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【美術解説】ピエト・モンドリアン「コンポジション」

ピエト・モンドリアン / Piet Mondrian

グリッドと三原色で厳格に構成された絵画


「コンポジション2 赤、青、黄」(1930年)
「コンポジション2 赤、青、黄」(1930年)

モンドリアンの抽象画は時代を超えて愛され、そのシンプルさとモダニズム的な抽象表現が現代のアーティストに影響を与えることも少なくない。シンプルな線、形、色で感情や感覚を呼び起こす能力は、モンドリアンが目指したものであった。普遍的で感情的なつながりを生み出そうとしたモンドリアンの芸術を解説していく。

目次

概要


生年月日 1872年3月7日(オランダ)
死没月日 1944年2月1日(ニューヨーク)
国籍 オランダ
表現形式 絵画
ムーブメント デ・ステイル

ピーター・コーネリス“ピエト”モンドリアン(1872年3月7日-1944年2月1日)はオランダの画家。

 

テオ・ファン・ドエスブルグが立ち上げた前衛運動「デ・ステイル」の創立メンバー。その後「新造形主義」という抽象的な絵画の発展に貢献。白地の上に黒い垂直線と水平線のグリッド模様と3原色で構成された絵画《コンポジション》が代表作。

 

1911年、パリに移り住んだモンドリアンは、キュビスムの影響を受け、前衛的な分野で頭角を現し、新たなスタートを切る。その後、姓の綴りを「Mondriaan」から「Mondrian」に改めた。

 

第二次世界大戦中は、マンハッタン計画やブギウギと呼ばれるアメリカのジャズ・スタイルに影響され、晩年はアメリカ社会の影響を受けた、あたたかみのある抽象絵画に変化した。

重要ポイント


  • 抽象絵画の巨匠
  • 前衛運動「デ・ステイル」の創立メンバー
  • 3原色とグリッドで構成された作品

作品解説


ブロードウェイ・ブギウギ
ブロードウェイ・ブギウギ

略歴


若齢期


モンドリアンは、オランダのアメルスフォールトで、伝統的なプロテスタントの両親のもとに次男として生まれた。

 

1670年初頭にデン・ハーグに住んでいたクリスチャン・ダークズン・モンドリアンの子孫だといわれている。

 

一家がオランダ東部のウィンタースワイクに移住したのは、モンドリアンの父の代である。父親は地元の小学校の教頭で、叔父のフリッツも絵を描くのが得意な教師だった。叔父フリッツの指導のもと幼少の頃のモンドリアンは川辺でスケッチ画をよく描いていたという。

 

厳格なプロテスタントの教育を受けた後、1892年にアムステルダム美術アカデミーに入学します。美術教師の資格を取得した後、教師と画家を兼任した。

 

学生時代、モンドリアンの作品の多くは、写実主義や印象派のスタイルで忠実に描かれていた。彼の関心は、主に故郷の風車や農場、川などに向けられていた。

 

ハーグ校でオランダ印象派の技法を学んだ彼は、さらにフォーヴィスムや点描画など、さまざまなスタイルを組み合わせた実験的な作品を制作し、独自のスタイルを模索した。

 

ハーグ市美術館に所蔵されている《赤い水車》(1911年)、《月の出と木》(1908年)、《赤い木》(1908年)などは、その代表作である。「赤い木」は、赤、青、黄の原色を用いた驚くべき作品で、その後の画家のキャリアや抽象作品に強い影響を与えたと考えられている。

《赤い水車》(1911年)
《赤い水車》(1911年)
《赤い木》(1908年)
《赤い木》(1908年)
『月の出と木』(1908年)
『月の出と木』(1908年)

彼の作品に見られる抽象的な要素は、1905年から1908年にかけて制作されたキャンバスの連続した配列の中で初めて現れた。この時期、彼は水面に映る木々や建物の不明瞭でぼやけたイメージを制作している。

 

モンドリアンの作品は、彼が関心を抱いていたオカルトや哲学と親密に関わりがある

 

1908年、ブラヴァツキーが19世紀末に提唱した神智学に傾倒し、1909年には神智学協会のオランダ支部に入会する。

 

ブラヴァツキーの文学は、当時の魔術の流行やルドルフ・シュタイナーの人智学に加え、モンドリアンの芸術性に深く影響を与えた。

 

ブラヴァツキーは、経験的なアプローチよりも神智学を学ぶことで、より深く自然を知ることができると考える人物で、それが生涯を通じてモンドリアンの芸術の源泉となったのである。

パリ時代とキュビスム


1911年、パリに移ったモンドリアンは、オランダ語の「Mondriaan」という綴りをフランス語の「Mondrian」に変え、故郷と区別し、より全面的にパリの前衛芸術運動の中に身を置くように努力するようになった。

 

パブロ・ピカソジョルジュ・ブラックのキュビスムに感銘を受けたモンドリアンは、1911年にアムステルダムで開催されたキュビスムの展覧会「モダン・クンストリング」から、自分の作品に大きな影響を受けていることに気づく。

 

キュビズムの影響下に始まる抽象性と平明性の新たな探求の結果、1911年の《ジンジャーポットのある静物》の二作品で表れる。

 

1911年版はキュビズム的でだったが、1912年版ではキュビスムから離れ、物体を三角形、四角形、円に再定義する構想に進んだことを示す視覚的証拠を持っている。

《Still Life with Ginger Pot》
《Still Life with Ginger Pot》

オランダ時代(1914-1919)


1913年、モンドリアンは精神的な旅を進める中で、キュビスムを超えて絵画を進歩させた。神智学の研究と実践は、彼に具象芸術を捨てさせ、抽象芸術の創造的で論理的な側面へと向かわせるきっかけとなった。

 

第一次世界大戦の勃発により、モンドリアンは生まれ故郷のオランダに閉じ込められる。戦ラーレンの芸術コミュニティに滞在し、そこで出会ったベルト・ヴァン・デ・レックやテオ・ファン・ドースブルクは、オランダの前衛芸術家として大きな影響力を持つようになる。

 

抽象芸術の領域拡大を目指すという共通点から、二人は急速に親交を深めていった。特にモンドリアンは、ベルトの純粋な原色を用いた色彩に影響を受けた。

 

1916年にバート・ヴァン・デ・レックに出会った際、モンドリアンは「それまでの私の技法は、多かれ少なかれキュビスムを踏襲していたものだが、バート・ヴァン・デ・レックに出会ってからは彼の技法の影響が大きくなった」と話している。

 

1917年に、テオ・ファン・ドゥースブルフとモンドリアンは、アムステルダムでオランダ前衛運動「デ・ステイル(新しい造形)」を創設、また機関誌『デ・ステイル』を出版し、創刊号のエッセイでモンドリアンは自身の芸術理論を「新造形主義」と名付けた。

 

新造形主義は、垂直線と水平線によって図柄をデッサンし、線によってかたちづくられるグリッドを赤、青、黄の三色を基本に、白、黒、および灰色を補助的に使用して着色するというもので、神智学にもとづいた合理性の高い、秩序と調和の取れた表現を目指しているという。

雑誌『デ・ステイル』1921年11月号
雑誌『デ・ステイル』1921年11月号
デオ・ヴァン・ドゥースブルフ「Composition VII」(1917年)
デオ・ヴァン・ドゥースブルフ「Composition VII」(1917年)

パリ時代(1918-1938年)


1918年に紛争が終結すると、モンドリアンはフランスに戻り、1938年までパリに滞在し、「光の都」を中心とした芸術革命の勃興を利用した。

 

パリの先進的な雰囲気に触れ、抽象芸術の美学を追求したモンドリアンは、1919年半ばからグリッド・パターンを用いた「コンポジション」を制作し始める。

 

モンドリアンは1919年後半に、のちの《コンポジション》に繋がるグリッド状を基盤にして作品を制作する。1920年になるとそのグリッド・スタイルは明確に作品に表れるようになった。

 

初期のグリッド・スタイル絵画は長方形を中心に構成され、使用している色は黒ではなく灰色だった。描かれる線はキャンバスの端近くで途切れているのが特徴だが、その線はピッタリ止まるというよりもむしろ、フェードアウトするような描かれ方だった。

 

後期の作品よりも1つ1つのマスは小さく、またたくさん描かれており、原色、黒、灰色でほぼすべてのマスは着色されており、ほんの数マスのみ白いままだった。

《Composition light color planes with grey contours》(1919年)
《Composition light color planes with grey contours》(1919年)
《Composition with grid vii》(1919年)
《Composition with grid vii》(1919年)

1920年から1921年まで、モンドリアンの芸術作品は、現在、無数の人々が認める最も典型的で顕著な芸術形式となるまでに発展した。

 

黒い太線が区切られたマスの1つ1つは大きくなり、並行してキャンバス上のマスの数は少なくなった。また、マスの大半は着色されず、白いままで残されるようになりはじめる。

 

しかし、これはモンドリアンの創作の旅路の頂点ではなく、彼の努力は、フランスの首都で何年にもわたって修正され続けた。

 

1921年の展覧会では、すべてとは言わないまでも、ほとんどの作品の輪郭線がキャンバスの端から一見すると計算された距離を空けて止められているものになっている。

 

数年後、モンドリアンの作品は、キャンバスの端にまで線が伸びていくようになる。さらに、塗りつぶされないマスを残すという見立てに踏み切り、色のついたマスの量も減っていった。

 

この特徴的なスタイルの起源は、1920年代半ばのモンドリアンのひし形時代まで遡ることができる。

 

「ひし型」シリーズは、正方形のキャンバスを45度傾けてダイヤモンドの形状にして描かれた作品群である。代表的な作品は現在フィラデルフィア美術館に所蔵されている《2本の線と青のひし型》(1926年)である。

 

モンドリアンの作品の中でも最もミニマリズムな作品の1つで、2本の黒い線と小さな青色の長方形のみで構成されている。線はキャンバスの端まで届いている。

《2本の線と青のひし型》(1926年)
《2本の線と青のひし型》(1926年)

ロンドンとニューヨーク


1938年9月、ファシズムの台頭によりパリを離れたモンドリアンは、ロンドンに向かう。

 

1940年、ナチスがオランダとパリを占領した後、ニューヨークのマンハッタンに移り、残りの人生をそこで過ごした。

 

モンドリアンの後期作品の中には、制作年代がはっきりしない作品(たとえば「ニューヨーク・シティ」)や、パリやロンドンで制作を始め、数年後にマンハッタンで完成させたものがある。

 

渡米後の後期作品は、初期の作品とは異なり、鮮やかな色合いと多くの線が道路地図のようなビジュアルで知られている。

 

この時期、モンドリアンは手が痛くなるまで美術に没頭し、時には叫び声を上げるほど精神状態が悪化したことは特筆に価する。

 

1933年の《4つの黄線で構成されたトローチ・コンポジション》は、従来の黒ではなく、上下左右に黄色い線が描かれている。

 

また、ヨーロッパで未完成のまま放置されていた作品の中には、ニューヨークで落ち着くと色を変えて完成させたものもある。

 

 

赤、青、黄色の線を縦に複雑に組み合わせた《ニューヨーク・シティ》(1942年)は、それまでの作品よりも線が多く、より複雑なものとなっている。

 

1942年から1943年の2年間に制作され、現在、ニューヨーク近代美術館が所蔵する代表作《ブロードウェイ・ブギウギ》は、抽象幾何学絵画の領域で顕著な影響を与えた作品である。ネオンの明滅に似た多くの交錯と色彩のブロックで構成されている。

 

1944年2月1日、肺炎で死去。ニューヨークのブルックリンにあるサイプレスヒルズ墓地に埋葬された。

 

1944年2月3日に、レキシントン街のユニバーサル・チャペルとマンハッタン52番街でモンドリアンの葬式が行われた。アレクサンダー・アーキペンコ、マルク・シャガール、マルセル・デュシャン、フェルナン・レジェ、アレクサンダー・カルダーなど200人近くの人々が出席した。

《4つの黄線で構成されたトローチ・コンポジション》(1933年)
《4つの黄線で構成されたトローチ・コンポジション》(1933年)
《ブロードウェイ・ブギウギ》(1942-1943年)
《ブロードウェイ・ブギウギ》(1942-1943年)

■参考文献

Piet Mondrian - Wikipedia