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【美術解説】マックス・エルンスト「コラージュ技法で知られるシュルレアリスト」

マックス・エルンスト / Max Ernst

魔術的錬金術


マックス・エルンスト《森》(1925年)
マックス・エルンスト《森》(1925年)

概要


生年月日 1891年4月2日
死没月日 1976年4月1日
国籍 ドイツ
ムーブメント ダダイズムシュルレアリスム
表現媒体 画家、版画家、彫刻家、理論家、詩人
代表作

『百頭女』

『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』

『慈善週間』

配偶者 ドロテア・タニング

マックス・エルンスト(1891年4月2日-1976年4月1日)はドイツの画家、彫刻家、グラフィックアーティスト、詩人。ダダおよびシュルレアリスム・ムーブメントの開拓者。ケルン・ダダの創始者。

 

正規の美術教育を受けていないが、1921年にコラージュ作品を発表して大きな影響を与える。コラージュの代表作は『百頭女』カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』といった物語とコラージュを融合させたコラージュ・ロマンシリーズ

 

シュルレアリスム時代には「自動記述」の最初の実験をおこなっている。ほかに、鉛筆による擦過で物体の輪郭を浮かび上がらせる技法であるフロッタージュや、絵具をキャンバスに擦りつけて下に置かれた物体の痕跡を明らかにする類似の技法であるグラッタージュを考案した。

 

第二次世界大戦中は、戦火を避けてニューヨークに亡命し、アンドレ・マッソン、フェルナン・レジェ、ピエト・モンドリアンらとともにのちのアメリカ美術に多大な影響を与えた。

 

画家、彫刻家、詩人として、生涯にわたりシュルレアリスムの深さと多様性を体現。理論家として論文も多数書いて評価を高めた。

この作家のポイント


  • シュルレアリスムのコラージュ作家として評価が高い
  • ダダイズムを先導した芸術家でもありケルン・ダダの創始者
  • 理論家として美術に関する多数の論文を発表した

作品(絵画)


森と鳩
森と鳩
セレべスの象
セレべスの象
ミニマックス・ダダマックス自身が組み立てた小さな機械
ミニマックス・ダダマックス自身が組み立てた小さな機械
都市の全景
都市の全景

森
沈黙の夢
沈黙の夢
カプリコン
カプリコン
ロプロプがロプロプを紹介する
ロプロプがロプロプを紹介する

コラージュ小説


百頭女
百頭女
カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢
カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢
慈善週間
慈善週間

略歴


若齢期


マックス・エルンストは、ケルン近郊のブルーニュで、中流カトリック家庭の9人兄弟の3番目の子どもとして生まれた。

 

父はブリュールで聾唖学校の教師かつアマチュアの画家フィリップ・エルンストで、敬虔なクリスチャンだった。その一方、父フィリップは権威に反発することを好み、自然の中で絵を描いたりスケッチをしていた。父の絵画や自然観察はマックスに強い影響を与えた。

 

1909年にボン大学に入学し、哲学、歴史、文学、心理学、精神医学を学ぶ。精神病院を訪ずれた際に精神病者の絵画に感銘を受け、同年、彼自身も絵を描きはじめる。当時はブリュール城の庭園をスケッチしたり、妹や自分のポートレイトを描いていた。

 

1911年に表現主義のアウゲスト・マッケと知り合い、彼が主催する芸術家集団「ライン表現主義者:のグループ展に参加し、芸術家になることを決意する。

 

1912年にケルンの「ゾンダーブント展」を訪れ、そこでパブロ・ピカソヴィンセント・ヴァン・ゴッホポール・ゴーギャンといった後期印象派の作品に影響を受け、画家になる決意をする。

 

同年、ケルンのギャラリー・フェルドマンで青騎士のグループと展示を行い、1913年には複数のグループ展に参加した。この時期のエルンストは、キュビズムや表現主義のモチーフにグロテスクな要素を並べたアイロニカルな画風を採用した。

 

1914年にケルンでダダイストのハンス・アルプと出会う。二人はすぐに意気投合し、その後、死ぬまでアルプとは交友を続けるようになる。

 

夏に学業を終わらせると、第一次世界大戦が勃発。エルンストは西部戦線と東部戦線の両方に従軍する。西部戦線での短い期間、エルンストは地図の作成に従事し、そのおかげで絵を続けることができた。

 

戦争はエルンストをはじめ芸術家たちに大変な影響を及ぼした。エルンストは「1914年8月1日にマックス・エルンストは死んだ。そして1918年11月11日に復活した」と自叙伝で語っている。フランツ・マルクのような後期印象派の画家の多くが第一次世界大戦で戦死した。

ダダ・シュルレアリスム


1918年に復員してケルンに戻ると、1914年に出会った美術史家専攻

のルイーゼ・シュトラウスと結婚。

 

1919年にミュンヘンでパウル・クレーと出会い、またジョルジュ・デ・キリコに影響を受け、絵画を学び始める。

 

同年、キリコや通信販売カタログ、教材マニュアルなどに影響され、またジョルジョ・デ・キリコに捧げた最初のコラージュ作品『流行は栄えよ、芸術は滅ぶとも』を制作する。この技法は彼の芸術活動の主流となった。

 

1919年には、社会改革者のヨハネス・テオドール・バーゲルドや数人の仲間ととともにケルン・ダダを創設。1919〜20年の間、エルンストとバーゲルドは『Der Strom』や『Die Schammade』といったさまざまなダダ情報誌を発行し、またダダの展示を企画などもした。

 

1920年6月24日、エルンストとルイーゼの間にジミー・エルンストが生まれる。ジミーものちに画家となる。しかしエルンストとルイーズは1921年に離婚。

 

同年、ポール・エリュアールと出会い、生涯の友となる。エリュアールはエルンストの絵画2点(《セレベス》と《オイディプス王》)を購入し、詩集『Répétitions』の挿絵に6点のコラージュを選んだ。その1年後、2人は『不死鳥の悪戯』を出版。

 

さらに1921年に出会ったアンドレ・ブルトンとシュルレアリストたちの情報誌『文学』誌でエルンストが紹介され、注目集めるようになる。

 

1922年、エルンストは必要な書類を入手できずにフランスに不法入国し、妻と息子を残してパリ郊外のサンブリスでポール・エリュアールとその妻のガラ・エリュアール(後のダリの妻)の3人暮らしの住居を構える。

 

パリでの最初に2年間、エルンストはさまざまな仕事に就きながら絵を描いていた。1923年にエリュアールはパリ近郊のエルモンの新しい家に移動すると、そこでエルンストはたくさんの壁画を描く。同年、サロン・デ・アンデパンダンに作品が出品された。

 

エリュアールは当初、ガラとの多重恋愛を認めていたが、その情事に心配になり始める。1924年、エリュアールは不意にモナコに失踪し、次にベトナムのサイゴンに失踪する。

 

エリュアールはガラとエルンストにもサイゴンへ失踪するよう呼びかけ、二人は膨大な数の絵画を売り払い、それを旅費に当てた。エルンストはデュッセルドルフに行き、膨大な数の自作品を、長い付き合いのあったギャラリー「Das Junge Rheinland」のオーナーのヨハンナ・エイに売り払った。

 

サイゴンで合流したあと、3人は話し合い、ガラはエリュアールと婚約状態のままにし、エルンストが離れることに決めた。

 

エリュアールは9月始めにイボンヌに戻り、エルンストは東南アジアを数ヶ月間旅行したあと、1924年の年末にパリに戻り、アートディーラーのジャック・バイオットと絵画売買の契約を交わし、フルタイムの芸術家になる。1925年にエルンストは、トルク通りの22番地にスタジオを建てた。

左からエルンスト、ガラ、エリュアール
左からエルンスト、ガラ、エリュアール

新技法の発明


1925年にエルンストは「フロッタージュ」と呼ばれる手法を発明。物質の上に紙を置いて鉛筆でこすって模様を浮かび上がらせる手法である。

 

また「グラッタージュ」も発明。フロッタージュを応用させたもので、絵具をのせたキャンバスを物質の上に置き、絵具をパレットナイフなどで削り取ることで模様を浮かび上がる手法である。この技法を利用した有名な作品は《森と鳩》である。

 

ほかに、ジョアン・ミロとともにセルゲイ・ディアギレフのバレエのための衣装、装置を制作したり、オスカル・ドミンゲスが発明した2つの面の間に絵の具を押し込む「デカルコマニー」の技法を試みていた。この頃、エルンストはシュルレアリスム仲間とともにアトリエ17でも活動していた。

 

1926年の絵画『聖母は、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、画家の3人の証人の前で幼児イエスを懲らしめる』で多くの論争を巻き起こした。

 

1927年にエルンストは、友人の映画監督ジャン・オーレンシュの妹、マリー=ベルト・オーレンシュと再婚。彼女の関係が《接吻》やほかの作品のエロチックな主題の作品は彼女との関係が影響していると思われる。

 

1929年、最初のコラージュ・ロマンのエルンストの代表作となる『百頭女』を刊行。エルンストの鳥キャラクターのロプロプが現れる。

 

絵の中の鳥はエルスント自身(エゴ)を表しているロプロプとは鳥と人間の初期の混乱から起因する自分自身の延長のもので「分身」あるいは「守護霊」のようなものといっている。

 

エルンストが子どもの頃のある夜、目を覚ますと、エルンストの最愛のオウムのオルネボムが死んでいることが分かり、数分後、父が娘ロニが生まれたと告げたという。エルンストは衝撃を受け、妹が鳥の精気を吸収してこの世に生を受けたと信じ、それ以後鳥のイメージが彼の重要なモチーフとなり、ロプロプの誕生となった。ロプロプは、アンドレ・ブルトンなど他のアーティストの作品のコラージュにもよく登場する。

 

なお、息子のジミーによれば、エルンストがジミーを木馬に乗せて遊んでいたときに「ギャロップ、ギャロップ」とはやしたのを聞き、ジミーが木馬を「ロプロプ」を叫ぶようになったのが、この名前の由来だという。

 

ルイス・ブニュエルの1930年の映画『黄金時代』に出演する。1934年には彫刻を作り始め、アルベルト・ジャコメッティと親交を深めた。

 

1938年にアメリカ人のアートコレクターのペギー・グッゲンハイムはエルンストの作品を大量に購入。彼女はロンドンの自分のギャラリーでそれらを展示。エルンストとペギー・グッゲンハイムはのち1942年から1946年まで結婚生活を送った。

マックス・エルンスト《百頭女》
マックス・エルンスト《百頭女》
マックス・エルンストのフロッタージュ作品《光の輪》,(1926年)
マックス・エルンストのフロッタージュ作品《光の輪》,(1926年)
マックス・エルンストのフロッタージュ作品《都市の全景》(1934年)
マックス・エルンストのフロッタージュ作品《都市の全景》(1934年)
マックス・エルンストのグラッタージュ作品《森と鳩》,(1927年)
マックス・エルンストのグラッタージュ作品《森と鳩》,(1927年)

第二次世界大戦と晩年


1939年9月、第二次世界大戦が勃発するとドイツ人だったエルンストは「敵対的外国人」として、パリに移住したばかりのシュルレアリストのハンス・ベルメールとともにエクス・アン・プロヴァンスの近くに、キャンプ・デ・ミルズに抑留された。

 

エルンストは、恋人でありシュルレアリスムの画家でもあったレオノーラ・キャリントンと暮らしていたが、彼が戻ってくるかどうかわからないため、家を売って借金を返し、スペインへ旅立つしかなかった。

 

ポール・エリュアールやジャーナリストのバリアン・フライなど、ほかの友人の仲介で、エルンストは数週間後に解放された。

 

しかし、ナチスがフランスに侵入するやいなや、今度はゲシュタポによってエルンストは再逮捕される。ナチスの「退廃芸術」に相当するのが理由だった。

 

グッゲンハイムやフライなどの力を借りて、エルンストはアメリカへ亡命することができた。エルンストは愛人であるレオノーラ・キャリントンを置き去りにし、彼女は精神的錯乱状態に陥った。

 

エルンストとグッゲンハイムは1941年にアメリカへ移住すると翌年結婚した。マルセル・デュシャンマルク・シャガールなどの多くのほかのヨーロッパのアーティストが戦禍を逃れてニューヨークに移り住むことになり、エルンストはアメリカ抽象表現の発展に影響を与えた。

 

その後、エルンストはグッゲンハイムと離婚して、ドロテア・タニングと恋愛を始め、1946年10月にカリフォルニア州のビバリーヒルズでマン・レイとジュリエット・ブラウナーたちと合同結婚式を挙げた。

 

1946年から1953年までアリゾナ州セドナに住んだ二人は、高い砂漠の風景にインスピレーションを受け、エルンストの以前のイメージを思い起こさせた。

 

セドナは人里離れた場所にあり、400人足らずの牧場主、果樹園労働者、商人、小さなネイティブアメリカンのコミュニティが住んでいたにもかかわらず、彼らの存在は、後にアメリカの芸術家コロニーとなるものの始まりとなった

 

記念碑的な赤い岩の中に、エルンストはブリューワー・ロードに小さなコテージを自分の手で建て、タニングとともにアンリ・カルティエ=ブレッソンやイヴ・タンギーといった知識人やヨーロッパのアーティストを家へ招いた。

 

1948年からエルンストは絵画以外に美術論文も書き始める。エルンストは、セドナ滞在中に『絵画を越えて』を編集し、また、彫刻の傑作『カプリコン』を完成させた。この本とその宣伝の結果、エルンストは経済的な成功を収め始める。 

 

1953年にエルンストとタニングは南フランスの小さな町に移住し、そこで仕事を続けた。

 

1966年にチェスセットを制作し、それに「Immorte」と名づけた。1976年4月1日、パリでエルンストは死去。84歳だった。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。

マックス・エルンスト編集《絵画を越えて》
マックス・エルンスト編集《絵画を越えて》
彫刻《カプリコン》とドロテア・タニングとマックス・エルンスト
彫刻《カプリコン》とドロテア・タニングとマックス・エルンスト

遺産


エルンストの息子で、ドイツとアメリカの抽象表現主義の画家として知られ、ロングアイランドの南岸に住んでいたジミー・エルンストは、1984年に死去した。彼の回顧録『A Not-So-Still Life』は死の直前に出版された。

 

マックス・エルンストの孫息子エリックと孫娘エイミーは、ともに芸術家であり作家でもある。

 

マックス・エルンストの生涯とキャリアは、1991年にピーター・シャモーニが制作したドキュメンタリー映画『マックス・エルンスト』で検証されている。

 

美術史家のヴェルナー・スピースに捧げられたこの作品は、エルンストへのインタビュー、彼の絵画や彫刻のスチール写真、妻のドロテア・タニングと息子のジミーの回想録から構成されている。101分のドイツ映画で、英語字幕付きでイメージエンターテインメント社からDVDで発売された。

 

2005年にはマックス・エルンスト美術館が、彼の故郷であるドイツ・ブリュールで開館した。

 

1844年に建てられた後期古典主義様式の建物と、現代的なガラス張りのパビリオンが一体となった建物で、歴史的なボールルームは、かつてエルンストが若い頃に訪れた人気の社交場だった。

 

この美術館では絵画、ドローイング、フロッタージュ、コラージュ、リトグラフのほぼ全作品、70点以上のブロンズ彫刻など、彼の70年にわたるキャリアを網羅するコレクションを展示しているほか、マン・レイ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、リー・ミラーなどによる700点以上の資料や写真なども保存されている。

 

コレクションの中心は、1969年に作家からブリュール市に寄贈された作品にさかのぼる。

 

4番目の妻ドロシア・タニングに贈った36点の絵画が、ケルン市立美術館から常設貸与されている。代表的な作品に、彫刻作品《王が女王と遊ぶ》(1944年)、《殺人者学校の教師》(1967年)などがある。

 

テキサス州ヒューストンにあるメニル・コレクションは、マックス・エルンストの100点を超える作品を含むシュルレアリスム美術の重要なコレクションを所蔵している。

 

代表的な絵画には、《自由への賛歌》(1926年)、《Loplop Presents Loplop》(1930年)、《昼と夜》(1941-1942年)、《シュルレアリスムと絵画》(1942年)、《ユークリッド》(1945年)、《パレ・ド・ジャスティスに蜂の群れ》(1960年)、《天と地のマリッジ》(1964年)等がありる。

 

メニル・コレクションにおけるエルンストの作品は、通常、コレクションのほかのシュルレアリスム芸術と一緒に数点ずつ持ち回りで展示されている。

マックス・エルンスト美術館、ブリュール、ドイツ
マックス・エルンスト美術館、ブリュール、ドイツ

A4版


略年譜


■1891年

・4月2日、午前9時45分、ケルン郊外ブリュールに生まれる。聾唖学校の教師であった父フィリップはアマチュアの画家で、熱心なカトリック信者だった。

 

■1894年

・父が初めてマックスを森へ連れていく。そのときの森の魅惑と恐怖は強い印象を刻みこむ。

 

■1896年

・父が幼児イエスとしてのマックスの肖像を描く。

 

■1897年

・1歳年上の姉マリアが死去。麻疹にかかっていたため、天井の木目で「鳥の頭」や「眼玉」などの幻覚を見る。

 

■1898年

・自作の絵に合わせて庭の樹を切った父に対し、反発を覚える。

 

■1906年

・1月5日、飼っていた桃色インコのホルネボムが死ぬ。同時に妹ロニが誕生して、激しいショックを受ける

 

■1910年

・ボン大学文学部哲学科に入学。哲学、心理学、美術史を学ぶ。

 

■1911年

・アウグスト・マッケと知り合う。

 

■1912年

・ケルンで開催された現代美術の展覧会「ゾンダーブント展」を見て、画家になる決意をする。

 

■1913年

・マッケの仲人でロベール・ドローネー、ギョーム・アポリネールと知り合う。

・マッケが主催した「ライン表現主義者展」に出品。

 

・ヘルヴァルト・ヴァルデンが主催した「第一回ドイツ秋季サロン展」に出品。

 

■1914年

・ケルンで開催された「ドイツ工作連盟展」に際し、ハンス・アルプと知り合う。

 

・砲兵隊員として第一次世界大戦に従軍。

 

■1916年

 ・ベルリンのシュトゥルム画廊でゲオルク・ムッへと2人展。

 

■1917年

・エッセイ「色彩の生成について」が『シュトゥルム』誌に掲載される。

 

■1918年

・10月7日、ボン大学での元同級生で美術史家のルイーゼ・シュトラウスと結婚。

 

■1919年

・ヨハネス・テオドール・バールゲルトとともにケルン・ダダを創設。

・ミュンヘンで『ヴァローリ・プラスティチ』誌に掲載されていたジョルジオ・デ・キリコの作品に影響を受ける。

 

・コラージュによる最初の作品を制作。

 

■1920年

・6月24日、息子ハンス=ウルリヒ誕生。

 

・最初の「ファタガガ」コラージュ(鳥と人の合成イメージ)をハンス・アルプと制作。

 

■1921年

・パリのオ・サン・パレイユ画廊でコラージュ展を開催。

 

・ケルンでポールとガラのエリュアール夫妻の訪問を受ける。

 

■1922年

・エルンストはルイーゼとジミーを残し、不法入国によりパリに移住する。

 

■1923年

・オーボンヌのエリュアール邸に同居し壁画を描く。

 

■1924年

・3月、エリュアールが失踪。

・4ヶ月後、エルスントとガラはインドシナのサイゴンでエリュアールと再会する。

 

・エリュアール夫妻のもとから去る。

 

■1925年

・「フロッタージュ」の技法による最初の作品を制作。

 

・「第一回シュルレアリスム絵画展」に出品。

 

■1926年

・ルイーゼと離婚。

 

■1927年

・映画監督ジャン・オーレンシュの妹、マリー=ベルト・オーレンシュと結婚。

 

■1928年

・「グラッタージュ」の技法により「貝/花」の主題に基づく作品群を制作。

 

エルンストの分身・守護霊である怪鳥「ロプロプ」が現れる最初の作品が制作される。

 

■1929年

・最初のコラージュロマン『百頭女』刊行。ロプロプが主要なキャラクターとして登場する。

 

■1930年

・画中画形式の「ロプロプが○○を紹介する」のシリーズが描かれ始める。

・ルイス・ブニュエルの映画「黄金時代」に出演する。

 

・第二のコラージュロマン『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』刊行。

 

■1931年

 ・アメリカでの最初の個展がニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊で開催。

 

■1933年

・イギリスでの最初の個展がロンドンのメイヤー画廊で開催。

 

■1934年

・第3のコラージュ・ロマン『慈善週間または七大元素』刊行。

・チューリヒ美術館で開催された「シュルレアリスムとは何か」展に参加。カタログに序文を寄稿する。

・チューリヒでジェイムズ・ジョイスに会う。

 

・彫刻の制作に取り組み始める。

 

■1935年

・アルベルト・ジャコメッティを訪問。

 

■1936年

・マリー・ベルトと離婚。

 

■1937年

・『カイエ・ダール』誌のマックス・エルンスト特集号が刊行される。テキスト「絵画の彼岸」を収録。

・ミュンヘンで開催された「頽廃芸術展」で『美しき女庭師』が展示される。

・レオノーラ・キャリントンと出会う。

 

・デカルコマニーに取り組む。

 

■1938年

・シュルレアリスムグループから離れ、レオノーラ・キャリントンとともに南フランスのサン=マルタン・ダルデシュに移り住む。

 

■1939年

・第二次世界大戦の開始に伴い、「敵対的外国人」として収容される。エリュアールなどの力でいったん釈放される。

 

■1940年

・再度の収容。キャリントンはスペインへ逃れる。  

 

■1941年

・ペギー・グッゲンハイムの援助により亡命。7月14日にニューヨークに到着。12月にペギーと結婚。

 

■1942年

・ブルトンと雑誌『VVV』を刊行。

・「シュルレアリスムの帰化申請書展」に出品。

・「オシレーション」技法による最初の作品を制作。

 

・ドロテア・タニングと知り合う。

 

■1943年

 ・ペギーと離婚。エルンストとドロテアはアリゾナ州のセドナで夏を過ごす。

 

■1946年

・セドナに移り住む。

 

・ドロテアと結婚。

 

■1948年

・アメリカ市民権を得る。

 

■1950年

・ヨーロッパに一時的に戻る。10月、アメリカ帰国。

 

■1951年

 ・生誕60年を記念し、故郷ブリュールのアウグストゥスブルク城で大規模な回顧展。

 

■1953年

・ヨーロッパに最終的に帰還する。

 

・パリにアトリエを借りる。

 

■1954年

 ・「第27回ヴェネツィア・ビエンナーレ」で絵画部門の大賞を受賞。

 

■1955年

 ・フランス中西部、シノン近郊のユイメに移る。

 

■1958年

・フランス市民権を得る。

 

■1963年

 ・南フランスセイアンに移る。

 

■1968年

・ドロテアと協同設計でセイアンに新居を建てる。

 

■1970年

・テュービンゲンのヘルダーリン塔を訪れる。

 

■1975年

 ・カタログ・レゾネの刊行が開始される。

 

■1976年

・4月1日、85歳の誕生日の前夜、パリ自宅で死去。

<参考文献>

Wikipedia

・マックス・エルンスト展 西武美術館 図録

・マックス・エルンスト展 横浜美術館 図録

A4版


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