清里現代美術館館長 伊藤修吾インタビュー2

-観念的な現代美術は単に見るだけではわからない。社会的な背景とか作家のメッセージとか、かなり深く突っ込んでいかないと見えないと思うのですが。


伊藤:確かにそうです。この美術館に来る人も半分以上の方は見る力がない。見る姿勢も持たない。でも、そういった人たちを作り上げてしまったのが従来の美術館ではないでしょうか。例えば美術史に載っているような有名な作品を置けば、多くの人がその作品を見るためにやってくる。名作を展示すれば、勝手にお客さんがやってきて見て帰る。それは見る姿勢や力を美術館が人々に教えることを放棄していることだと思うんですよ。日本の美術館の多くはそういった視点から作られている。


-美術館には啓蒙や教育といった機能とともに運営上の問題もあるわけですから、ある面ではそれも仕方がないところがある。


伊藤:美術館を支えている人は誰かということなんですよ。学芸員や美術館の関係者は自分たちが支えている思っている。それは、とんでもない。要するに見ることを奪われている人たちが支えている。勉強をやっている人たちが支えているんじゃない。勉強をやっている人は、10人の内2人ぐらいですよ。残りの8人の人は、美術館にどどっと行ってどどっと帰る(笑い)。そういう人たちが実は美術館を支えている。


-今の美術館はその8人の人たちに何もしないと…。


伊藤:そうです。そういう人たちに何の手当てもしない。そして傲慢にも、現代美術は難しいからわかる人にわかればいいと居直る。わかる人を増やす努力をせずに、ピカソ、ゴッホ、シャガールといったとりあえずは誰でもわかる、美術史的価値の明確な作品を集めようとする。そういう意識をもったときに、美術館は現代美術から離れていくんですよ。この美術館をはじめてつくづく思うのは、現代美術というのは残りの8割の人々をレベルアップをすることだということです。それは作品を知らせることではなくて、社会を良くすることです。まさにそこにボイスの思想と作品がある。ボイスが凄いのは、現代の芸術というのは社会の改革なんだ。芸術そのものは社会は変えられない。しかし社会を改革するために自分自身を変えることができる。それが重要なんだと呼びかけ、自らも行動したことです。だから、美術館そのものも社会に向かう姿勢が問われている、ところが日本の美術館にはそれがない。勉強のための芸術、極端にいえば社会なんて関係ない芸術だけを並べる美術館があまりにも多い


-それは日本の美術教育の問題でもありますね。


伊藤:今、中学校・高等学校の美術の時間が大幅に減らされていますよね。教育そのものが今までの近代の意識で芸術を位置づけている。芸術は趣味や余暇のもの、実社会の論理とは乖離したものというのが近代の意識ですね。ところが今の芸術、ボイス以降の現代美術というのは社会科ですよ。だから作品を見て話をしていても必ず社会の話になる。それこそ大事なんですね。ボイスをはじめとしたここにある作家たちは、まさに皆そういう作家たちです。現代音楽のジョン・ケージも、またそういった一人ですね。また、フルクサスの常設をやっていますが、フルクサスの作品というのはシルバーマン・コレクションに入っていますから、中々公開しにくいようです。ですから、美術館内で常設展示しているのはここだけではないでしょうか。