【完全解説】ポール・ゴーギャン「プリミティヴィズムに影響を受けた後期印象派の画家」

ポール・ゴーギャン / Paul Gauguin

プリミティヴィズムに影響を受けた後期印象派の画家


ポール・ゴーギャン「タヒチの女」(1891年)
ポール・ゴーギャン「タヒチの女」(1891年)

概要


生年月日 1848年6月7日
死没月日 1903年5月8日
国籍 フランス
表現形式 絵画、彫刻、版画、陶芸、著述
ムーブメント 後期印象派象徴主義
関連人物 フィンセント・ファン・ゴッホ
関連サイト

The Art Story(略歴)

WikiArt(作品)

ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(1848年6月7日-1903年5月8日)はフランスの画家。

 

それまでの印象派とははっきりと異なる実験的な色使いで制作していた後期印象派の代表的な作家で、彼はピカソやマティスといったのちの前衛美術家や近代美術に大きな影響を与えた。

 

ゴーギャンの作品は、彼の死後、画商のアンブロワーズ・ヴォラールの宣伝で有名になった。ヴォラールはゴーギャンの作品をまとめて展示し、パリで重要な死後の展覧会を企画したことで知られる。作品の多くはロシアの著名コレクターであるセルゲイ・シューシキンやほかの重要なコレクターが所有していた。

 

またゴーギャンは象徴主義運動の重要な画家、彫刻家、版画家、陶芸家、著述家である。彼の大胆で実験的な色彩は直接近代美術の綜合主義を導き、またクロワゾニスムやプリミティヴィスムやパストラルへ回帰への影響のもと、絵画における本来の表現を探求した。

作品解説


二人のタヒチの女性
二人のタヒチの女性

略歴


幼少期


ポール・ゴーギャンは1848年6月7日、フランスのパリで父クロヴィス・ゴーギャンと母アリナ・マリア・チャザールのあいだに生まれた。誕生日の年は、ウィーン体制が崩壊してヨーロッパ中で革命的な動乱が吹き荒れている時代だった。当時34歳の父はリベラル系のジャーナリストで、オルレアンに住むプチブルジョア起業家出身だった。

 

22歳のゴーギャンの母は、彫刻家のアンドレ・チャザルと初期社会主義運動の作家で活動家だったフローラ・トリスタンの娘だった。

 

父クロヴィスの関係していた新聞が、フランス当局によって弾圧されたとき、彼はフランスから逃げなければならなくなり、1850年にクロヴィス・ゴーギャンは妻と子どもたちとともにペルーへ移る。母アリナの南米の知り合いたちの支援を得て、ジャーナリズムの活動を続けて生活の糧を得るためだった。しかし、クロヴィスは心臓発作で急死し、アリナはペルーで18ヶ月のポールと2歳半の姉ととも未亡人として暮らさなければならなくなった。

 

その後、ゴーギャンの母は父方の叔父に養われることになる。叔父の娘の夫はペルーの大統領だったこともあり、6歳になるまでポールは子守や使用人などが滞在する特権階級の家庭で過ごすことになった。ゴーギャンはこの頃の幼年時代を鮮明に覚えているという。

 

1854年にペルーで市民戦争が起き、ゴーギャンの親類たちが政界から遠のくようになると、この熱帯の楽園での牧歌的な子ども時代の生活は急速に終焉に向かうことになった。母アリナは子どもたちとともにフランスに戻り、ゴーギャンはオルレアンにいる父方の祖父ギヨーム・ゴーギャンにポールを預けられる。アリナはパリで装飾関係の仕事に着いて生活することになった。

 

いくつかの地元の学校に通った後、ゴーギャンは有名なカトリックの寄宿学校プチ・セミナール・デ・ラ・シャペル・サン・メスミンに入学し、そこで3年間過ごした。

 

 

14歳のときに海軍の予備校でもあったパリのロリール研究所の入学試験に失敗すると、オルレアンに戻って、ジャンヌ・ダルク高校で過ごし修了する。卒業後ゴーギャンは、商船の操舵士の助手職につく。3年後にフランス海軍に入隊してそこで2年間を過ごした。1867年7月7月に母親が死去したが、ポールは姉のマリーからの知らせをインドで受け取るまで、数ヶ月間知らなかったという。

画家の修行


 

 1871年にゴーギャンはパリに戻り、株式売買人となる。ギュスターヴ・アローザと親密になり、彼の口利きによりパリ証券取引所に就職する。ゴーギャンは当時23歳だった。

 

ゴーギャンは、その後11年間パリジアンのビジネスマンとして活躍する。当時ゴーギャンは、近くに印象派たちが集まるカフェのあるパリ9区に住んでおり、よく近くのギャラリーを訪ねては、今パリで人気のある画家たちの作品を購入していたという。

 

そうした中でゴーギャンはカミーユ・ピサロと友好を築くようになり、日曜日にピサロのもとを訪れて、ピサロの指導のもと自身でも絵を描き始める。ピサロはゴーギャンにさまざまな画家を紹介した。1877年にあゴーギャンは、川を渡って都心を離れた貧しい一般市民が生活するパリ15区ヴォージラールに引っ越しする。ここでアトリエを持つようになった。元株式仲買人で画家を目指していた親友エミール・シュフネッケルも、近くに住んでいた。

 

1881年や1882年に開催された印象派展でゴーギャンは作品を出品。この展覧会で「ヴォジラール市場」などの作品が展示されたが、当時、ゴーギャンの作品は酷評された。

ポール・ゴーギャン「ヴォジラール市場」(1879年)
ポール・ゴーギャン「ヴォジラール市場」(1879年)
ポール・ゴーギャン「ヌードの習作」(1880年)
ポール・ゴーギャン「ヌードの習作」(1880年)

1873年、ゴーギャンはデンマーク人女性メテ・ソフィー・ガードと結婚。その後10年で、彼女との間に五人の子どもをもうけた。

 

 

1879年にはゴーギャンは株取引で年間3万フランを稼いだ。しかし、1882年に株式市場が崩壊すると、その影響は美術市場にも及んだ。ピサロ、モネ、ルノワールなど印象派の作品を扱っていた画商のポール・デュラン=リュエルは特に市場崩壊の影響を受け、ゴーギャンをはじめ多くの画家から絵を購入するのをやめてしまった。ゴーギャンの収入は急減し、次の2年間でゆっくりとフルタイムの画家になる計画を立て始め、ピサロやポール・スザンヌらと絵を描き始めた。

 

1884年までにゴーギャンは家族とデンマークのコペンハーゲンに移り、防水シートのセールスマンの仕事を始めたが、仕事はうまくいかなかった。デンマーク語が話せなかったのとデンマーク人はフランス製の防水シートが欲しくなかったのが原因だった。一方のメテは外交官研修生にフランス語の授業をして、稼ぎ手となった。ゴーギャンがフルタイムで絵を描き始めてから11年後に2人は離婚することになった。


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