【完全解説】ジョルジョ・デ・キリコ「形而上絵画」

ジョルジョ・デ・キリコ / Giorgio de Chirico

イタリア形而上絵画の創立者


概要


ジョルジョ・デ・キリコ(1888年7月10日-1978年11月20日)はイタリアの画家。

 

第一次世界大戦以前にイタリアで形而上絵画の旗手として活躍、後のシュルレアリスムムーブメントに大きな影響を与えた。


1919年以後は古典技術に興味を移し、新古典主義や新バロック形式の作品を制作。シュルレアリスムグループから反発を受ける。


一方、しばしば形而上絵画時代の自己模倣作品も制作し、作品の年号も昔のものに変更して展示してトラブルも起こした。

作品解説


愛の歌
愛の歌
通りの神秘と憂愁
通りの神秘と憂愁
不安を与えるミューズたち
不安を与えるミューズたち
子どもの脳
子どもの脳

ヘクトルとアンドロマケ
ヘクトルとアンドロマケ
時間の謎
時間の謎
出発の憂鬱
出発の憂鬱
無限の郷愁
無限の郷愁

要点


  • 形而上絵画の創設者
  • 1919年以後は古典に回帰
  • 形而上絵画時代の自己模倣作品を多数制作

略歴


若齢期


デ・キリコは、ギリシアのヴォロスで、ジェノバ出身の母とシチリア出身の父との間に生まれた。


1900年にアテネでギリシアの画家ジョルジオ・ロイロスやジョルジオ・ジャコビッヂの指導下で美術を勉強したあと、1906年に両親とともにドイツへ移動し、ミュンヘンの美術学校に入学。


そこで、フリードリヒ・ニーチェ、アルチュール・ショーペンハウアー、オットー・ヴァイニンガーなどの19世紀のドイツ哲学やアーノルド・ベックリン、マックス・キリンジャーといった象徴主義の絵画から影響を受ける。

初期作品


「神託の謎」(1910年)
「神託の謎」(1910年)

1909年の夏にイタリアへ戻り、ミランで6ヶ月過ごす。精神的衰弱下にあったキリコは、ニーチェの著作物やギリシアやイタリアへの郷愁、そして幻覚的な啓示に悩まされながら、平凡な日常生活と並列するように神秘的で不条理な世界を描き始めた。


1910年始め、ミランを離れてフィレンツェへ移動し、そこでベックリン作品を下敷きに最初の形而上絵画シリーズ"Metaphysical Town Square"を制作。サンタ・クローチェ聖堂で啓示を受けて描き上げた「秋の午後の謎 」「神託の謎」「時間の謎」「自画像」が代表作である。

「秋の午後のメランコリー」(1910年)
「秋の午後のメランコリー」(1910年)
「時間の謎」(1911年)
「時間の謎」(1911年)

パリへ


「赤い塔」(1913年)
「赤い塔」(1913年)

1911年7月にキリコはパリへ向かう途中、トリノで数日間過ごす。トリノでキリコはトリノの広場やアーチ状の建築「形而上学」に深く心を突き動かされる。またトリノは敬愛するニーチェの故郷だった。

 

1911年7月にパリに移住して、弟のアンドレアと合流。弟を通じてキリコはサロン・ドートンヌの審査員であるピエール・ラプラドに会い、そこでキリコは「神託の謎」「午後の謎」「セルフ・ポートレイト」の3つの作品を展示した。


1913年、キリコは、サロン・ド・インデペンデントやサロン・ドートンヌなどで作品を展示。そのときにパブロ・ピカソやギョーム・アポリネールらがキリコに関心を持ち、初めて作品が売れた。売れた作品は「赤い塔」だった。1913年ごろは塔を主題にした作品が多い。

 

1914年アポリネールを通じて、キリコは画商のポール・ギョームと出会い、売買契約を交わした。

「グレート・タワー」(1913年)
「グレート・タワー」(1913年)
「永遠の郷愁」(1913年)
「永遠の郷愁」(1913年)
「アリアーヌの目覚め」(1913年)
「アリアーヌの目覚め」(1913年)

形而上絵画


第一次世界大戦が勃発すると、キリコはイタリアへ戻る。1915年5月に戻るとすぐに徴兵されるもの体力不足とみなされ、フェラーラ病院に配属されることになる。しかし、そこで絵を描く時間ができたため描き続け、また、かつての未来主義者カルロ・カッラと出会い、自分たちの絵をさす言葉として「形而上的」という言葉を使いはじめる。


二人が言い出した形而上的とは、どこか辻褄があわない、納得のゆかない、不思議な、くらいの意味で用いられている。一種の幻想絵画といってもいいが、絵で目立つのは、誇張された不自然な遠近表現、非日常的な、幻覚的ともいうべき強烈な光と影のコントラスト、古代的なモチーフと現代的なモチーフとの共存。


そして何より、例えば「愛の歌」に見られる、古代のアポロン像の頭部と手術用の赤いゴム手袋が並び、その後ろを蒸気機関車が走るという現実にはありえないような、不条理な取り合わせ、状況設定である。それは、1920年代に始まるシューレアリスムの先駆ともなった。


1918年にローマへ移動し、作品がヨーロッパ中で広く展示されることになる。デ・キリコの作品が一般的によく知られているのは、1909年から1919年の間の作品である。

古典回帰とシュルレアリストたち


1919年の秋、キリコはイタリアとフランスで発行されていた美術誌『ヴァローリ・プラスティチ』誌に『職人への回帰』という記事を投稿。古典的な描法と図像学への回帰を提唱した。この記事は、キリコの芸術的方向の急激な変化を予告するもので、ラファエルやシニョレッリのような巨匠から影響を受けた古典的な技術を採用し、現代美術と敵対することになった。

「子どもの脳」(1917年)
「子どもの脳」(1917年)

1920年の始め、アンドレ・ブルトンは、パリのポール・ギョーム画廊で展示された子どもの脳」という絵をバスの車窓から偶然みかけて、衝撃を受け、バスをおりてしまったという。

 

またブルトンの仲間の画家イヴ・タンギーも、キリコの「子どもの脳」を車窓で見かけて同じくバスをおりてしまったという。の形而上絵画の1つを発見し、魅了される。

 

 

キリコの作品が暗示する発想が、みじめな姿の父親にイメージ化された旧世代の権威への新世代による無意識的な反抗であることは、認めてはよいだろう。ブルトンは「子どもの脳」を長いこと手放さず、パリにあるアトリエの壁にかかげていたようである。

 

イヴ・タンギーを始め、キリコの作品に影響を受けた数多くの若手アーティストがブルトンを中心としたパリのシュルレアリスム・グループの中核となった。

 

1924年、キリコはパリを訪れ、シュルレアリスムグループに歓迎される。しかしシュルレアリストたちは1918年以前の作品を重要視しし、1919年の『職人への回帰』以降の古典回帰には批判的だった。

 

1925年にロシアのバレリーナで最初の妻のライサ・グレーヴィチと出会い結婚。しかしすぐに破綻。またシュルレアリストたちの関係も日に増して悪くなり、パリで開かれたキリコの個展の新作は非難の的となった。

 

1928年にキリコはニューヨークで初個展を開催、その後すぐにロンドンで個展を開催。キリコは芸術やほかのさまざまな主題のエッセイを書いて、1929年に『エブドメロス』というタイトルの小説を出版。

自己模倣


キリコ自身による「不安を与えるミューズ」の贋作
キリコ自身による「不安を与えるミューズ」の贋作

1939年に、キリコはルーベンスの影響を受けてネオバロック形式へ移行する。しかしキリコの形而上絵画時代以降のあらゆる作品は、決して高い評価がなされることはなかった。キリコは自分に対する悪評に憤慨し、後期作品は、成熟した、良い作品だと思っていた。

 

にも関わらず、キリコは形而上絵画時代の成功と利益を得るために、過去の自己模倣作品を制作して販売。偽造作品の多くが公共および民間のコレクションに入っていたため、非難を浴びた。


1948年、キリコは、ヴィネツィア・ビエンナーレに「不安を与えるミューズたち」の贋作を展示したとして抗議される。1910年代に制作した形而上絵画のレプリカを多く制作し、それらのレプリカには、実際の制作年とは異なる過去の年号を記入していたという。


「不安を与えるミューズたち」のオリジナルは元々、第一次世界大戦中に描かれたが、1945年から1962年にかけて、リコ本人によって多くの複製が作られ、その数、少なくとも18作品が発見されているという(上の図)。

 

しかし、キリコは贋作を展示したのは、過去の作品ばかりが評価され、高値で取引されることに対する復讐だという。

参考文献



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略年譜


   
1888年 ・7月10日ギリシアのテッサリア地方のヴォロスで生まれる。父親のエヴァリストはシチリア出身のフィレンツェの技師で、鉄道路線を敷設するイタリアの会社に勤めていた。母親のジェンマはジェノヴァの中産階級の出身。
1891年 ・弟のアンドレア生まれる。
1900年

・ヴォロスでギリシア人画家マヴルディスにデッサンを学ぶ。

・アテネ理工美術学校に通う。

1905年 ・父親が死ぬ。母親と息子たちはヴィネツィアとミラノに短期間滞在後、翌年ミュンヘンに移動。
1906年 ・ミュンヘンに住む。約2年間ミュンヘンの美術学校に通い、ドイツ哲学や文学、絵画に影響を受ける。
1909年 ・夏、ミラノに戻る。ペラトルカ通りのアパートを借り、ベックリンより霊感を得た作品を描く。腸の病のため度々床につきながら、哲学的な文学に夢中になる。
1910年

・母と一緒にフィレンツェにおもむき、1年と少し滞在。ニーチェに影響を受けた謎に満ちた感情を表現する主題の絵を描き始める。最初の形而上絵画シリーズを制作。

1911年

・母とともにフィレンツェを離れ、数日間トリノに滞在したあと、弟のいるパリへ移動。トリノの建築物はキリコのイマジネーションに深い影響を与える。

1912年 ・ピエール・ラプラードの仲人で、サロン・ドートンヌで2点の作品を展示。
1913年

・サロン・デ・アンデパンダンに作品3点を、その後、サロン・ドートンヌに作品4点を出品。パブロ・ピカソやギョーム・アポリネールの目に留まる。アポリネールが『レ・ソワレ・ドゥ・パリ』誌に、デ・キリコの「形而上学的風景」について書く。

1914年

・サロン・デ・アンデパンダンに作品3点を出品。ジョルジョとアンドレアはパリの学校でルデンゴ・ソッフィチが『ラチェルバ』誌にデ・キリコについて書く。

1915年

・第一次世界大戦の開戦にともない、デ・キリコは軍当局によりイタリアに召喚される。フィレンツェで召集を受けた後、フェッラーラの第27歩兵隊に配属されるが、体力不足のため病院の仕事に変更。

1916年

・フェッラーラの建築物が創作に深い影響を与える。

・トリスタン・ツァラと親交を結ぶ。

1917年

カルロ・カッラに出会い軍病院でともに過ごし、芸術に関する議論を行い「形而上絵画」を発明する。

1918年

・ローマへ移住。画商ポール・ギョームがヴィユー・コロンビエ劇場で、興行の幕間を利用した数時間の「ハプニング」の際に、デ・キリコの数点の形而上絵画を紹介する。

・ボルゲーゼ美術館を訪れ、ロレンツォ・ロットの作品を模写。ティツィアーノの作品の前で偉大なる絵画の魅力に取り憑かれる。

・ロベルト・メッリがデ・キリコに雑誌『ヴァローリ・プラスティチ』の創設者であるマリオ・ブローリオを紹介。キリコはこの雑誌に寄稿するようになる。

・『ラ・ロンダ』誌の文学者や芸術家と交流をもつ。

1919年

・アントン・ジュリオ・ブルガリア画廊で個展を開催。フェッラーラでの形而上絵画を展示。

。『ヴァローリ・プラスティチ』が最初のキリコのモノグラフを刊行する。

・アンドレ・ブルトンが「文学」誌に熱烈な批評をする。

・ロベルト・ロンギが『イル・テンポ』誌に辛辣な批評文を寄せる。

 

・展覧会「若きイタリア」に出品。

1920年

・フィレンツェとローマを行き来する。

・この頃から古典絵画のロマン主義、またルネサンス画家の技術に対する深い関心が増していく。

・ロシア人画家ニコラ・ロコフより、上塗りの油性デトランプの秘訣を教わる。

1921年

・ミラノで個展。

1922年

・「春のフィオレンティーナ」展。

・「手仕事の問題」と「技術の秘密」に関してブルトンに重要な手紙を書く。

1923年

・ローマ・ビエンナーレに出品。

1924年

・ヴィネツィア・ビエンナーレに出品。

・パリへ戻る。

『シュルレアリスト革命』第1号が発行。デ・キリコはその巻頭に「夢」を寄稿。

・ライサ・グリエヴィッチ・クロルと結婚。

1925年

・パリのレオンス・ローザンベールのレフォール・モデルヌ画廊で展覧会が開催され、ジョルジョ・カステルフランコも訪れる。デ・キリコの新しい絵画作品がシュルレアリストたちに批判される。『ヴァローリ・プラスティチ』いクールベに関する論文を発表する。

1926年

・パリのポール・ギョーム画廊で展覧会を開催。

・ミラノのペーザロ画廊で展覧会を開催。

・イタリアの「ノヴェチェント(1900年代派)」の第1回展覧会に参加。

1927年

・パリのポール・ギヨーム画廊、ジャンヌ・ビュシェ画廊でそれぞれ別の展覧会を開催。

・ロジェ・ヴィトラックのモノグラフが発表される。

1928年

・ロンドンで個展。

・ジャン・コクトーの『世俗的神秘』の挿絵にキリコのリトグラフが使われる。

・シュルレアリスト画廊でのコラージュ展覧会に寄せたルイ・アラゴンの文章でキリコが批判される。

・アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスムと絵画』を出版し、その中で1918年以前のキリコの作品を重要視し、その後の作品については批判する。

・ドイツの新即物主義や魔術的レアリスムやバウハウスの芸術家たちは、キリコの影響を受ける。

1929年

・リエーティによるバレエ作品「舞踏会」の舞台美術と衣装のデザインをする。この舞台はセルゲイ・ディアギレフ演出による上演された。小説『エブドメロス』を出版する。

1930年

・イザベッラ・ファーに出会う。

・キリコのリトグラフによる挿絵が付されたギヨーム・アポリネール作『カリグラム』が刊行される。

1931年 ・イザベッラ・ファーとともにミラノに戻り、バルバルー画廊で展示をする。カッラの紹介により、プラハでも展覧会を行う。さらにブリュッセルやその他のヨーロッパの都市で展覧会を開く。
1932年

・フィレンツェに滞在し制作を行う。骨董商ルイージ・ベッリーニが所有するパラッツォ・フェッローニの画廊で展覧会を開く。ヴィネツィア・ビエンナーレに参加。

1933年

・フランチェスコ・メッシーナとジェノヴァで展覧会。

・ミラノ・トリエンナーレで、卵の黄身を用いたデトランプ技法で大規模

な壁画を制作する。しかし後に破壊される。

・フィレンツェ5月音楽祭で、ベッリーニのオペラ「清教徒たち」のための舞台美術と衣装のデザインをする。

1934年

・パリへ戻る。ジャン・コクトーの『神話』のためにリトグラフを制作。

1935年 ・ローマ・クアドリエンナーレの一室がデ・キリコ作品に充てられる。トスカーナ地方に短期間滞在した後、8月ニューヨークに旅立つ。ニューヨークで、秋に個展を開催する。
1936年

・イザベッラ・ファーとともにアメリカに留まる。母が6月に没する。

1937年

・イタリアに戻る。

1939年

・ミラノへ戻りジェズ通りに居を構える。

・第3回ローマ・クワドリエンナーレに参加。

・ミラノ、フィレンツェ、トリノで展覧会。

1941年

・黙示録の挿絵を制作。

・ジェームズ・スロール・ソビーによる『初期のキリコ』がニューヨークで上辞される。

1942年

・ヴィネツィア・ビエンナーレの一室がデ・キリコ作品に充てられる。ラファエーレ・カリエーリがデ・キリコのモノグラフを出版。

1943年

・フィレンツェとローマで制作

1945年

・最終的にローマに居を構える。

・『我が生涯の回想』が出版される。

・リリャルト・ストラウスの音楽によるバレエ「ドン・ジョヴァンニ」のために舞台美術を手がける。

1948年

・ヴィネツィア・ビエンナーレに「不安を与えるミューズたち」の贋作を展示したとして抗議される。1910年代に制作した形而上絵画のレプリカを多く制作し、それらのレプリカには、実際の制作年とは異なる過去の年号を記入していた。贋作を展示した理由は、過去の作品ばかりが評価され、高値で取引されることに対する不満だといわれている。

1949年

・ロンドンの王立英国芸術家協会で個展。形而上絵画作品と伝統的絵画作品とを同時に描き続ける。

・イタロ・ファルディが『最初のキリコ』を出版。

1950年

・ローマとヴェネツィアで別々の展覧会を開催。

・イザベッラ・ファーによるキリコのモノグラフが出版される。

1952年

・弟アンドレアが死去。

1955年

・ニューヨーク近代美術館で形而上絵画の展覧会。

・ジェームズ・スロール・ソビーによる基礎的著作『ジョルジョ・デ・キリコ』が出版される。

・クアドリエンナーレ国家芸術展に参加する。

1961年

・ローマのラ・バルカッチャ画廊で展覧会。

1964年

・トリノのジッシ画廊で1920年から1930年までの作品による展覧会。

1966年 ・ローマのラ・メドゥーサ画廊で「デ・キリコへのオマージュ(1912−1930年)」展。
1967年 ・トリノのガラテア画廊で1914年から1928年までの作品12点が展示される。
1968年

・ミラノのヨラス画廊で、新しい形而上学的主題の作品による展覧会。

・イザベッラ・ファーによる新しいモノグラフが2冊出版される。

・サルヴァトーレ・クワジモド訳『イリアス』のために挿絵を制作する。

1969年

・アルフォンソ・チランナによる素描作品のカタログが、またルイジ・カルルッチョの著作『ジョルジョ・デ・キリコの素描194点』が出版される。

・ローマのラ・メドゥーサ画廊でグラフィック作品による展覧会。

1970年

・ミラノのパラッツォ・レアーレとハノーファーのケストナー協会で初の回顧展。アレクサンドル・ヨラスがミラノとジュネーヴの画廊でキリコの新しい油彩画と彫刻とデッサンを展示。

・クラウディオ・ブルーニがローマのメドゥーサ画廊で素描と彫刻を展示。

・フェッラーラのパラッツォ・デイディアマンティで、自身の所蔵作による「デ・キリコによるデ・キリコ展」を開催。

1972年

・ニューヨークの文化センターで自身の選定によるまとまったコレクションを展示する。

1973年

・同展覧会が日本へ巡回。

1974年

・フランス芸術アカデミー会員にジャック・リプシッツに代わって選出される。

1975年

・パリのマルモッタン美術館でフランス学士院による展覧会が開催される。

1978年

・ローマのイル・セーニョ画廊がジョルジョ・デ・キリコへのオマージュとして素描作品の展覧会を開催。これが生前最後の展覧会となる。

・11月20日、ローマの病院で長い治療生活を送ったあと、亡くなる。90歳。

・ローマのヴェラーノ墓地のネグローニ=フロケ家の墓所に埋葬される。