【完全解説】マルク・シャガール「20世紀最大のユダヤ人前衛芸術家」

マルク・シャガール / Marc Chagall

ロシア系ユダヤ人の土着文化と前衛芸術の融合


「誕生日」(1915年)
「誕生日」(1915年)

概要


生年月日 1887年7月6日
死没月日 1985年3月28日
国籍 ロシア、のちにフランス
ムーブメント エコール・ド・パリ、キュビスム、シュルレアリスム、
表現形式 絵画、ステンドグラス、壁画、舞台デザイン、舞台衣装、タペストリー
配偶者

・ベラ・ローゼンフェルド(1915-1944)

・ヴァンレンティーナ・ブロウドスキー(1952-1985)

関連サイト

The Art Story(略歴)

WikiArt(作品)

マルク・ザロヴィッチ・シャガール(1887年7月6日-1985年3月28日)はロシア出身のユダヤ系フランス人画家。初期モダニストの代表的な画家であり、また「エコール・ド・パリ」の中心人物。

 

キュビスム、フォーヴィスム、表現主義、シュルレアリスム、象徴主義など、さまざまな前衛芸術スタイルを融合し、また絵画、本、イラストレーション、ステンドグラス、舞台デザイン、陶芸、タペストリー、版画などさまざまな形式で表現活動を行った。

 

シャガールは、一般的に“モダニズムの開拓者”“主要なユダヤ人画家”の2つの美術評価がなされている。美術批評家のロバート・ヒューズは、シャガールを“20世紀を代表するユダヤ人画家”と批評。美術史家のミシェル・J・ルイズは、シャガールを“ヨーロッパ初期モダニストの最後の生存者”と評した。

 

数十年間、シャガールは世界有数のユダヤ人芸術家として尊敬されていた。ステンドグラス作品においてシャガールは、イスラエルのハダーサ病院、国際連合本部、ノートルダム大聖堂、メス大聖堂のステンドグラスを担当する。晩年にはパリ・オペラガルニエ宮の天井画を担当して、話題を集めた。

 

第一次世界大戦前、シャガールはサンクロペテルブルグ、パリ、ベルリン間を移動しながら活動をしていた。この時代にシャガールは、東ヨーロッパの土着ユダヤ人文化を基盤として多種多様なアヴァンギャルド術様式を混合させていった。

 

第二次世界大戦が始まり、ナチスのユダヤ人迫害が始まるとアメリカへ移る。アメリカで絵画の展示を行いつつ、メキシコで舞台デザインを手がけて話題を集めた。戦争が終わるとシャガールはパリへ戻る。ユダヤ人虐殺や妻ベラの悲しみを乗り越えつつ、シャガールは、自身がパリの雰囲気だけでなく、街自体、建物や風景そのものが深く結びついていると気づいき、パリに活動拠点を置く。

 

戦後になると絵画制作は少なくなり、彫刻、セラミック、大規模な壁画、ステンドグラス・ウインドウ、モザイク、タペストリーなどの制作が中心となる。晩年は壮大な19世紀の建築と国の記念碑でもあるパリ・オペラの新しい天井画制作の依頼を受け、話題を集めた。

 

この作家のポイント


  • ロシア系ユダヤ人の土着文化と前衛芸術を融合させた
  • エコール・ド・パリの中心的な人物
  • 20世紀最大のユダヤ人画家

作品解説


私と村
私と村
誕生日
誕生日
7本指の自画像
7本指の自画像
白襟のベラ
白襟のベラ

略歴


幼少期の源泉


シャガールの両親
シャガールの両親

マルク・シャガールは1887年、ヴィーツェプスク近郊のリオスナで、ユダヤ系リトアニア人として生まれた。当時のヴィーツェプスクの人口はおよそ66000人で半分はユダヤ人だった。

 

絵のように美しい教会やシナゴーグが立ち並び、人々はその町をスペイン帝国時代の世界観になぞらえて「ロシアのトレド」と呼んだ。

 

しかし、町に立ち並んでいた木製の家屋は、第二次世界大戦時にナチスドイツとソビエト軍による戦闘による破壊と占領で、ほとんどが消失してしまった。

 

シャガールは9人兄弟の長男として生まれた。家族の姓であるシャガールは英語でシーガルと呼び、ユダヤコミュニティにおいてはレヴ族出身であることを意味していた。父ザハール・シャガールは魚売りで、母フィーギャ・イティは自宅で食料を売っていた。

 

父は重い樽を持ち運ぶ重労働者だったが、月の稼ぎはたった20ルーブルだった(当時のロシア帝国時代の平均月収は13ルーブル)。シャガールはのちに魚をモチーフにした作品を描く事が多いが、その源泉は幼少の頃に見た働く父に対する敬意にあるという。

 

シャガールの幼少期について知られている事の多くは、自伝『マイライフ』で語られているように、ハシディズム文化から多大な影響を受けているというものである。実際にヴィーツェプスクという町は、1730年代からユダヤ教正統派から異端とみなされていたカバラ教義から派生したハシディズム文化の中心地だった。シャガールはこのハシディズム文化が芸術の源泉になっていると語っている。

イェフダペンによるシャガールのポートレイト。
イェフダペンによるシャガールのポートレイト。

当時のロシアで、ユダヤ人の子どもたちちはロシアの学校や大学に入学するのに規制がかけられていた。そのため、シャガールは地方のユダヤ教徒学校に通い、ヘブライ語や聖書の勉強をした。

 

13歳のとき、シャガールの母はロシアの高等学校に入学させようとしたが、シャガールは「普通、その学校はユダヤ人を受けれてくれないところだったが、母は躊躇せず、勇気をもって教師にかけあった。そして入学のため学長に50ルーブルを手渡した。」と話している。

 

シャガールが芸術家になるきっかけとなったのは、同級生がしていたドローイングであるという。シャガールは同級生に絵の描き方を尋ねると「図書館にいって本を探してこい。お前が好きな写真が乗っている本を選んで、あとはそれを模写するだけだ」と返答される。そこでシャガールはすぐに本の模写をはじめる。模写をしていると非常に楽しくなり、ついには芸術家になる決心をしたという。

 

シャガールはついに母親に絵描きになることを打ち明ける。母親は当時、シャガールの急な美術への目覚めと使命感に対して、非現実的な感覚がして理解できなかったという。1906年にシャガールは写実主義の画家のイェフダペンの小さな美術学校がヴィーツェプスクにあるのに気づいた。

 

この学校にはエル・リシツキーやオシップ・ザッキンも通うことになる。シャガールは当時お金がなかったため、ペンは無料でシャガールに美術を教えることにした。しかし、数カ月後、シャガールはアカデミックな芸術は自身には合わないことに気づいた。

 

当時のロシアにおけるユダヤ人芸術家たちは、一般的に2つの芸術的な方向性を選択した。1つはユダヤ人であることを隠すこと。もう1つはユダヤ人というアイデンティティを大切にして、芸術でそのユダヤ性を積極的に表現する方向である。シャガールは後者を選択した。シャガールにとって芸術とは「自己主張と原理の表現」なのであった。シャガールにはハシディズム精神が根本にあり、それが彼の創作の源泉であるという。

ロシア(1906−1910)


ベラ・ローゼンフェルト
ベラ・ローゼンフェルト

1906年にシャガールはサンクトペテルブルクに移動。当時、ユダヤ人は国内パスポートなしで町を出入りすることはできなかったが、シャガールは一時的に友達からパスポートを借りて入った。

 

シャガールは一流美術学校に入学し、2年間そこで学ぶ。1907年までにシャガールは自然主義のセルフポートレイトや風景画を描き始めた。

 

1908年から1910年までの間、シャガールはズバントセバ美術学校でレオン・バクストのもとで学ぶ。サンクトペテルブルクに滞在中、シャガールはポール・ゴーギャンのような作品や実験映画に出会う。バクストもユダヤ人で、装飾芸術のデザイナーであり、またロシアバレエ団の舞台衣装やファッションデザイナーとして活躍していた。またここで、伝説のダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーと知り合う。 

 

1909年の秋に後に妻となるベラ・ローゼンフェルトと出会っている。1910年までシャガールはサンクトペテルブルクに滞在していたが、よくヴィーツェプスクにいるベラ・ローゼンフェルトに会いにでかけたという。

パリ時代(1910-1914)


「私と村」(1911年)
「私と村」(1911年)

1910年、シャガールはパリへ移動しさらに芸術に磨きをかける。美術史家でキュレーターのジェームズ・スウィーニーは、シャガールがパリに初めて来た時、美術界ではキュビスムがトレンドで、フランス芸術全体が19世紀の唯物主義的な世界観で覆われていた。

 

そのため、シャガールの新鮮で、率直な感情表現、シンプルで詩的でユーモア感覚のある絵画は、パリの美術界では異端的であり、最初は画家からは無視された。

 

代わりにブレーズ・サンドラールやギヨーム・アポリネールといった詩人たちから注目を集めるようになった。シャガールの表現は、キュビストの方法、つまり対象物を外から複数の視点で描く方法とは真逆で、に向かって出て行くさまざまな内面感情を情熱的な表現だったのである。

 

23歳当時のシャガールのパリの最初の日々はフランス語を話せないこともであり、人生の中でも非常に孤独で、つらい時期だったといわれる。そうした孤独な環境が自然と故郷に対する哀愁の感情が芽生えさせ、ロシア民謡や、ハシディズム経験、家族、恋人ベラのことなど故郷ロシア時代の楽しい空想にふける絵画を描くようになったといわれる。

 

この時代の代表作は『私と村』である。これは1911年に制作された作品。キュビスムの絵画理論を応用する形でシャガールの内面に眠る故郷ロシアに関するさまざまな感情やシーンを夢のように同時に描いている。

 

前景の帽子をかぶっている緑顔の男がヤギや羊を見つめ、ヤギの頬には乳搾りのイメージが重なっている。また前景の男の手には成長している木が描かれている。背景には描かれているのはロシアのギリシア正教会と庶民の住宅、草刈鎌を持つ男や逆さまの女などが描かれている。これらはすべて、シャガールの生まれ故郷ヴィーツェプスクの記憶が融合して視覚化したものである。

 

また、画面中央の大小の円は太陽と月を表わしているとされる。キュビズムの理論に影響を受けているシャガールは、さまざまな意味を込めた象徴的なモティーフを平面的な色彩と円、三角形と対角線を基本とする幾何学的構成のなかに配置。キュビズムの理論とシャガール独自の土着的な世界観が融合された作品で評価が高い。

 

パリでシャガールは前衛芸術の学校「アカデミー・デ・ラ・パレット」に入学。そこでジャン・メッツァンジェ、アンドレ・デュノアイエデスゴンザック、アンリ・ルフォコニエらが教師をしていた。暇なときはギャラリーやサロンで過ごす事が多かった。中でもルーブル美術館はよく通った。

 

レンブラントやル・ナン兄弟、ジャン・シメオン・シャルダン、ゴッホ、ルノワール、ピサロ、マティス、ゴーギャン、クーベレ、ミレー、モネ、ドラクロワといった画家に関心があった。パリでシャガールはガッシュ絵具の技法を学び、ベラルーシの風景画をよく描いた。

 

パリには絵描き、作家、詩人、作曲家、ダンサー、ロシア帝国からの移民などさまざまな人達が集まって賑やかだったが、シャガールは大都市の多くの誘惑にはのることはなく、毎日、数時間しか眠らず絵を描き続けた。「私のホームランドは私の魂にある」と語っている。

ロシア帝国とソビエト(1914-1922)


「誕生日」(1915年)
「誕生日」(1915年)

パリ滞在中、シャガールはヴィーツェプスクにいる婚約者のベラが自分に関心を失うのを恐れて結婚を決断する。

 

ちょうどベルリンの有名画商から個展を打診されていたので、個展でドイツへ行ったときに、近くのヴィーツェプスクに立ち寄ってそのまま結婚し、個展終了後、彼女をともなってパリに引き返す予定を立てた。

 

シャガールは40枚ものキャンバスやガッシュ水彩、ドローイングを持ち運んでドイツで個展で展示。個展はヘルヴァルト・ヴァルデンのシュトゥルムギャラリーで開催し、大成功となった。当時のドイツの批評家たちは皆シャガールを絶賛した。

 

展示後、シャガールはベラと結婚式を挙げる期間のみヴィーツェプスクに滞在する予定だったが、途中で第一次世界大戦が勃発。無期限にロシア国境線が封鎖されることになり、一年遅れてシャガールはベラと結婚し、子どもを出産。

 

結婚前、シャガールはベラの両親を説得するのに苦労した。ベラの両親は貧しい家庭の出身の画家の経済面が心配だったという。しかし、シャガールはドイツの個展で大成功して、有名画家になりかけていたので、この経済問題は解消されたという。

 

1915年、シャガールはモスクワで作品を展示。1916年にはサンクトペテルブルクで作品を展示。この頃から多くの富裕層コレクターがシャガールの作品をこぞって購入し始め、シャガールの家計は安定しはじめる。

 

また絵画だけでなく多くのイディッシュ語書籍のイラストレーション仕事も始める。有名な作品では1917年に刊行されたイツホク・レイブシュ・ペレツの『魔術師』などがある。30歳になる頃にはシャガールはロシアで有名人になっていた。

イツホク・レイブシュ・ペレツの『魔術師』
イツホク・レイブシュ・ペレツの『魔術師』

 

1917年にロシア革命はシャガールに新しい仕事をもたらした。シャガールはロシアで最も優れた芸術家の一人で前衛芸術家の一人とみなされていたため、ソ連の視覚美術人民委員の推薦を受けたが、政治的な仕事を好まなかったので、代わりにヴィーツェプスクに創立予定の美術大学「人民美術学校」で教鞭をとることにした。

 

この美術学校はシャガールだけでなく、エル・リシツキーカジミール・マレーヴィチなど当時のロシアで最も重要な芸術家たちが招集された。またシャガールは過去の自分の教師だったイェフダ・ペンを招いた。

 

シャガールは大学内に、各自が独立した芸術スタイルを持つ熱心な芸術家たちの集合的な雰囲気を作ろうとしたが失敗。マレーヴィチやリシツキーなど抽象性の高いシュープレマティスムを好む教授たちが、“ブルジョア個人主義”的としてシャガールの思想に難色を示した。その後、シャガールは学校を退職し、モスクワへ移動。

 

モスクワでシャガールは、新しく設立するユダヤ人商工会議劇場の舞台デザインの仕事に就く。1921年初頭にショーレム・アレイヘムによるさまざまな演劇を中心に劇場がオープン。シャガールはレオン・バクストに学んだ技術で舞台の巨大な背景画(縦2.7m✕横7.3m)を多数制作。

 

1918年に第一次世界大戦が終了すると飢饉が広まったため、シャガールは食料の物価高騰を避けて、モスクワ近くの小さな村へ移動。ただシャガールはモスクワで仕事をしていたため、毎日、混雑した電車に乗って通勤しなければならなかった。

 

1921年にマラホフカ郊外にあるユダヤ人少年シェルター内の芸術劇場で働く。ここはウクライナのユダヤ人迫害(ポグロム)から孤立した難民を収容する場所だった。

シュープレマティスム活動中心となった「人民美術学校」。現在はヴィーツェプスク近代美術館に名前を変えている。
シュープレマティスム活動中心となった「人民美術学校」。現在はヴィーツェプスク近代美術館に名前を変えている。
『白襟とベラ』(1917年)
『白襟とベラ』(1917年)

フランス時代(1923−1941)


1923年にシャガールはモスクワを去り、フランスに戻る。パリへ戻る途中、戦争以前、ベルリンに約10年置いたままになっている多くの絵画を引き取るためにベルリンに立ち寄るが、すべて引き取ることはできず、シャガールの初期作品の多くは紛失状態となった。しかし、シャガールはヴィーツェプスクで過ごした幼年期の記憶をもとに再び絵画制作を始める。

 

シャガールはフランスの画商アンブロワーズ・ヴォラールと契約を結び、ニコライ・ゴーゴリの小説『死せる魂』や、聖書、『ラ・フォンテーヌの寓話』といった本のイラストのために銅版画制作を始める。画商からもたらされたイラストレーションの仕事は、のちにシャガールの版画の才能を開花されることになった。

 

1926年までにアメリカのニューヨークにあるラインハルトギャラリーで個展を開催。約100点の作品を展示した。美術批評家で美術史家のモーリス・レイナルが著書『近代フランス画家』でシャガールの名前を記す1927年まで、フランスのアートワールドにおいてシャガールの名前はまださほど知られていなかった。しかしながら、著書においてもレイナルは本当のところシャガールの作品について読者にどう説明すればよいか困っていたようである。

 

この時代、シャガールは旅行に夢中になる。特にフランスやコート・ダジュールを旅するのが好きで、そこで風景や豊かな植物、青い地中海、マイルドな天気を楽し、スケッチブックを持って何度も田舎に旅行をしていたという。ほかにもオランダ、スペイン、エジプトなどヨーロッパと地中海を中心にさまざまな場所を旅している。

 

●ナチスの侵攻

シャガールが『聖書』の仕事を取りかかり始めた頃、ドイツではアドルフ・ヒトラーが権力を握る。反ユダヤ法が導入され、ダッハウに最初の強制収容所が設立された。ナチスは権力を奪うとすぐに、表現主義、抽象芸術、キュビスム、シュルレアリスムといった近代美術を攻撃しはじめた。代わりに愛国的に解釈された伝統的なドイツ具象絵画がナチスに賞賛されることになった。

 

1937年からドイツ美術館に収蔵されていた約2万点の作品は「堕落させるもの」としてヨーゼフ・ゲッベルスが監督する委員会に押収されることになった。ドイツ当局はシャガールの芸術も嘲笑した。

 

ドイツ軍がフランスを占領した後、シャガールはフランスにとどまり、ヴィシー政権がフランスにいるユダヤ人をドイツの収容所に送ろうとしていたにも関わらず、何も知らないシャガールはヴィシー政権下のフランスに居残っていた。ナチス占領下でヴィシー政権が反ユダヤ法を承認しはじめると、シャガールはようやく事態を理解しはじめ、フランスに在住している自分自身が危険な状況であることがわかった。

 

イギリス軍の支援があったにも関わらずフランス軍は、ポーランド軍よりも速くナチスに降伏したことに世界は衝撃を受けた。その衝撃波大西洋を横断。パリはそれまで非ナチス諸国全体の文明と同等のものだったからだ。

 

多くのロシア系ユダヤ人は脱出を模索。これらの中には、マックス・エルンスト、シャイム・スーティン、マックス・ベックマン、ルートヴィヒ・フルダ、ヴィクトル・セルジュ、ウラジミール・ナボコフなど非ユダヤ人ではあるが、ユダヤ人女性と結婚したものも含まれた。多くの人はアメリカへの移動待ちのために一時的にフランス南部のマルセイユへ滞在していたという。

アメリカ時代(1941-1948年)


1941年にアメリカに移ってからもシャガールは『婚約者』で1939年に3回目のカーネギー賞を受賞。アメリカに入国した後、シャガールはすでに国際的な有名人になっていることを実感する。まだ英語を話すことはできなかったたためこの役目は不向きだと感じた。

 

自分と同じようにナチス・ドイツの侵略でヨーロッパから逃れてきた、著述家、画家、作曲家らと同じようにシャガールもまたニューヨークで生活を始めることになる。彼はギャラリーや美術館、モンドリアンやアンドレ・ブルトンといった知り合いのアーティストたちのもとを訪れて過ごした。

 

特にローワー・イースト・サイドに多数居住しているユダヤ人地区に訪れることを好んだ。そこで彼はユダヤ人の食事を楽しみ、ユダヤ人用の新聞を読んで過ごした。当時、シャガールはまだ英語が話せなかったので、ユダヤ人地区は重要な情報源になった。

 

ニューヨークの近代美術家らは当時、まだシャガールの芸術は理解できず好みではなかった。神秘主義的な傾向を持った古典的な物語スタイルのロシア系ユダヤ芸術に対して共通した理解はほとんどなかった。

 

しかしながら、アンリ・マティスの息子でニューヨークで画商をしていたピエール・マティスが、シャガールの芸術を賞賛し、ニューヨークやシカゴでのシャガールの個展のマネジメントを始め、1910年から1941年にかけるマスターピース21点を含む個展を開催。

メキシコでバレエの舞台デザイン


シャガールは、ニューヨーク・バレー・シアターの振付師レオニード・マシーンから依頼を受け、彼の新しいバレエ「アレコ」のために、舞台や衣装の制作を行う。このバレエはアレクサンドル・プーシキンの詩「ジプシー」とチャイコフスキーが音楽を基盤にしたものだった。シ

 

ャガールはロシアにいる以前から舞台デザインをしていたが、これが初めてのバレエの仕事となり、メキシコを訪問する機会となった。メキシコで土着の芸術に出会うと、シャガールはすぐにメキシコ芸術を賞賛し「メキシコ的なプリミティブ性とカラフルな芸術」と感動し、また「自分自身の性質と非常に密接した何か」を感じたという。

 

結局にシャガールは4つの大きな背景を制作し、またデザインしたバレエの衣装をメキシコ人の裁縫師が縫うことになった。

 

この舞台は大成功し、訪れた聴衆の中にはディエゴ・リベラやホセ・オロスコといった著名な壁画画家もいた。バアル・テシュワによれば、音楽の最後の小節が終わったとき、シャガールが何度も何度もステージに呼び戻されて、盛大な拍車と19回のカーテンコールが起こったという。

 

4週間後にこのバレエはニューヨークのメトロポリタン・オペラで開かれることになり、同じような騒ぎになる「再びシャガールは夜の英雄になった」と美術批評家のエドウィン・デビナーは、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙で批評を行った。

ユダヤ人の虐殺とベラの死


1943年にニューヨークに戻ったあと、シャガールはキリストの「磔刑」や戦争を主題とした絵を描き始める。シャガールはニューヨークで自分の故郷であるヴィーツェプスクがドイツ人に破壊され、ユダヤ人が悲惨な状況であることを知る。ユダヤ人の強制収容所の存在も知った。

 

1944年9月2日、ベラがウイルス感染が急死。戦時中で薬が不足して治療が遅れたのが原因だった。気落ちしたシャガールは数ヶ月間制作を停止する。絵を再開するとシャガールはベラの記憶を留める絵画を描き始めた。

 

1945年にナチスの強制収容所で進行していたホロコーストの報道を聞いて、ベラは数百万のユダヤ人犠牲者とともにシャガールの心の中にとどまることになった。ヨーロッパからの亡命がベラの死へ帰結した可能性があるとみなした。

 

娘のイーダと娘婿のミシェル・ゴルディと一年間過ごしたあと、シャガールは外交官の娘で、ヘンリー・ライダー・ハガードの姪であるヴァージニア・ハガードと出会い、新しい恋が始まる。彼らの関係は7年続いた。1946年6月22日に二人の間にデイビット・マクニールが生まれた。ハガードは彼女の著書「シャガールと私の人生」で、シャガールとの7年の恋愛を綴っている。

 

同盟国がナチスの占領地からパリを解放するのに成功して数ヶ月後に、シャガールは「パリの芸術家へ」という手紙を連合軍の援助のもと出版した。

 

1946年までにシャガールの作品はアメリカ中で有名になり始めた。ニューヨーク近代美術館は40年に渡るシャガールの作品を集めた回顧展を開催。戦争が終わるとシャガールはパリへ戻る準備を始めた。コニーニャによれば「シャガールは、自身がパリの雰囲気だけでなく、街自体、建物や風景そのものが深く結びついていると気づいた」という。1947年の秋にパリへ戻ると、シャガールはまずパリ国立近代美術館での展示のオープニングに参加した。

ヴァージニア・ハガードとシャガール
ヴァージニア・ハガードとシャガール

戦後パリへ戻る


フランスに戻るとシャガールはヨーロッパ旅行に出かけ、当時、芸術家たちが集まっていたフランス南部のコート・ダジュールに住むことに決める。マティスはニースから西へ約7マイル離れたあるサン・ポール・デ・ヴェニスに住んでおり、ピカソはヴァロリスに住んでいた。彼らは近くに住んでいたので、ときどき一緒に制作を行った。

 

しかし、彼らとははっきりと画風が異なっていたので芸術的なライバル心が強く、関係は長続きすることはなかった。ピカソの愛人であるフランソワーズ・ジローによれば、ピカソはまだシャガールに経緯を払っていた。ピカソはシャガールについてこのように話している。

 

「マティスが死んだあと、シャガールのみが色が何であるかを理解している最後の絵描きだった。シャガールにあった光の感覚はルノワール以来誰も持っていなかった。」

 

1952年4月に、ヴァージニア・ハガードはシャガールのもとを去り、写真家のチャールズ・ローレンのもとへ行った。彼女はプロの写真家になりたかったという。

 

シャガールの娘のイーダは1952年に美術史家のフランツ・メイヤーと結婚。イーダは恋人がいなくなった父に同じロシア系ユダヤ人を背景に持ち、ロンドンでビジネスで成功していた女性ヴァレンタイン・ブロドスキー(バーバ)を紹介した。1952年に2人は結婚。しかし6年語、イーダとバーバの間で喧嘩が発生。マルクとバーバは離婚するが、すぐにバーバにとって有利な条件で再婚した。

 

その後、シャガールは絵画制作はやめて彫刻や、セラミック、壁タイル、塗装花瓶、ジャグ、プレートといった作品を制作し始めた。ほかに大規模な壁画、ステンドグラス・ウインドウ、モザイク、タペストリーを制作している。

バーバとシャガール
バーバとシャガール

70代でパリ・オペラの天井画制作


1963年、シャガールは壮大な19世紀の建築と国の記念碑でもあるパリ・オペラの新しい天井画制作の依頼を受ける。フランスの文化大臣であったアンドレ・マルトーは、シャガールこそ理想的な芸術家であり何かユニークな作品を制作してくれるだろうと考えていた。

 

しかしこの人選は論議を引き起こした。ロシア系ユダヤ人にフランス国民の記念碑の装飾に反対する人々が現れたためだ。また近代美術家によって描かれた歴史的建造物の天井画が嫌いな人もいた。

 

それにも関わらずシャガールは77歳でこのプロジェクトを遂行し続けた。キャンバスに描かかれたイメージは、作曲家のモーツアルト、ワーグナー、ムソルグスキー、ベルリオーズ、ラヴェルをはじめほかに著名な俳優やダンサーに敬意を表したものであった。

 

1964年9月23日に天井画は一般公開され、「ニューヨーク・タイムズ」紙のパリ特派員は「一番良い関は一番上のサークル」と書いた。

シャガールが担当したパリ・オペラの天井画。
シャガールが担当したパリ・オペラの天井画。

シャガールの死


シャガールは1985年3月28日にフランスで死去。2年前にジョアン・ミロが亡くなり、最後に生き残ったのモダニストの巨匠だった。

 

シャガールはまずロシア革命への大きな期待と失望を経験し、ユダヤ人の歴史における「薄い定住時代」の最後を目撃した。ヨーロッパにおけるユダヤ人の消滅、そしてシャガールの故郷であるヴィーツェプスクの消滅である。第二次世界大戦後にヴィーツェプスクのユダヤ人は、24万人からたった118人になった。

 

シャガールの最後の作品はシカゴ・リハビリテーション・インスティチュートから依頼を受けた作品だった。「ジョブ」と名付けられたマケット・ペインティングを完成させたが、タペストリーが完成する直前に亡くなった。

 

ヤヴェット・カウキル・ピアスは、シャガールの監督のもとタペストリーを織り、シャガールと仕事をした最後の人物だった。彼女は3月28日の午後4時に、バーバとシャガールのもとを去り、その夜にシャガールは亡くなった。

 

シャガールは、フランスのプロヴァンス地方にある伝統的な町サン・ポール・デ・ヴァンスの多民族墓地に、最後の妻のヴァンレンティナ(バーバー)とともに埋葬されている。


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