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【美術解説】ダミアン・ハースト「金と死」

ダミアン・ハースト / Damien Hirst

金と死


※1:「The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living」
※1:「The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living」

英国で最も多作な現代アーティストの一人であるダミアン・ハーストの人生とキャリアについてもっと知りたいなら、ダミアン・ハーストをおいて他にありません。イギリスで最も影響力のある現代アーティストの一人であるダミアン・ハーストの傑作アートワークと人生について、包括的なレビューに飛び込む準備はできていますか?今回は、ダミアン・ハーストのアートワーク、キャリア、そしてそれを形成した力についてお話しします。それでは、さっそくダミアン・ハーストの人生と作品に迫ってみましょう。

概要


生年月日 1965年6月7日
国籍 イギリス
表現媒体 インスタレーション、絵画、彫刻
ムーブメント ヤング・ブリティッシュ・アーティスト、コンセプチュアル・アート
関連人物 チャールズ・サーチ(コレクター)、ニコラス・セロータ(テート館長)、ラリー・ガゴシアン(画商)
公式サイト http://www.damienhirst.com

ダミアン・ハースト(1965年6月7日生まれ)はイギリスのア現代美術家、実業家、コレクター。「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト(YBA)」の中心的な存在であり、1990年代のイギリス・アートシーンに最も貢献した人物である。

 

イギリスで最も稼ぐアーティストとしても知られており、2012年の『サンデー・タイムズ・リッチリスト』によれば、ハーストの財産は約10億ドルだと見なされている。1990年代にハーストの芸術活動はコレクターのチャールズ・サーチと密接な関わりがあったが、摩擦があり2003年までには疎遠になっている。

 

「死」はハースト作品の主要テーマである。ハーストが有名になったのはホルマリン漬けされた動物作品(サメ、羊、牛など)シリーズ『自然史』だとされている。代表的な作品は、4.3メートルのイタチザメを透明ケースにホルマリン漬けした『生者の心における死の物理的な不可能』だろう。

 

2008年9月にハーストは、ビジネスとしてアート活動を行う芸術家として前例のない行動を取る。ハーストはギャラリーやディーラーを通さず直接《私の頭の中は永遠に美しい》をサザビーズのオークションにかけて売買をはじめた。芸術家が自身の作品を直接オークションにかけて売る行為は、サザビーズの歴史的においてもはじまって以来のことだった。

 

オークションの結果、約144億ドル(約211億円)で作品は落札され、当時、現役芸術家の落札総額で史上最高額を記録した。もう1つのホルマリン漬けの目玉である金の子牛は、1030万ポンド(約19億円)で落札された。

 

ブリストル出身ということもありバンクシーと縁があり、2015年にバンクシーが企画したプロジェクトアート『ディズマランド』に参加している。

重要ポイント

  • ヤング・ブリティッシュ・アーティストの主要メンバー
  • ビジネスとして割り切ってアート活動を行っている
  • オークションに直接、自作品を出品した

作品解説


神は愛のために
神は愛のために
生者の心における死の物理的な不可能さ
生者の心における死の物理的な不可能さ

略歴


若齢期


ダミアン・ハーストはイギリスのブリストルで、父ダミアン・スティーブン・ブレナンと母ダミアン・メアリー・ブレナンのもとに生まれ、リーズで育った。ハーストは一度も実の父と会ったことがない。

 

伝えられているところによると、2歳のとき車整備士の継父に育てられることになったが、12歳のときに両親は離婚。家から出て行ったという。母親のメアリー・ブレナンは北アイルランドの少数派カトリック教徒であり、市民相談協会で働いていた。

 

ハーストの母親は、幼少時代のハーストをうまくしつけできなかったと話している。ハーストは子どものころ万引きで2回逮捕されたことがある。

 

ハーストによれば、母親は厳しく、寛容性に欠けているように感じていたという。母親はハーストのボンデージ・パンツを引き裂いたり、セックス・ピストルズのアナログ・レコードをレンジで焼き、野菜ボウルやプラントポットに捨てるなど、異常なヒステリー行動をとっていたという。「母は私の服装が気に入らないときはすぐにバス停から連れていったものだ」とハーストは話している。

 

そんな母親だったが、唯一、ハーストのドローイングだけは好み、美術方面に進むことを積極的に後押しした。

 

荒れた幼少時代を過ごし、ハーストはアラートン・グラージ中等学校6回生をなんとか卒業する。リーズ美術大学の入学試験を受けるが当初は不合格となる。財団ディプロマ予備校に入学し、その後リーズ美術大学へ入学した。

 

1983年にハイワード・ギャラリーで、ジュリアン・スポルディング企画によるフランシス・デビジョン作品の展示を鑑賞。デビジョンはちぎり紙や色付けした紙で抽象コラージュを制作しており、それを見てハーストは大変な感銘を受ける。その後2年間、コラージュを探求するようになる。

 

ロンドンの建設現場で2年ほど働いたあと、ハーストはゴールドスミス・カレッジに入学(1986-89)。学生の間、ハーストは遺体安置所で働いていたが、このときの経験が後のハーストのアートのテーマやメディウムに大きな影響を与えた。 

倉庫を使った展覧会


1988年7月、ゴールドスミス大学2年生のときに、ハーストはロンドンドックランズのロンドン港湾局行政地区内の使用されていない空き倉庫で、生徒たちによるグループ展「Freeze」を企画する。これがヤング・ブリティッシュ・アーティスト(Young British Artists; YBAs)である。

 

このとき、ロンドン・ドックランズ開発公社からスポンサー協力を得ることに成功し、さらに展示会にはチャールズ・サーチ、ノーマン・ローゼンタール、ニコラス・セロータといった英国美術業界のアートパワーたちが多数、鑑賞のために訪問した。ハーストと彼らアートパワーの繋ぎをしていたのはゴールドスミス大学の教師マイケル・クレイグ・マーティンだった。

 

これは画廊でも美術館でもない、安く使える倉庫跡などの「オルタナティブ・スペース」を使ったアーティスト企画型の展覧会の皮切りになり、倉庫を占拠してレイヴパーティーを行うなどといった当時のイギリスのアンダーグラウンド・シーンとも結びついた。この展覧会でハーストは家庭用塗料で塗装されたダンボール箱の集合体を展示した。

 

卒業後にハーストはケンブリッジのケトルズヤードハウスギャラリーのグループ展『新現代美術』に参加する。

 

1990年にハーストは友人のカール・フリードマンとビリー・セルマンらと『近代医学』や『ギャンブラー』という2つの重要な倉庫展示を企画する。ロンドンのバーモンジーの空き工場、ビルディング・ワンで開催した。『モダン・メディスン』展にあたって、チャールズ・サーチほかイギリスのアートパワーから1,000ポンドの資金調達に成功した。

 

『ギャンブラー』では、チャールズ・サーチが緑のロールス・ロイスでやってきたという。フリードマンによれば、サーチはハーストの最初の主要な“動物”インスタレーション作品『1000年』を見て、唖然として立ち尽くしていたという。『1000年』は大きなガラスケースの中に死んだ牛の頭が設置されており、周囲にウジ虫が群がっているものだった。なおこの展示ではほかにミハエル・ランディの初個展『市場』も開催された。

※2:《1000年》1990年
※2:《1000年》1990年
※3:「Freeze」(1988年)。ハーストは左から2番目。
※3:「Freeze」(1988年)。ハーストは左から2番目。

1991-1994


1991年にハーストは初個展を開催。企画者はタマラ・チョッドツコで、個展タイトルは『Dial, In and Out of Love』。場所はロンドン中央のウッドストック通りにある誰も使用していない店だった。

 

その後、ロンドン現代美術研究所やパリのエマニュエル・ペロタンでも個展を開催。サーペンタイン・ギャラリーは、ハーストのキュレーションによる『ブロークン・イングリッシュ』というイギリスの若い世代を紹介する展示を開催した。このときハーストは、後に熱い友情を交わすことになる画商のジョイ・ジョプリングと出会った。

 

1991年、チャールズ・サーチはハーストの作品制作資金のスポンサーとなり、1992年に北ロンドンのサーチ・ギャラリーで最初のヤング・ブリティッシュ・アーティストの展覧会を開催。

 

この展覧会で、ハーストの作品《生者の心における死の物理的な不可能》が展示される。4.3メートルのイタチザメを透明ケース内にホルマリン漬けして保存した作品で、5万ポンドで売買された。

 

サメ自体は6,000ポンドでオーストラリアの漁師に依頼して捕獲したという。この展示会は結果として、その年のターナー賞にノミネートされることになったが、グレンヴィル・デイビーに授与されることになった。

 

ハーストの最初の大きな国際展示は、1993年のヴィネチア・ヴィエンナーレである。縦に真っ2つに切断された牛と子牛をホルマリン漬けにした作品《母と子、分断されて》が展示された。

 

1994年にはロンドンのサーペンタイン・ギャラリーで『Some Went Mad, Some Ran Away』展を企画し、羊のホルマリン漬け作品『群れから離れて』を展示したが、5月9日にオックスフォード出身の35歳のアーティストマーク・ブリジャーが、タンクに黒インクを注ぎ『黒い羊』に改題した。彼はその後、起訴されることになり、2年間の執行猶予が与えられることになった。作品は1000ポンドかけて修復された。

 

1995年にハーストはターナー賞を受賞。

 

ニューヨーク公衆衛生当局は、死んだ牡牛と雌牛に焦点を当てた作品『2つのファックと2つの鑑賞者』を、来場者が恐怖心と嘔吐を起こすため展示を禁止。この作品はソウル、ロンドン、ザルツブルクでも展示された。

 

ハーストはバンド『Blur』の楽曲『Country House』のミュージックビデオを制作。

 

1996年にニューヨークのガゴシアンギャラリーで大規模な初個展『No Sense of Absolute Corruption』が開催。

 

1997年に自伝『I Want To Spend the Rest of My Life Everywhere, with Everyone, One to One, Always, Forever, Now』を出版。

 

バンド『Blur』のアレックス・ジェームズや俳優のキース・アレンとともにバンド『Fat Les』を結成し、ロンドンゲイ男性合唱団による『エルサレム(聖火)』のフォローアップで、1998年FIFAワールドカップのテーマ『Vindaloo』を作曲し、ランキングチャート2位を達成した。

 

ハーストはビーグル2号探査機の部品にシンプルなカラーパターンを描いた。このパターンは火星に到着したときに、探査カメラで使用された。

 

1999年のヴィネチア・ビエンナーレでイギリス芸術回顧展に英国文化振興会から招待されたものの、ハーストは「正しいと思っていない」かったことを理由に招待を拒否した。またブリティッシュ・エアウェイズに対して著作権侵害を主張した。

※4:《母と子、分断されて》(1993年)
※4:《母と子、分断されて》(1993年)
※5:《群れから離れて》(1994年)
※5:《群れから離れて》(1994年)

2000-2004年


2000年にハーストの彫刻『賛美歌』(サーチが100万ポンドで購入したという)は、35cmの解剖学玩具を5.5mに巨大化した作品で、サーチ・ギャラリーでの展示『Ant Noises』で最も注目を集める作品となったが、のちに著作権違反で訴えられることになった。ハーストはこの彫刻とよく似た作品を3作制作して販売している。

※6:《賛美歌》1999年
※6:《賛美歌》1999年

2000年9月、ニューヨークでラリー・ガゴシアンはハーストの個展『ダミアン・ハースト:モデル、手段、方法、前提、結果と発見』を開催。12週間で10万人以上の人が会場を訪れ、作品は完売した。

 

2002年9月10日、9月11日のアメリカ同時多発テロの最初の記念日の夜、ハーストはBBCのインタビューに「9.11事件は、この事件そのものがアート作品のように思える。最悪なことだったが、ビジュアル的には衝撃を与える方法だった。」とコメントして顰蹙を買い、次の週に謝罪コメントを発表した。

 

2002年はハーストは妻のマイアから不満でタバコとアルコールをやめる。1995年にグランストバリでジョー・ストラマーと出会い、親友となり、年に一度は家族とともに休暇を楽しんだ。2002年にクリスマス直前、ストラマーは心臓発作で死亡。ハーストは大きなショックを受け「そのときはじめて、人間は死ぬべきもの」と感じたという。ハーストはその後、若手ミュージシャンを支援するために、慈善団体ストラマー財団に多数の創立に多くの時間を費やした。

 

2003年4月に、サーチ・ギャラリーはロンドンのカントリー・ホールに新しい施設をオープンし、ハーストの回顧展を開催したが、サーチとの関係に亀裂を生じさせる結果となった。また、これが原因でテートでの回顧展の企画がぶち壊しにもなった。ハーストは慈善団体のために制作したスポット・ペインティング形式で装飾した軽自動車の作品がアートワークとして展示されていたこと腹をたてたという。

 

ハーストはサーチについて、「サーチはガキだ。私は彼の演奏猿ではない。サーチは自分のマネーによってアートを認識するのみである。彼は購買力こそアートであり、アートに価値を与えると信じている。そして、その事ができるのは自分であると信じている」と話している。

※7:《装飾されたミニ》2003年
※7:《装飾されたミニ》2003年

2003年9月に、ハーストはロンドンのホワイトキューブギャラリーで、個展『不確実性時代のロマンス』を開催。報告によれば個展の制作費用は1100万ポンドだという。

 

6.7メートル、6トンもの巨大彫刻『チャリティ』は1500万ポンドで韓国人コレクターのキム・チャンⅡが購入。ソウルにある彼のギャラリーに展示されることになった。これは1960年代の英国病社会を表現したものだという。

 

『チャリティ』はホワイト・キューブ前にあるホクストン・スクエアの中心に展示された。ギャラリーの一階では、イエスの弟子を表現した12体のガラス彫刻が設置され、各ケースの中にには、そのイエスの弟子にまつわる血染めの道具が設置されていた。展示の最後には、イエス・キリストを象徴した空のビタミンケースが設置されていた。

 

2階には4つの小さなガラスケースが設置されており、それぞれにハサミとナイフが接着された牛の頭がおさめられていた。それはカトリック像の伝統における「並外れた神秘体験」と説明されていた。

 

このときまでにハーストは、サーチから12点の自作を買い戻している。報告によれば買い戻し総額は800万ポンド以上だという。なお、ハーストは1990年初頭に買い戻した作品をサーチに売ったが当時は1万ポンド以下だった。

※8:《チャリティ》2003年
※8:《チャリティ》2003年

2004年5月24日、モマート倉庫の火災事件でサーチコレクションから多くの作品が消失したが、その中にはハーストの作品も多数含まれていた。しかし、彫刻作品の「チャリティ」は建物の外に設置されていたため焼失せずにすんだ。

 

ハーストは2004年後半、チャリティープロジェクト「バンド・エイド2004」で、当初「死神」に焦点を当てたカバーイメージをデザインした。そのイメージは死神の膝の上に腰掛けたアフリカの子どもたちを描いたものだった。しかし、そのデザインはレコード会社から嫌がられたため、雪の中に立つ子どもとトナカイの絵に変更されることになった。

 

2004年12月《生者の心における死の物理的不可能性》は、サーチによるアメリカのコレクターのスティーブ・コーヘンに800万ドルで売却された。ハーストのニューヨークのエージェントであるガゴシアンが仲人を行った。

2005-2009年


2005年3月、ハーストはニューヨークのガゴシアン・ギャラリーで30点の絵画を展示した。これらの作品は完成するのに3年半かかったという。これらの作品はおもにアシスタントを用いて制作されたが、最後の仕上げはハーストが行った。2005年にハーストはアートブック出版社アザー・クライテリアを創設した。

 

2006年2月に、メキシコのヒラリオ・ギャラグレ・ギャラリーで『神の死-愚か者の船にる神なしの生活をよりよく理解する方向へ』を開催。この展示はラテン・アメリカにおけるハーストの初個展として多くのメディアから反響があった。

 

同年6月、ハーストはロンドンのブリタニア・ストリートにあるガゴシアン・ギャラリーでフランシス・ベーコンの作品《Triptych》と並行して展示を開催。ベーコンの3連画から影響を受けた新しいホルムアルデヒド作品《孤独の静寂》のほか、絵画、医療棚、1990年作の《1000年》などを展示した。

※9:《孤独の静寂》2006年
※9:《孤独の静寂》2006年

《1000年》は実際の生命循環を表現した作品である。白いミニマル・ボックスの中で孵化したウジが、ガラス製のビトリン面上に設置された切断された血まみれの牛の頭に群がり食い散らかしているというものである。

 

《1000年》はベーコンが亡くなる一ヶ月前に、ロンドンのサーチ・ギャラリーで作品を鑑賞し、友人に手紙で絶賛する内容を書いて送ったといわれている。

 

マルガリータ・コパックは、《1000年》に関して「ベーコンを示唆した作品のようだ。表現手段において後継人がいない画家が新世代のアーティストにバトンを引き渡しているかのよう」と感想を書いた。ハーストは公然とベーコンからの借りを認めており、画家の内蔵のイメージや強迫観念を早くから吸収し、そうしたものを《1000年》のような立体形式で具体的な形として表現したという。

 

2007年6月、《子守唄の春》でハーストはヨーロッパで活動している現役の美術家で最も高額な作品を制作する作家となった。3メートルの幅の鉄製の枠のキャビネットに6,136錠のピルを設置した作品で、カタールのハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニーが1,920万ドル(約22億円)で購入した。

 

2008年11月、骸骨はアムステルダム国立美術館で展示された。

※10:《子守唄の春》
※10:《子守唄の春》

2007年6月、ロンドンのホワイト・キューブ・ギャラリーでハーストの新作展覧会「信じられない」で開催された。中心となった作品は《神の愛のために》と題されたメメントモリ作品で、人間の骸骨がプラチナでかたどられた作品で、8,601個、合計1,106.18カラットの重量のダイヤモンドで装飾されていた。

 

制作費は約1500万ポンドで売売価格は5000万ポンドだった。18世紀の頭蓋骨をモデルにされたが、歯の部分だけは本物の人間の歯が使われている。

 

2008年12月、ハーストは「デザイナーと芸術家の著作権協会(DACS)」に、16歳のグラフィティ・アーティストのカートレインが制作した頭蓋骨の彫刻作品《神の愛のために》の写真を使った作品と、インターネットを通じた作品販売に対する著作権侵害を申し立てた。ギャラリーの助言でカートレインは作品をDACSに引き渡し、200ポンドの賠償金を支払った。

 

しかし、2009年6月、著作権専門の弁護士のポール・タッカーベリーは2人の作品を比較し、「これは法律的にはおおよそ非訟事件である。ハーストは自問してくみてください。《神の愛のために》でどのぐらい、あなたのオリジナル部分が存在しますか?骸骨の約80%はセカンドイメージです」と話している。

2010-2014年


2012年夏季ロンドンオリンピックの閉会式におけるアリーナの中心的存在となったのは、イギリスとのユニオンフラッグの型はハーストがデザインした。

 

2013年1月、ハーストはスポット・ペンディングとネオ・ポップ様式のブリット・アワード像をデザインした。

 

2014年10月、ハーストはポール・ストールペル・ギャラリーで「統合失調症」というタイトルでカプセル、丸薬、薬を利用した大規模な展覧会を開催した。

2015年から現在


2016年4月、『分析手法』で発表された研究によればハーストが保存した死骸は、テート・モダンの法定限度を超えたホルムアルデヒドガスを漏らしていると報告された。しかし、この研究には欠陥があることが明らかになった。

 

2017年にハーストはピノー・コレクションとの個展を企画し、ヴィネツィア・ビエンナーレではグラッシ館とプンタ・デラ・ドガーナの二箇所で同時開催を行った。

 

個展タイトル「信じられないほどの残骸からの宝物」で、さまざまな宝物を乗せたまま沈没した古代のギリシャ船という設定のもと、古代エジプト風のアイテムやディズニーのキャラクターらが貝殻やサンゴで覆われた状態でインスタレーション形式で展示された。