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【美術解説】エドヴァルド・ムンク「ノルウェーを代表する表現主義」

エドヴァルド・ムンク / Edvard Munch

表現主義に影響を与えた象徴主義の巨匠


エドヴァルド・ムンク《叫び》(1893年)
エドヴァルド・ムンク《叫び》(1893年)

ノルウェーの著名な画家であり版画家であるエドヴァルド・ムンクの生涯と作品について知りたいと思いませんか?代表作の『叫び』から、他の多くの著名な芸術家に与えた強い影響まで、この記事ではムンクと彼の素晴らしい芸術作品について詳しく解説します。具体的には、彼の芸術スタイル、彼の遺産と影響を与えた人物、彼が時代とともにどのように進化したか、そしてシュルレアリスム、フォーヴィスム、ドイツ表現主義、その他の芸術スタイルが彼の作品にどのような影響を与えたかについて説明します。ムンクの生涯と作品を探ることで、ムンクについて学び始めましょう。

目次

概要


生年月日 1863年12月12日
死没月日 1944年1月23日
国籍 ノルウェー
表現形式 絵画、版画
ムーブメント 象徴主義、表現主義
代表作品

叫び

マドンナ

病気の子ども

関連人物

フィンセント・ファン・ゴッホ

関連サイト

WikiArt(作品)

The Art Story(略歴)

エドヴァルド・ムンク(1863年12月12日-1944年1月23日)はノルウェーの画家、版画家。代表作は1893年に制作した《叫び》。ムンクはノルウェー国内だけでなく、フランスやドイツなど国際的に活動した。

 

ムンクは、自身の慢性的な精神疾患、遺伝的欠陥、性的自由、宗教的理想など、人間性や死に対してして多大な関心を持っていた芸術家で、こうした主題を強烈な色彩や半抽象的なフォルムで、女性のヌードやセルフポートレイトを描いた。

 

また、内面を表現するのにもっとも説得力のあるポーズを探求した結果、頭を両手で抱えたり、どこか演劇のステージ上に立つ役者たちのようなオーバーアクションで描かれる点がほかの作家と大きく異なる。《叫び》における頬を両手に当てたポーズは、のちに映画『ホーム・アローン』などでも使われており、その後のポップ・カルチャーへの影響も大きい。

 

ポール・ゴーギャン後期印象派からの影響が強く、美術史のなかでは後期印象派時代の象徴主義表現主義の作家として位置づけられている。

 

ムンクの内面不安の表現は、のちにシュルレアリスムフォーヴィスムドイツ表現主義など、その後の新しい世代の表現主義作家に大きな影響を与えた。ノルウェー国内においては最初の象徴主義の作家とされている。

重要ポイント

  • ノルウェー象徴主義または表現主義の作家
  • 内面における不安を表現している
  • 人物は演劇的なポーズで描かれることが多い

作品解説


略歴

幼少期


エドヴァルド・ムンクは、1863年12月12日、スウェーデン=ノルウェー連合王国時代のロッテンにあるアダルバスクの村の農家で、牧師の息子であった父クリスチャン・ムンクと母ローラ・キャサリン・ビョルスタのあいだに生まれた。

 

父クリスチャンは医者で、1861年に彼の半分ほどの年齢だったローラと結婚した。エドヴァルドには姉ヨハンナ・ソフィーと3人の弟と妹がいた。エドヴァルドと姉のヨハンナは母親から芸術的才能を受け継いでいるように見えた。先祖には画家のヤコブ・ムンクや美術史家のピーター・アンドレアス・ムンクがいた。

 

ムンク一家は1864年に、父クリスチャンがアーケシュフース城で医療官として勤めることになったため、クリチャニア(現在のオスロ)へ移ることになった。

 

母ローラは1868年に結核で亡くなり、1877年には姉のヨハンナも結核で亡くなった。特に姉のヨハンナの死は幼少のエドヴァルドにとってトラウマとなり、病床の光景が繰り返して作品に現れるようになる。病死前の姉の姿を基盤にして制作した作品で代表的なのが《病気の子ども》である。母が死んで数ヶ月後、ムンクの兄弟は父親や叔母(母の妹)のカレン・ビョルスタに育てられることになった。

 

ムンクは病弱で、冬期の大半は慢性気管支炎を患うなど、学校を休みがちだったため、ムンクは叔母や家庭教師から教育を受けることになる。ムンクの父はムンクに歴史や文学を教え、またエドガー・アラン・ポーの怪奇小説を読ませていたという。

 

父クリスチャンの信心深い性格は、ムンクや子どもたちに病的な悲観主義の影を投げかける要因となった。子どもたちを叱るときは異常なほど厳しかった。ムンクは、父の狂信的な考えに反発して口論した日の夜、父の寝室を覗き、父がベッドの前にひざまずいて祈っているのを目撃し、衝撃を受けたことを後に回想している。 

 

ムンクは父について「父は神経質で異常なほど宗教的だった。私は父から狂気の遺伝子を受けついだのだろう。恐怖、悲しみ、死の天使は私が生まれたときから身近なものだった。」と話している。父は、死んだ母親が天国から私たちを監視し、不正行為があると嘆いていると伝え厳しく叱ったという。

 

この非常に抑圧的な宗教的環境に加えて、病弱だったムンクの心身問題、母親と姉の死、そして幼少期から植え付けられたポーの怪奇小説などは、のちのムンクの悪夢や不気味なビジョンを形成する基盤となった。ムンクは「死が常に身近なもの」であると感じていたのはこのためである。

 

また、ムンクの妹のローラは若いころから精神疾患と診断された。5人兄弟で結婚したのは弟のアンドレアのみだったが、結婚後すぐに亡くなった。

 

父クリスチャンが軍医のころの給料はとても安く、家族は非常に貧しかったという。ムンクの初期のドローイングは水彩作品では、貧しかった幼少時の部屋の室内が描かれている。10代の頃のムンクは芸術への関心で心が占有されていた。

 

13歳のときにムンクは新しく設立された芸術家連盟でほかの芸術家たちと引き合わされることになり、そこでムンクは評価されるようになった。その後、ムンクは油彩を始めるようになった。

初期キャリア


1879年にムンクは機械技術師を学ぶため工科大学に入学し、そこで物理学、数学、化学を学ぶ。建築設計のために透視図を使ったドローイングも学んでいた。

 

しかし、病気がちだったので学業を中断する。結局のところ父の期待をよそにムンクは学校をやめて画家になる決心をする。結果的に病弱なムンクは技術者としては仕事を続けられなかった。ムンクの父は芸術を「罪深い商売」としてみなしていたが、父親の宗教に対する熱狂的な信仰とは対照的に、ムンクは芸術を通じて人生や意味を問おうとしていた。

 

1881年にムンクは、クリスタニア美術デザイン王立大学(現・オスロ国立芸術大学)に入学する。この大学の創始者の一人はムンクの遠い親戚であるヤコブ・ムンクで、ムンクの先生となったのは彫刻職人のユーリウス・ミッデルトゥーンや自然主義画家のクリスチャン・クローグだった。

 

ムンクは大学で人物造形画をすぐにマスターし、1883年に初めて公に作品を展示するようになり、またほかの生徒とアトリエを共有して、絵画を制作しはじめる。

 

このころの代表作としては、1895年に100×190 cmの縦長キャンバスで描かれた《画家カール・ジェンセン・ヘルの肖像》がある。ムンクは自然主義、印象主義などさまざまな画風を試みた。マネの影響が色濃く作品に見られるものも多い。

エドヴァルド・ムンク《画家カール・ジェンセン・ヘルの肖像》(1895年)
エドヴァルド・ムンク《画家カール・ジェンセン・ヘルの肖像》(1895年)

ボヘミアン・グループとの交流


この時代のムンクのヌード画はスケッチのみが残っている。絵画に関してはおそらく父親が没収したと考えられる。

 

しかし、父親はムンクの作品に対して否定的だった。ムンクのいとこの画家で伝統的な絵画スタイルだったエドヴァルド・ディリクスの批判的な意見に振り回されていたこともあったが、父親は少なくとも1枚はムンク絵画を破壊しており、画材費などムンクの芸術生活を支援することに消極的になった。

 

ムンクはアナーキスト作家ハンス・イエーガーと知り合う。彼は自由への究極の方法として自殺をすすめていた。イエ―ガ―は、自由な愛を説き、一夫一婦制や女性の支配、家族というものに反対し、社会主義や無政府主義への傾斜をはらんでいた。この頃からムンクはボヘミアン・カルチャーやハンス・イエーガーの思想の影響を受けるようになる。

 

ムンクはハンス・イエーガーの前衛集団「クリスチャニア・ボヘミアン」に参加する。グループの中心人物は、画家クリスチャン・クローグや、作家ハンス・イエーガーだった。このアナーキスト作家との関係も父親の怒りを買った。ムンクに魂で絵を描き芸術的慣習に反抗するよう促したのはイエーガーだったからだ。

 

ムンクは「自分の思想の発展は、ハンス・イエーガーとボヘミアン・カルチャーが根っこにある。多くの人は私の思想は、小説家のヨハン・アウグスト・ストリンドベリやドイツの影響にあると指摘するが、それは間違っている」と話している。

 

当時、ほかの多くのボヘミアンと対照的に、ムンクはボヘミアンではあるがボヘミアン仲間とは孤立し、サークルでは酒を飲んで喧嘩をしていた。ボヘミアンの連中について「絵についてのきりのない長話で人を苛つかせること以外に丸一日何もしやしない」、「反吐の出そうな馬鹿者」だと罵っている。 

 

またこのころ、ムンクは1885年から数年間、人妻ミリー・タウロヴとの禁じられた恋愛に陥り、苦しい思いをしていた。ムンクは1884年に遠縁のいとこの画家フリッツ・タウロヴの野外美術学校に参加する。フリッツ・タウロヴの弟カール・タウロヴの妻がミリー・タウロヴだった。

エドヴァルド・ムンク《ハンス・イェーゲルの肖像》(1889年)
エドヴァルド・ムンク《ハンス・イェーゲルの肖像》(1889年)
ミリー・タウロヴ
ミリー・タウロヴ

伝統的な表層絵画から内面的表現へ


さまざまな制作実験をした後、ムンクは印象派では十分に自分が描きたいものがかけないと理解する。印象派は非常に表層的で科学的実験のようなものだとムンクは感じた。ムンクは内面的なものや表現によるエネルギーのようなものを深く探求していきたかった。

 

1886年に制作したムンクの姉の死を基盤にした絵画《病気の子ども》は、ムンクの最初の「魂の絵画」であり、印象主義からのブレークスルー的な作品となった。しかし、この作品は批評家から「未完成作品だ」など酷評を受け、ムンクの家族からも非難され、家族やコミュニティから疎遠になる原因ともなった。

 

1889年5月9日から、カール・ヨハン通りの学生協会の小ホールでムンクは彼の全作品(110点)を展示する個展を開催。「病気の子ども」の批判に反発して自然主義を基調に描いた「春」が好評になった。伝統的な技術と流れる品性に裏打ちされた、この時期の傑作のひとつとされる。なお、当時のノルウェーでは、芸術家の個展というものが開催されること自体が初めての試みだった。

 

個展が好評だったことや、遠縁の画家、クリスチャニア・ボヘームの仲間でもあったフリッツ・タウロヴの好意的援助も得てフランスの画家レオン・ボナットのもとで学ぶため、国から2年の奨学金が授与されることになる。

エドヴァルド・ムンク《病気の子ども》(1885-1886年)
エドヴァルド・ムンク《病気の子ども》(1885-1886年)
エドヴァルド・ムンク《春》(1889年)
エドヴァルド・ムンク《春》(1889年)

パリへ


1889年にパリ万国博覧会に参加するため、ムンクはパリへ移り、2人の知り合いのノルウェー人芸術家と部屋を共有する。ノルウェー・パビリオンに1884年のムンクの絵画《朝》が出品されることになった。

 

パリ滞在中、ムンクはボナのアトリエで午前中を過ごし、午後から展示会場やギャラリー、美術館などをまわって過ごした。ムンクはボナのドローイングの授業には少し不満があり、「非常に退屈で麻痺してしまう。しかし美術館をまわっているときの巨匠の解説は面白かった」と話している。

 

ムンクは、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホ、アンリ・デ・トゥールーズ・ロートレックなどのヨーロッパの近代美術に影響力のある3人の巨匠の作品の展示に魅了される。

 

特に彼ら巨匠が自らの感情を伝えるためにどのように色彩を用いていたか気になり、なかでもゴーギャンの「現実主義に対する反発」という思想に影響される。ムンクはゴーギャンやゴッホの後期印象派の影響を受け、外部の現実ではなくむしろ内面を状態を描いていて象徴主義的な方向へ向かっていった。 

 

ゴーギャンの影響もあって、ムンクは自身の作品の版画制作を始めるようになる。1896年にムンクは最初の木版画を制作。ニコライ・アストルプとともにムンクはノルウェーの木版画のイノベーターとみなされている。

 

1889年12月、ムンクの父は亡くなり、ムンクの家族は経済的に苦しくなりはじめる。そのため、ムンクは実家に戻って家計を支えることになる。親戚はムンク一家の家計を助けてくれなかったので、裕福なノルウェーのコレクターから大規模な借入金を手配する。

 

また、父クリスチャンの死は彼に大きな影響を与え、精神的不調が生じてムンクは自殺を考えるようになる。「私は生まれてからずっと死と隣合わせに生きてきた。母の死、姉の死、祖父の死、父の死。自殺して終わる。なぜ生きているのか」と日記に書いている。

 

また『サン・クルー宣言』と呼ばれているメモに「もうこれからは、室内画や、本を読んでいる人物、また編み物をしている女などを描いてはならない。息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描くのだ」と書いている。

ベルリン時代


1892年、《メランコリー》で見られるような色はシンボルを含む要素を持つという彼独自の総合主義の美学を考え出した。美術家で記者のクリスチャン・クローグによれば1891年の秋にオスロでの展示された《メランコリー》はノルウェー芸術家による最初の象徴主義の絵画だという。

 

1892年にベルリン芸術家連盟のアデルスティーン・ノーマンはムンクを11月の展示に招待し、それは公的な意味での最初のムンクの個展となった。ムンクは、この個展では《朝》《接吻》《不安》《メランコリー》《春》《病気のこども》《その翌朝》《カール・ヨハンの春の日》《雨のカール・ヨハン街》といった重要な作品を含む55点を展示した。《生命のフリーズ》の最初の展示といえるものであった。

 

しかしながら、ムンクの絵は激しい論争を引き起こし(「ムンク事件」と名付けられる)、1週間後に展示は終了となった。ムンクは事件で大騒ぎになったことに満足し、のちに「あのときのような時間を過ごしたことはない。絵画ほど無害なものが、こんな騒ぎを起こすことになるなんて信じられなかった」と話している。

 

ベルリンでムンクは、スウェーデンの劇作家や知識人のアウグスト・ストリンバーグなどが参加する国際的な作家、芸術家、評論家のサークルに参加。ベルリンでの4年間、ムンクはのちに彼の主要作品《生命のフリーズ》の基盤となる膨大なアイデアをスケッチしている。これは、フリーズの装飾のように、自分の作品をいくつかのテーマによって結び合わせていこうというものである。

 

《生命のフリーズ》は当初、書籍のイラストレーションにスケッチされたが、後に絵画で表現することになったという。ムンクの絵はほとんど売れなかったので、議論を引き起こした絵画を鑑賞するための入場料をとって収入を得ていた。

 

このころからムンクは、奥行きはあまり出さず、前景の人物像を強調するため背景は最小限に描きはじめた。1894年作の《灰》や1895年の《病室での死》のように心理状態を表現するために最も説得力のあるポーズを探求しはじめた。その人物の描写はどこか演劇のステージ上に立つ役者たちのように見え、固定した姿勢での黙劇はさまざまな感情を表現している。

《灰》(1894年)
《灰》(1894年)
《病室での死》(1895年)
《病室での死》(1895年)

度重なる身内の不幸と傑作


1893年12月、ベルリンのウンター・デン・リンデンはムンク作品の展示場のとなり、《愛:シリーズのための習作》というタイトルの6つの絵画が展示された。これはのちの《生命のフリーズー生命の詩、愛と死》と呼ばれるシリーズ、いわゆる「生命のフリーズ」の始まりといえる。この頃のムンクは、人生の中で特に精神不安定な時代だった。

 

この時期は、結核で亡くなった姉、父の死、さらに今度は1894年に妹(次女)ラウラ・カトリーネが精神分裂病に陥るようになり、ムンクは家族全体の肖像を劇的に描くことに焦点を当て、孤独と断絶された悲しみを表現している。

 

精神病になった痛ましい姿の妹は、1899年制作の《メランコリー》と題された作品で描かれている。戸外から遮断された真っ赤な部屋の片隅に、青黒い服を着た女が、こわばったように坐っている。妹はそのような状態で、59歳まで生きたという。

 

エドヴァンド・ムンク「メランコリー(ラウラ)」(1899年)
エドヴァンド・ムンク「メランコリー(ラウラ)」(1899年)

翌年1895年にはペーテル・アンドレアースが、結婚後わずか6ヵ月後に死亡した。ムンクは弟の結婚に反対だった。弟の婚約者の女性は精力がみなぎり、一方、弟の肉体は自分と同じく虚弱だった。ムンク一族においてセックスは男の生命を吸いとり、死に至らしめると考えていたのである。その予言は見事的中した。

 

次々と襲う家族の不幸。ムンクにとっては人生で最大に精神が不安定な時期だった。しかし、またこの時代に、ムンクの代表作となる《不安》《マドンナ》《女性の三段階》《吸血血鬼》《月光》《星月夜》などの傑作の大半が制作されている。《叫びもこの時期に描かれた。

 

20世紀の始まり前後にムンクの《生命のフリーズ》は完成した。数多くの作品を制作し、そのうちのいくつかはアール・ヌーヴォー様式に影響を受けたものが見られた。《生命のフリーズ》全体は、1902年にベルリンで開催された分離派展示会で初めて公開された。

 

《生命のフリーズ》は、特に1890年代半ばにムンクが自分の内面から滲み出してくるさまざまなモチーフやテーマを基盤にして長期間かけて制作したものだった。そのテーマとは「生命の段階」「女性の死」「愛と絶望」「不安」「不倫」「嫉妬」「性的な恥」「生と死の分離」などであった。

 

ムンクは、恐怖、脅威、不安、性的な不安を強調するために人物の周囲に色の影や輪を描くことがある。これらの絵画はムンク自身の性的不安の反映と解釈されてきたが、人間存在に対する悲観主義や、ムンクの愛に関する波乱万丈な関係を表現すると主張することもできるだろう。

 

なお、《生命のフリーズ》シリーズの作品の多くには複数のバージョンが存在するが、その場合、大半は絵画ではなく木版画やリトグラフなど版画形式で制作されている。これは、ムンクにとって作品とは自身の身体と切り離せないものであり、オリジナルの作品を手放すことを嫌っていたためである。

愛への渇望と恐怖心


1896年、ムンクはパリへ移り、《生命のフリーズ》で描いた絵画の版画作品の制作に重点を置く。パリの批評家の多くは、ムンクの作品について「暴力的で残酷なもの」とみなしていたが、ムンクの展覧会はパリで注目を集めていた。

 

1897年になるとムンクの収入は大幅に改善され、生計が楽になる。ムンクはノルウェーのオースゴールストランの小さな町のフィヨルドに面した場所にある東屋、18世紀後半に建てられた小さな漁師小屋を購入する。その小屋を「ハッピーハウス」と名付け、そこで毎年夏を過ごすようになった。

 

外国にいて落ち込んで疲れたとき、ムンクは逃避場所のように「ハッピーハウス」に帰った。ムンクは「オースゴールストランを歩くことは私の絵画の世界を歩くようなものです。私はここでインスピレーションを得ています」と話している。

 

1899年にムンクはトゥラ・ラーセンという女性と出会い、交際を始めた。彼女はリベラルの上流階級の女性だった。彼女はムンクの《生命のフリーズ》の終盤でよく描かれる女性である。1899年の《生命のダンス》では赤いドレスを着ている。

 

ラーセンはムンクとの結婚を切望していたが、ムンクはいろいろ言い訳をして断っていた。その理由としては、ムンクの幼少期からの家族の不幸、自身の虚弱体質、遺伝的な精神的欠陥などに恐怖心を抱いており、家庭を持つことに自信がなかったためであるといわれている。「ムンクは幼いころから結婚を嫌がっていた。彼の病気と神経症的な家系は結婚する権利はないと考えられていた」とムンクの批評家は話している。

 

ユング派の心理学者G・W・ディグビーの次のように書いている。「なぜムンクは愛せないのだろうか。なぜ女性に対する理想や女性の愛に身を委ねることができないのであろうか。それは母親が彼を拒絶し、見棄て、愛への憧れをくじき、腐敗する屍になってしまったことという意識にあるのではなかろうか。」

 

1902年6月、2人は久しぶりにオースゴールストランで会うことになったが、トゥラは「自殺する」と言ってピストルを持ち出す。ムンクともみ合ううちに、ピストルが暴発し、ムンクは左手中指の第2関節を撃ち砕くけがを負うという事件が起こった。この事件で2人の関係は決定的に破局する。

 

その後、彼女はムンクから去り、ムンクの同僚だった若い男と結婚する。ムンクはこれを裏切りとして受取り、しばらくのあいだ彼女に執着する。ムンクは1909年になっても、友人ヤッペ・ニルセンに手の痛みを訴えつつ、「彼女の卑劣な行為が僕の人生を滅茶苦茶にしたんだ。」と罵っている。彼女を描いた作品として1907年の《マラーの死》などがある。

ムンクとトゥラ・ラーセン
ムンクとトゥラ・ラーセン

1900年代


このころ、ムンクは、リューベックの眼科医で美術愛好家のマックス・リンデと交友するようになり、1902年末ごろから、リンデの子供部屋に飾るための絵の依頼を受けて制作を始める。

 

1903年にエッチング集『リンデ博士の家庭から』を完成させ、同じ年に次いで油絵《リンデ博士の4人の息子》を制作した。これらの一連の作品は「リンデ・フリーズ」と呼ばれ、1904年末に全作品が完成した。

 

1903年から1904年にかけて、ムンクはパリで展示を行う。その後、1905年にはパリでフォーヴィスムが流行しつつあるが、彼らはこのときのムンクの展示からインスピレーションを受けた可能性があるかもしれない。1906年にフォービストたちはムンクを招待し、ムンク作品をフォーヴィスム作品と並べて展示している。

 

このころにルドンから彫刻を教わっているが、ムンクは彫刻は結局ほとんど制作することはなかった。この時代、ムンクは肖像画制作で収入をかなり稼ぎ、不安定な経済状態は改善していった。

 

1903年には、イギリスの女流ヴァイオリニスト、エヴァ・ムドッチと知り合い、彼女を愛するようになった。彼女をモデルに《ブローチをつけた婦人》といった優れたリトグラフ作品を残している。

エドヴァルド・ムンク《リンデ博士の4人の息子》(1903年)
エドヴァルド・ムンク《リンデ博士の4人の息子》(1903年)
エドヴァルド・ムンク《ブローチをつけた婦人》(1903年)
エドヴァルド・ムンク《ブローチをつけた婦人》(1903年)

精神病院に入院


1908年の秋、過度の飲酒や喧嘩などが重なりムンクの憂鬱は急に深まっていく。のちにムンクは「私の精神状態は狂気の縁にあり、危なかった」と話している。幻覚と疎外感が襲う中、ムンクはダニエル・ジャコブソン医師の精神病院へ入院する。8ヶ月間の電気ショック治療を受けてムンクの精神状態は改善した。

 

1909年に退院してノルウェーに戻って創作活動を再開すると、作品の色合いは以前と異なりカラフルになり、悲観性はなくなっていた。

 

また、オスロの一般市民がムンク作品を受け入れるようになる。オスロ美術館が彼の作品を購入するようになったことは、ムンクの精神を安定させる要因となった。ムンクは芸術分野においてノルウェー政府から聖オーラヴ勲章を受賞。1912年にはアメリカが初個展を開催。

 

精神の回復にともない、ジャコブソン医師は飲酒を止め、理解ある友人とのみコミュニケーションをとるようアドバイスする。ムンクはアドバイスに従い、友人やパトロンたちの質の高い複数のポートレイト作品を制作するようになった

 

また、このころはムンクは職場や遊技場での人々の風景を楽しげに描くようになった。白い余白が多くなり、黒は少なくなり、鮮やかで緩やかな筆使いに変化した。

 

収入が増えるにつれてムンクはさまざまな不動産を購入し、そこで休養して芸術に新たな視点を得られるようになり、また家族に土地を提供することもできるようになった。

 

第一次世界大戦の勃発によるドイツとフランスの対立はムンクの信義を引き裂く結果となった。ムンクは「私の友人はすべてドイツ人だが、私が愛しているのはフランスだ」と話している。1930年代には、ムンクのパトロンだった多くのユダヤ人たちは、ナチズムが台頭するなかで、彼らの運命や人生を失っていった。

エドヴァルド・ムンク《太陽》(1910-1911年)
エドヴァルド・ムンク《太陽》(1910-1911年)

晩年


ムンクは最後の20年をオスロ郊外のエーケリーで土地を購入し、一人で過ごした。晩年の絵画の多くは、彼のアトリエで飼っていた馬「ルソー」をモデルに農場の生活を中心とした主題で、牧歌的なものとなっている。

 

また、特にムンクは何の努力もせず、女性モデルたちを着実に魅了して、彼女たちの膨大な数のヌード画を主題にした絵画を制作した。モデルの中には、おそらく性的な関係も持っていた女性もいただろう。

 

晩年になるとムンクは控えめなセルフポートレイトを描き続けたが、彼の人生における感情的または身体的状態を主題とした作品も繰り返し描いている。

 

ドイツでナチスが台頭すると、ムンクの作品は1937年、退廃芸術としてドイツ国内の美術館から一斉に外された。1940年4月9日、ドイツがノルウェーに侵攻すると、親ドイツのクヴィスリング政権になった、フランス愛だったムンクは親ドイツ政権の懐柔に応じずアトリエでナチスによる作品の没収を恐れながら、引きこもるように過ごした。

 

自宅の近くでレジスタンスによる破壊工作があり、自宅の窓ガラスが爆発で吹き飛ばされた。凍える夜気に彼は気管支炎を起こし、翌1944年1月23日に亡くなった。80歳の誕生日を祝ったその一ヶ月後だった。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Edvard_Munch 2018年12月12日アクセス