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【美術解説】エゴン・シーレ「オーストリア表現主義の代表格」

エゴン・シーレ / Egon Schiele

オーストリア表現主義の代表格


『ホオズキと自画像』(1912年)
『ホオズキと自画像』(1912年)

エゴン・シーレは、20世紀初頭の絵画界に大きな影響を与えた人物で、クリムトの弟子でもある。極端にねじれた体型や表情豊かな線など、彼の特徴的なスタイルを鮮やかに表現した自画像は、美術史上高く評価されています。また、彼の作品は、"ジョジョの奇妙な冒険 "の作者をはじめ、多くのアーティストに大きな影響を与えています。今回は、エゴン・シーレの生涯と作品について、より深く書いていこうと思います。このユニークな芸術家について、もっと知りたくなりましたか?もしそうなら、ぜひ読んでみてください。

目次


概要


生年月日 1890年6月12日
死没月日 1918年10月31日
国籍 オーストリア
表現媒体 絵画、ドローイング、版画
ムーブメント 表現主義ウィーン分離派耽美主義
関連人物 グスタフ・クリムトオスカー・ココシュカ

エゴン・レオ・アドルフ・シーレ(1890年6月12日-1918年10月31日)はオーストリアの画家。表現主義の画家。クリムトの弟子であり、20世紀初頭のポートレイト絵画で最も影響力のある人物。

 

シーレの作品は、その強烈な個性と生々しい官能的な表現が特徴、またナルシスティックなセルフ・ポートレイト作品で知られる。

 

一部の批評家は、シーレの作品をグロテスク、エロティック、ポルノ的、あるいは性、死、発見に焦点を当てた不穏なものであると評している。

 

しかし、シーレをセクシュアリティやジェンダー解放運動の先駆的な芸術家と評価するものも多い。シーレは、ジェンダーへの役割の変化、初期のフェミニズム運動、同性愛の不法といった保守的な時期に、自らの性的感情やジェンダー規範と闘っていた。21世紀には、シーレの作品をクィアとして読む批評家もいる。

 

極端にねじれた身体造形と表現主義的な線がシーレの持ち味であり、美術史では初期表現主義の美術家として位置づけられている。日本では『ジョジョの奇妙な冒険』の作者、荒木飛呂彦に大きな影響を与えている。

重要ポイント

  • オーストリアを代表する表現主義の画家
  • 官能的でナルシスティックな肖像画が多い
  • 極端にねじれた身体造形は「ジョジョ立ち」に影響を与えている

作品解説

《ホオズキと自画像》
《ホオズキと自画像》
《死と乙女》
《死と乙女》
《ウォーリーの肖像》
《ウォーリーの肖像》
《エディスの肖像》
《エディスの肖像》

《縞模様のドレスを着たエディス》
《縞模様のドレスを着たエディス》
《家族》
《家族》
《膝を曲げて座る女》
《膝を曲げて座る女》
《ひまわり》
《ひまわり》

略歴


若齢期


エゴン・シーレは1890年にオーストリアのニーダーエスターライヒ州トゥルンで生まれた。

 

オーストリア国鉄トゥルン駅の駅長だった父アドルフ・シーレは、1851年にウィーンでバレンシュテット出身のドイツ人カール・ルドウィッグ・シーレとアロイシア・シマックとの間に生まれた。

 

エゴン・シーレの母マリー、旧姓スークップは、1861年にチェコのミルコヴィツェ出身の父フランツ・スークップと、チェスキー・クルムロフ出身のドイツ系ボヘミア人の母アロイジア・ポフェールの間にチェスキー・クルムロフ(クルマウ)で生まれた。

 

子どものときシーレは列車に夢中で、何時間もかけて列車を描き、絵に対する入れ込みに心配した父親がスケッチブックを破り捨てるほどだったという。

 

11歳のときシーレはクレムス近郊の町へ移り、中学校に入学する。学内や周囲からシーレは風変わりな人間だとみなされたいた。恥ずかしがりやで無口だったシーレは、体育と美術をのぞいてはいつも成績が悪く、低学年の生徒たちと授業をすることもあった。

 

シーレは中学生ぐらいから、妹のゲルティと近親相姦的にあったとされ、実際に妹のヌードデッサンを多数残している。

 

シーレと妹の怪しげな雰囲気に気づいた父は、一度シーレと妹がいる鍵のかけられた部屋を打ち破って入り、彼らが何をしているのか確かめたことがあるという(そのときは二人で映画制作をしていただけだったという)。

 

また、シーレは16歳のときに、親の許可も得ずに12歳の妹と電車でイタリアのトリエステにでかけホテルで一泊したことがあった。

16歳のシーレ、1906年の自画像
16歳のシーレ、1906年の自画像

美術大学時代


14歳のときに父が梅毒で亡くなると、鉄道員だった母方の伯父レオポルド・キャザチャックがシーレの後見人となる。

 

伯父はシーレに跡を継いでもらうため大学への進学を希望していたが、シーレが大学にまったく関心がないことに悩む。結局、シーレの絵描きとしての才能を認めることにして、画家のルートヴィヒ・カール・ストラウスを家庭教師としてつけることにした。

 

1906年にシーレは、かつてグスタフ・クリムトも学んだウィーンの美術工芸学校に入学するが、初年度にして複数の教員の推薦によって、より伝統的なウィーン美術工芸アカデミーへ編入することになる。

 

アカデミーでの主な教師はクリスチャン・グリーペンケルであった。しかし、グリーペンカールは非常に厳格で保守的なスタイルだっためシーレと相性が悪く、学びはじめて3年ほどでシーレは退学する。

『Der Schmiedehof』(1905年)
『Der Schmiedehof』(1905年)

クリムトとウィーン分離派との出会い


「アーサー・ロエスラーの肖像」(1910年)
「アーサー・ロエスラーの肖像」(1910年)

1907年、シーレは若者に対して寛大だったスタフ・クリムトのもとへ弟子入りする。

 

クリムトもシーレに対して一目置いており、シーレの作品を購入したり、自身の作品と交換したり、見込みのありそうなパトロンを紹介してあげていた。貧しいシーレがモデルを雇う代金を立て替えてやることもあった。

 

またシーレをウィーン分離派とつながりのあった美術工芸工房「ウィーン工房」へ紹介する。

 

1907年から1909年にかけてのシーレの初期の作品には、クリムトの作品と強い類似性があり、またアール・ヌーヴォーの影響も見られる。

 

1908年にクリムトの協力でクロスターノイブルクで最初の個展を開催した後、シーレは1909年にアカデミーを退学する。

 

アカデミーに対して不満を持っていた生徒たちとともに芸術集団「ノイ・クンスト・グルッペ」を設立する。

 

シーレは、クリムトやココシュカの影響を強く受けていたので初期の作品には、特にクリムトやココシュカの模倣が目立つ。しかし、すぐに独自のスタイルを確立した。

 

クリムトはシーレを1909年に開催したウィーン分離派展へ招待し、作品を数点出品した。この展示会は、エドヴァルド・ムンク、ヤン・トーロップ、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホらフランス印象派の作家たちを多数紹介したもので、シーレはこれらから多大な影響を受ける。

 

アカデミー時代の表現の制約から自由になったシーレは、積極的に人型だけでなく性表現の探求、またフランス印象派の影響のもと表現主義の方向へスタイルを移し始めた。この頃からシーレは多くのグループ展に参加するようになる。

 

シーレの作品はもともと斬新だったが、クリムトの装飾技術と表現主義的な歪みの表現を取り入れることで、さらに大胆で前衛的になった。

 

1910年のシーレのセルフ・ポートレイト作品『手を挙げながらひざまづく裸体』は、その独特な感情や性的な正直さ、従来の美の理想に代わる具象的な歪みの使用によって、両ジャンルのエネルギーの再確立に貢献した。

エゴン・シーレ《マックス・オッペンハイマー》,1910年
エゴン・シーレ《マックス・オッペンハイマー》,1910年
『トリエステ港』(1907年)
『トリエステ港』(1907年)

シーレは、また裸の人間の姿に対する過激で発展的なアプローチで、学者と進歩的な人々の両方に挑戦した。

 

この型破りな作品とスタイルは、厳格なアカデミズムに反し、その歪んだ線と具象表現の激しい表示で性的騒動を引き起こした。当時、彼の作品の性的な露骨さに対して不愉快に思う人も多かった。

 

1910年プラハ、1912年ブダペストのノイクンストグルッペ、1912年ケルンのゾンダーブント、1911年からミュンヘンの分離派展など、多くのグループ展に参加するようになる。

田舎でスキャンダルを起こす


1911年、シーレは17歳の少女ヴァルブルガ・ヌージル(ウォーリー)と出会い、ウィーンで同棲し始める。

 

彼女はシーレの絵画のモデルとして知られているが、彼女の生い立ちについてはよくわかっていない。もともとはクリムトのモデルで愛人の1人だったと考えられている。

 

シーレとヴァリは、狭苦しく喧騒的なウィーンから離れ、シーレの母の故郷であり現在はシーレ美術館のある南ボヘミアのチェスキー・クルムロフへ移る。

 

この町はシーレの家族とつながりが深い町で保守的な田舎であったにもかかわらず、シーレは町のティーンエイジャーたちに声をかけ、法的に問題のあるヌードモデルの仕事をもちかける。

 

それが原因で住民から強い反発を買い、追い出されることになる。シーレの作品は次第に複雑さを増し、やがて死や再生といったテーマを扱うようになる。

 

二人はウィーンにいったん戻り、芸術制作に心地よい環境を求めて、ウィーンから西へ35キロ離れた場所にあるノイレングバハの町へ移る。

 

しかし、たちまちシーレのアトリエはノイレングバハの不良少女や娼婦のたまり場となり、またもやシーレは町の住民から反発を買う。

 

1912年4月、シーレは未成年少女への誘惑や淫行の疑いで逮捕される。シーレのアトリエに家宅捜索に入った警察官は、数百点もの猥褻画を押収。

 

裁判の結果、未成年の誘惑と拉致、および未成年がアクセスしやすい場所に猥褻画を陳列したという罪状で有罪判決となる。

 

24日間の拘留と3日間の禁錮刑の判決を受け、シーレは投獄されることになった。法定で裁判官はろうそくでシーレのポルノ絵画を1枚燃やしたという。

エゴン・シーレ《ノイレングバッハ刑務所の天井》,1912年
エゴン・シーレ《ノイレングバッハ刑務所の天井》,1912年

ウィーン郊外に戻り結婚


1914年、シーレはウィーン郊外のヒーツィング地区(ヒーツィンガー・ハウプト通り101番地)にアトリエを持つ。

 

アトリエの向かい側に両親と居住していたハルムス家のエディットとアデーレ姉妹に興味を持つ。彼女たちは中産階級のプロテスタントの家庭で、父親は鍵屋の職人だった。

 

1915年、シーレは社会的な信用を得るため中産階級の令嬢エディットとの結婚に踏み切るが、一方でウォーリーとは離れることはなく愛人関係は続いたままだった。

 

シーレはウォーリーにエディットと結婚の理由の説明をするものの、ショックを受けたウォーリーは、そんな結婚を受け入れるわけなくシーレのもとをすぐに去る。以後二度と会うことはなかったという。

 

シーレはこの時の経験を絵画として描いている。1919年制作の『死と処女』はウォーリーの肖像画を基盤にしているが、シーレの姿は新しい衝撃、つまりエディットの衝撃に撃たれたものとなっている。

 

1915年2月、シーレは友人のアルトゥール・ロイスラーに宛てて、次のようなメモを書いた。「私はメリットのある結婚をするつもりだ、ウォーリーではない」。

 

ハルムス家の反対があったにもかかわらず、シーレとエディットは1915年6月17日に結婚、その日はシーレの両親の結婚記念日でもあった。

エゴン・シーレ《死と処女》,1915年
エゴン・シーレ《死と処女》,1915年
エゴン・シーレ《エディス・シーレ》,1915年
エゴン・シーレ《エディス・シーレ》,1915年
エゴン・シーレ《自画像》,1915年
エゴン・シーレ《自画像》,1915年

戦時中


第一次世界大戦の勃発はシーレの人生や作品に変化を与えた始めた。シーレは1年近く徴兵を免れていたが、第一次世界大戦は彼の人生と作品に影響を与え始めた。

 

結婚してから3日後、シーレはオーストリア=ハンガリー帝国軍に召集された。最初プラハに駐留して軍隊の業務報告書を作成する役割を与えられた。

 

後にシーレが芸術家だと分かると、エディスはシーレとともにプラハの町のホテルに呼ばれて泊まり、シーレ自身は同僚の兵士たちと宿舎に住むことになった。二人は指揮官からときどきお会うことを許された。

 

戦時中、シーレの絵画はより大きく、より詳細に描かれるようになった。しかし、軍務のため時間が限られ、風景や軍人を描いた線描画が多くなった。

 

シーレはおもに後方のプラハで捕虜収容所の看守を務めつつ、戦争という経験の中でスケッチや作品の構想を続けることができた。

 

この頃、シーレは母性や家族をテーマにした実験も始めていた。女性像の多くは妻エディスがモデルであったが、戦時中は(事情により)男性像が多く描かれた。1915年以降、シーレの女性ヌードは体型が豊かになったが、多くは生気のない人形のような姿で意図的に描かれた。

 

兵役中にもかかわらず、シーレはベルリンで展覧会を開いていた。また、チューリッヒ、プラハ、ドレスデンでも展覧会を開き、成功を収めた。最初の仕事は、ロシア人捕虜の警護と護送だった。

 

シーレは心臓が弱く、字が上手だったため、やがてミューリングという町の近くにある捕虜収容所で事務員として働くことになった。

 

指揮官のカール・モーザーは、シーレを画家や装飾家だと思い込んでいたため、使われなくなった倉庫をアトリエとして提供した。シーレは収容所の食糧庫を管理していたため、エディスと一緒に配給以上の食糧を手にしていた。

晩年


 1917年に首都ウィーンに転属すると作品制作を再開できるようにもなり、暖めていたアイディアの製作に打ち込んだ。

 

1917年にシーレはウィーンに戻り、芸術活動に再び専念することになる。非常に多作な時期で、芸術家として成熟期に入り始めた。

 

1918年にウィーンで開催された分離派の49回目の展示に招待され、シーレは50もの作品をメインホールで展示した。

 

また『最後の晩餐』のキリストの位置をシーレ自身に置き換えた展示会のポスターのデザインも行った。展示会は成功をおさめ、この展示会をきっかけにシーレの評判は大きく上昇し、絵の価格があがり、多くのポートレイト絵画が売れるようになった。

 

1918年秋、妻エディットが大戦前後に流行していたスペインかぜに罹り、シーレの子供を宿したまま、10月28日に死去。シーレも同じ病に倒れ、妻の家族に看護されたが、10月31日に亡くなった。二人の死までの3日間、シーレはエディットのスケッチを数枚描いている

エゴン・シーレ《ヌード》,1917年
エゴン・シーレ《ヌード》,1917年
「第49回分離派展示会」(1918年)
「第49回分離派展示会」(1918年)

作品の所蔵


レオポルド美術館


ウィーンのレオポルド美術館は、おそらくシーレの最も重要な作品を200点以上の作品を展示している。この美術館は2011年にサザビーズでそのうちのひとつである《Houses With Colorful Laundry (Suburb II)》を4010万ドルで売却した。

 

シーレの作品を収蔵する他の有名な美術館としては、トゥルンのエゴン・シーレ美術館、ウィーンのエスタライヒ・ギャラリー、アルベルティーナ・グラフィックコレクションがある。

ナチスに収奪された作品


エゴン・シーレ作品は、1933年のドイツ、1938年のオーストリア、1940年のフランスのナチス占領下で、多くのユダヤ人美術コレクターからコレクションを略奪されている

 

そのため、21世紀に入ってからも、シーレの作品が返還されるケースは少なくない

 

エゴン・シーレの《死都》、《黒いピノフォアの女》(1911年)、《顔を隠す女》(1912年)は、ユダヤ人キャバレー・アーティストで映画スターのフリッツ・グリュンバウムが、ダッハウ強制収容所に収容される前に所有していた作品である。

 

《クルマ》 (1916)は、1942年にナチスに接収されるまで、デイジー・ヘルマンが所有していたものである。彼女は1948年に初めて返還請求を行ったが、彼女の相続人がシーレを取り戻せたのは2002年であった。

 

オーストリアのナチス略奪組織であるヴゲスタは、1942年2月24日から27日にかけてウィーンのドロテウムでクルマを競売にかけており、サンク・ルーカス画廊がヴォルフガング・グルリットに代わってこれを購入したのである。

 

1917年に描かれたエゴン・シーレの《芸術家の妻の肖像》は、ウィーンのユダヤ人実業家でアウシュビッツで殺害されたカール・マイレンダーが所有していたもの。ロバート・リーマンの息子であるロバート・"ロビン"・オーウェン・リーマンは、1964年にロンドンのマールボロ・ギャラリーから《芸術家の妻の肖像》(1917年)を購入した。

エゴン・シーレ《ウォーリーの肖像画》,1912年
エゴン・シーレ《ウォーリーの肖像画》,1912年

《ウォーリーの肖像》は1954年にルドルフ・レオポルドが入手し、オーストリア政府がレオポルドが所有していた5000点を購入して設立したレオポルド美術館の所蔵品となった。

 

1997年から1998年にかけてニューヨーク近代美術館で開催されたシーレの展覧会の終了間際、ニューヨークタイムズに掲載された記事で《ウォーリーの肖像》の来歴が明らかにされた。

 

その後、戦前の所有者であるレア・ボンディ・ジャライの相続人がニューヨーク郡地方検事に連絡し、オーストリアへの返還を禁じる召喚状が出された。

 

ボンダイの相続人たちは、この絵はナチスの略奪品であり、自分たちに返還されるべきだとして、何年も訴訟が続いた。

 

2010年7月、レオポルド美術館はボンディの相続人に1900万ドルを支払うことで合意し、絵画に関するすべての未解決の請求に対処することになった。



■参考文献

Egon Schiele - Wikipedia :

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