【完全解説】アメデオ・モディリアーニ「モダニズム・ヌード」

アメデオ・モディリアーニ / Amedeo Modigliani

モダニズム・ヌード


『赤いヌード』(1917年)
『赤いヌード』(1917年)

概要


生年月日 1884年7月12日
死没月日  1920年1月24日
国籍 イタリア
表現媒体 絵画、彫刻
表現スタイル エコール・ド・パリ

アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ(1884年7月12日-1920年1月24日)はユダヤ系イタリア人画家、彫刻家。おもにパリの前衛芸術家が集まる場所で活動。引き伸ばされた顔や身体が特徴のモダニズム形式のポートレイトやヌード画で知られている。またその不幸な境遇からヴィンセント・ヴァン・ゴッホと同じようにみなされることがある。

 

モデリティアー二は幼少期をイタリアで過ごし、ルネッサンスや古典芸術を学ぶ。1906年にパリに移動し、パブロ・ピカソやコンスタンティン・ブランクーシといった当時のパリの前衛美術家たちと出会い活動を始める。活動初期は絵画やドローイングが中心だったが、一時的に彫刻に専念し、次いでヌード画やポートレイト画など絵画中心の制作に戻る。

 

モディリアーニのスタイルはカテゴライズするのが難しく、一般的に表現主義か独自のスタイルとみなされている。日本ではマルク・シャガールや藤田嗣治らと同じく、パリ滞在の外国人作家として「エコール・ド・パリ」に分類されて紹介されることが多い。なお、エコール・ド・パリというのは、パリにいた外人作家の総称であってスタイルではない。

 

持病の結核に生涯悩まされたり、アルコールや薬物に溺れて、貧困のうちに35歳という若さで死去。モディリアーニは生存中は受けいられられず、死後に評価が高まり、現在のアート・ワールドにおいて、パブロ・ピカソと並んで最も高額なモダニズム作家の1人となっている。2015年11月9日、1917年作の『赤いヌード』はクリスティーズ・ニューヨークで1億7000万ドルで落札された。

チェックポイント


  • 伸長したポートレイトやヌード画
  • エコール・ド・パリの作家
  • 不幸のうちに若くして亡くなる

マーケット情報


現在アートマーケットでモディリアーニ作品は、パブロ・ピカソに次いで最も高額なモダニズム作家の1人となっている。6月21日、ロンドン・サザビーズで開催された印象派と近代美術セールで、晩年の愛人ジャンヌ・エビュテルヌの24枚の肖像画の1つが出品され、3850万ポンド(約56億円)で落札された。

 

当時、ピカソのキュビスム時代の作品が出品され4300ポンド(約63億円)で落札されたが、この2枚は過去5年のロンドン市場で最高価格だったという。

 

現在のアートマーケットで、高額とみられるモディリアーニ作品は晩年のジャンヌ・エビュテルヌシリーズと、パリでの唯一の個展でスキャンダラスを起こしたヌード画シリーズとみなされている。


略歴


幼少期


リヴォルノのモディリアーニの生家。
リヴォルノのモディリアーニの生家。

モディリアーニはイタリアのリヴォルノで、セファルディム系ユダヤ人の家庭の子どもとして生まれた。港町リヴォルノは長い間、迫害されたユダヤ教徒たちの避難場所として利用されてきたところで、巨大なユダヤ・コミュニティがあった。

 

モディリアーニの母方の曾祖父であるソロモン・ガーシンは、迫害され18世紀にリヴォルノに避難してきた移民だった。

 

リヴォルノで生まれマルセイユで育ったモディリアーニの母ことユージニ・ガーシンは、何世紀にもわたるセルファディ系学者の家系だった。母親の先祖たちは代々、地中海の海外線に沿って暮らしており、多数の言語を流暢に使いこなす彼女の祖先たちは、尊いユダヤ古文書の管理を行っていた。タルムード研究のための学校を設立もしていたという。17世紀のオランダの哲学者スピノザの家系と関わりがあったともいわれている。また、モディリアーニ族は、リヴォルノ、マルセイユ、ロンドン、チュニスなどヨーロッパ中に支店を持つ金融業を営んでいた。

 

モディリアーニの父フラミニオは、成功した実業家で起業家の家系の1人だった。ガーシン一族のようなインテリゲンチャな家系ではなかったが、商才がある実業家一家だったといわれる。モディリアーニが生まれる以前、フラミニオは裕福な若い鉱山技師だった。彼はサルデーニャで会社を経営し、約3万エーカーの土地を所有していた。

 

しかし不幸は1883年に起きる。金属価格の低下による景気後退が原因で、父親の仕事はうまく立ちいかなくなり破産。ただ機転に富んだモディリアーニの母は、二人の姉妹とともに、学校ビジネスを立ち上げて成功する。

 

父親の事業が破綻した日に、モディリアーニ家に4番目の子ども、つまりアメデオが誕生したことは家族にとって幸運だった。ユダヤ法によると、債権者は生まれたばかりの子どもを持つ母親や妊婦がいる家庭に対して財産を没収してはならなかったのである。家族は財産を母親名義にすることで貴重な資産を保護することができた。

 

モディリアーニは本格的に美術の勉強を教わる以前の幼少期から、自分でドローイングや絵画を始めていた。母親はそんなモディリアーニの芸術への関心を過度に奨励した。

 

幼少の頃モディリアーニは母親と親密で、母親が10歳まで直接教育をしていた。しかし、11歳のときに強膜炎にかかり、原因でモディリアーニは健康問題に悩むようになり、数年後、腸チフスを患う。16歳のときに再発し、結核と診断される。この結核は生涯彼を悩ました。

 

モディリアーニの症状が良くなった後、母親は彼を北イタリア旅行へ連れ出す。ナポリ、カプリ島、ローマ、アマルフィ、フィレンツェ、ヴェニスなどをまわった。

 

母親はさまざまな方法でモディリアーニの職業としての芸術能力を伸ばそうとした。11歳のときの彼女の日記にはこう記されている。

 

「この子の性格はまだ十分形成されていないので、今自分の意見をいえるところに来ていないが、その態度は知能はあるが甘やかされた子供のそれである。このサナギの中に何があるのか、もう少し時期がたてば見えてくるだろう。あるいは芸術家?」

 

14歳のとき腸チフスで病床に伏せている間も美術に対する熱はおさまらなかった。リヴォルノの地方美術館にはイタリア・ルネサンス巨匠の作品は数点しかなかったが、ある日、モディリアーニはフィレンツェに偉大な作品がたくさんある話を聞き、いてもたってもいられなくなる。しかし、病気で動けない状態の自分に絶望したという。

 

そこで母親は病気が良くなったらフィレンツェへ連れていくことを約束をする。快方に向かうと母親はフィレンツェ旅行の約束を果たしただけでなく、リヴォルノで最も有名な画家グリエルモ・ミシェリの美術学校に通うてはずも整えてくれた。

ミシェル美術学校


1898年から1900年までモディリアーニは母親の後押しもあってミシェル美術学校に通うい始める。同級生にはルウェリン・ロイド、ジュリオ・シェザーレ・ヴィニジオ、マンリオ・マリネティ、ジーノ・ロミティ、レナート・ナタリー、オスカー・ギリアなどがいた。

 

ここで彼の初期の美術スタイルは形成される。学校は19世紀イタリア美術のテーマやスタイルを深く学ぶ雰囲気で、モディリアーニの初期のパリ作品はこの影響が大きく見られる。特にトゥールーズ・ロートレックやジョヴァンニ・ボルディーニといった画家の影響が見られた。しかし1900年、16歳のときに肺結核を発症し、強制的に休学することになる。

 

1901年ローマでモディリアーニは宗教や文学の劇的な一シーンを描く画家ドメニコ・モレリの作品に感動する。モレリはマッキア派と呼ばれる因習打破主義集団にインスピレーションを与えていた画家で、モディリアーニは以前からこのマッキア派の絵画に影響を受けていた。

 

マッキア派はイタリアローカルの独自の風景画運動で、アカデミックなブルジョスタイルの画風に反発して生まれたものである。スタイルはフランス印象派に近いものだったが、特に国際的な美術シーンに影響を与えることはなく、今日においてはイタリア以外の国ではほぼ忘れられられている。

 

モディリアーニのマッキア派への接触はグリエルモ・ミシェリを通じてだった。ミシェリ自身はマッキア派ではなかったが、マッキア派の有名画家で創設者のジョヴァンニ・ファットーリの弟子だった。しかし、ミシェリの授業は非常にファッショナブルで、凡庸な主題だっため、若いモディリアーニは学校の影響を受けることはなく、フランス印象派のように景観に対する脅迫を無視した。

 

ミシェリはまた印象派の制作と同じく戸外制作を推奨したが、モディリアーニは戸外制作やカフェでのスケッチ作業が嫌いで、もっぱら屋内、自分のアトリエにこもって制作するのを好んだ。風景画を描くときでさえも、モディリアーニはマッキア派よりもスザンヌのようなプロト・キュビスム的な作風を好んだ。

 

ミシェル学校にいる間、モディリアーニは風景画だけでなく肖像画や静物画、ヌード画も学んだ。特にヌード画を得意とし、線の表現にこだわった。印象派的な絵画を拒絶していたもにも関わらず、モディリアーニはミシェルの教師と衝突することはなく、また教師たちも彼の才能を認めていた

 

この時期、モディリアーニはニーチェを愛読していたこともあって教師たちは、ニーチェの「ツァラトゥストラはこう語った」からの引用で「超人」という愛称を付けて呼ぶことがあった。ジョヴァンニ・ファットーリ自身もよくスタジオを訪れ、モディリアーニを評価していた。

 

1902年に、モディリアーニは生涯描き続けることになったポートレイト絵画を発展させるため、フィレンツェのアカデミア美術館内にある「裸体画自由美術学校」に入学。1年後、結核の症状が悪くなったため、ヴェネチアに療養移転し、そこでアッカデミア・ディ・ベッレ・アルティに入学。

 

ヴェネチアでモディリアーニは初めて大麻を経験し、この頃から、学業よりも街のいかがわしい場所に出入りする。カフェでニーチェの哲学を論じ、娼館でハシシュを吸いつつ、娼婦たちをデッサンする事の方が多かった。いわゆる「10代の反抗」「快楽主義」「ボヘミアニズム」といった、現代でいうところのサブカルチャーやカウンター・カルチャーにはまりはじめる。後年、モディリアーニの質素な生活の探求(ミニマリズム)は、ニーチェの哲学やこれらヴェネツィア時代の生活の影響が大きい。ほかに、ボードリヤール、ジョズエ・カルドゥッチ、ロートレアモン伯爵、ガブリエーレ・ダンヌンツィオなどの作家から影響を受けたようだ。

パリ時代


1906年1月にモディリアーニはパリへ移住し、アカデミー・コラロッシに入学する。パリは前衛芸術の中心地だった。モディリアーニがパリに到着した同じ時期に、以後親友となるジーノ・セヴェリーニやフアン・グリスもパリにやってきた。

 

モディリアーニはのちに(1912年)にジェイコブ・エプスタインと親しくなり、二人は古代ギリシアの美の神殿を創造するビジョンを目的に、スタジオを共有するようになった。そこで、モディリアーニは 「柔らかな石柱」という古代ギリシア美術をモチーフにしたドローイングや絵画を多数制作した。

 

この時期、モディリアーニはモンマルトルの貧しい芸術家のコミュニティであるアパート「洗濯船」に落ち着く。多くは住居兼アトリエだったがモディリアーニはコーランクール通りに独立してスタジオを借りる。モントマルに住む美術家の4分の1は一般的に貧しいのが特徴のボヘミナン芸術家だったけれども、モディリアーニ自身は、少なくとも到着時は少なくとも粋なかんじで、スタジオは豪華なカーテンとルネサンス装飾がきめ細かに施された優雅な雰囲気だった。

 

パリに着いた当初は、モディリアーニは母親に定期的に手紙を送り、アカデミー・コラロッシに通ってヌード画のスケッチを描き、節度をもって酒を飲んで過ごした。この頃パブロ・ピカソ、ギヨーム・アポリネール、アンドレ・ドラン、ディエゴ・リベラらと交流を結ぶ。

 

しかし、パリに到着して一年のうちに、モディリアーニの態度や周囲からの評判は劇的に変化していった。それまで粋なアカデミシャン芸術家から放浪の貴公子に変化していった。

 

詩人でジャーナリストのルイラ・トゥレットは、以前のよく整ったスタジオを訪れたことがり、その後、激変した荒れたスタジオのありさまを見て驚く。このときモディリアーニはすでにアルコールと薬物の中毒になっており、荒廃した部屋がモディリアーニの姿をそのまま反映していた。そうした状況でも当時のモディリアーニは、すべてのアカデミズム芸術に反発する態度を示し、伝統から離れて独自の芸術スタイルを発展させてもいた。

 

モディリアーニはスタジオからあらゆるブルジョア的な虚飾を取り除き、また彼自身の初期作品を破壊。その行為について「これらは私は汚れたブルジョアだったときに描かれた、こどものつまらない絵」だと説明している。

 

この初期作品に対する激しい反発的な態度はさまざまな推測がなされている。モディリアーニは意識的に自身にペルソナを施していくため、積極的にアルコールや薬物を摂取するようになったかもしれないこと。ほかに、持病の結核の苦しみから気を紛らわすためアルコールや薬物に頼っていたことも考えられる。当時パリの結核による死亡率は非常に高く、また患って患者は周囲から恐れられ、遠ざけられていた。そのような結核がもたらす心理的影響がモディリアーニをアルコールや薬物に向かわせた原因であるともいわれる。

 

1914年あたりからモディリアーニのアルコールやドラッグの摂取量がさらに増える。酔っ払っているときやトリップしているとき、モディリアーニはしばしば懇親会で裸になって暴れたりもした。結核の寛解と再発を数年繰り返した後、結核症状は悪化し、危険な段階に達し始めた。

 

アンデパンダン展には第24回展(1908年)、第26回展(1910年)、第26回展(1911年)と出品している。しかし当時の評価は低くごく少数の新聞に他の作家と共に名が載った程度であり、また作品も売価を大幅に値引かないと売れない状況だった。

 

最初アンリ・ド・ロートレックに影響を受けていたが、1907年頃にポール・セザンヌ影響を受け、最終的には独自のスタイルに発展させていった。ピカソをはじめ多くの当時の前衛芸術家たちと親交があったものの、モディリアーニの作風はほかと比べて、適切にカテゴライズすることが難しかった。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホのように死後に伝説化した悲劇的なアーティストの縮図のようになりはじめた。

 

1910年、26歳のときにロシアの詩人でモディリアーニの最初の深い愛人であるアンナ・アフマートヴァで出会う。二人は同じ建物にスタジオを借りており、アンナは21歳で結婚していたけれども二人は愛し合っていた。アンナはモディリアーニの芸術のミューズとなった。しかし数年後、彼女は夫の元へ戻った。

モンパルナス時代


『Tête』(1911年)
『Tête』(1911年)

1909年に一時モディリアーニのはレヴォノに戻ったが、退屈なため再びパリへ帰り、モンパルナスに移る。

 

彼は元々絵描きよりも彫刻家と思っていたので、モディリアーニに関心を持った美術商のポール・ギヨームから励ましを受け、またルーマニア出身の彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと交流した後、一年間ブランクーシの弟子となり彫刻作品に没頭を始めるようになる

 

1912年のサロン・ド・ドーテンヌでモディリアーニの彫刻作品は展示されたが、戦争勃発で彫刻材料を入手するのが難しくなり、モディリアーニの健康悪化による体力不足、資金不足などが原因で、彫刻作品の制作はやめ再び絵画制作に焦点を始めた。

 

2010年、女性の顔をデフォルメして大きく歪めんたモディリアーニの1911年作の『Tête』 はこれまでの作品で三番目の高額作品となった。

 

同じ頃第一次世界大戦が起こり、モディリアーニは病弱なため兵役は不適格となる。1914年7月英国人の女性ベアトリス・ヘイスティングスと知り合いその後2年間交際する。1916年には、ポーランド人の画商レオポルド・ズボロフスキーと専属契約を結び、絵をすべて引き取る代わりに画材などを提供してもらっている。この年シモーヌ・ティローを愛人とするが翌年別れる。

ヌード画時代


1916年から1919年の間、モディリアーヌはヌード画を数十点描いており、これらの多くはモディリアーニの代表的作品として知られるものである。ヌードシリーズはモディリアーニの画商で友人のレオポルド・ズボロフスキーからの制作依頼だった。彼はモディリアーニにアパートを貸したり、モデルを紹介したり、画材を用意し、また生活のため毎日15〜20フランを支払っていた。

 

1919年にモディリアーニの生涯で一度きりの個展が開催され、これらのヌード絵画が展示されたが、オープニング開始の数時間後に警察がやってきて個展は強制的に中止に追い込まれた。

 

1917年作の『ソファーに座る裸体』はその年のパリの個展で展示されてセンセーショナルを巻き起こした。この作品は2010年のサザビーズで6890万ドルで落札された。また2015年10月年にニューヨークのクリスティーズ、パリ個展で展示されたヌード作品の1つ『赤いヌード』が出品され、1億7000万ドルで落札された。

『ソファーに座る裸体』(1917年)
『ソファーに座る裸体』(1917年)
『横たわるヌード』(1917年)。メトロポリタン美術館所蔵。
『横たわるヌード』(1917年)。メトロポリタン美術館所蔵。
『赤いヌード』(1917年)
『赤いヌード』(1917年)

ジャンヌ・エビュテルヌと晩年


1917年初、ロシアの彫刻家チャナ・オルロフはモディリアーニに19歳の美しい美大生ジェンヌ・エビュテルヌを紹介する。彼女は藤田嗣治のモデルだった。

 

エビュテルヌはすぐにモディリアーニの芸術性に魅了され、2人は恋に落ちる。保守的なカトリック家族を背景に持つエビュテルヌは、カトリックの両親の強い反発にあった。にも関わらずエビュテルヌはユダヤ人のモディリアーニのもとへ移った。

 

モディリアーニは、詩人で美術批評家のベアトリス・ヘイスティングスとの関係を終わらせた後、すぐに二人はノートル=ダム・デ・シャン通りのアトリエで暮らし始めた。ジェンヌはモデルとなって彼の作品に現れ始めた。

 

作家のシャルル=ザルベール・サングリアによると、エビュテルヌは穏やかで内気で無口で繊細な女性だったので、モディリアーニの主要なモデルになったという。エビュテルヌはモダンアートにおける重要モデルとなった。

 

1917年12月3日、モディリアーニの最初の個展がパリのベルテ・ワイルギャラリーで開催。モディリアーニのヌード絵画がスキャンダラスを起こし、展示はオープン後、1〜2時間で警察の介入により強制的に中止となった。

 

第一次世界大戦が集結する方向に向かう1918年初頭、モディリアーニはエビュテルヌと戦火を避けてパリを去り、フランス南部のニースやカーニュ=シュル=メールを旅行。そこで一年を過ごすことになる。南部滞在時はピエール=オーギュスト・ルノワール、パブロ・ピカソ、ジョルジョ・デ・キリコ、アンドレ・ドランら多くの友人達との社交生活で忙しかったようだ。

 

二人は1918年11月29日にニースへ移った後、エビュテルヌは長女ジャンヌ(1918-1984)を出産。1919年5月にパリに戻ると、ドゥ・ラ・グランド・ショミエールにあるアパートで生活をはじめる。

 

エビュテルヌは再び妊娠する。モディリアーニはそのとき、彼女の母親から結婚を反対されていたため彼女とは結婚していなかった。特にアルコールや薬物使用者の疑いがあったため強く非難されていた。また、両親の反対とは別に、持病の結核が悪化してきたのも結婚を中止した理由だった。

 

1920年1月24日にモディリアーニが、結核性の髄膜炎と、薬物濫用によって惹起された合併症が原因で死ぬと、エビュテルヌの家族は彼女を自宅へ連れ帰ろうとする。しかしエビュテルヌは完全に錯乱状態に陥り、モディリアーニが死んだ次の日の25日に5階のアパートの窓から投身自殺をしてしまう。妊娠中の子どもも亡くなった。

 

エビュテルヌの家族は自殺の原因であるモディリアーニを非難し、彼女をモディリアーニとは別の場所に埋葬した。10年たって、エビュテルヌの家族は反省し、彼女の遺体をモディリアーニの墓の側に埋葬しなおした。彼女の墓碑には「極端な自己犠牲も辞さぬ献身的な伴侶」と書かれている。

 

『ジャンヌ・エビュテンヌの肖像』(1918年)
『ジャンヌ・エビュテンヌの肖像』(1918年)

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