュ・ルオー「旧王」(1936年)

■参考文献

Georges Rouault - Wikipedia