レオノーラ・カリントン

レオノーラ・カリントン / Leonora Carrington


概要


レオノーラ・カリントン(1917年4月6日-2011年5月25日)は、イギリス生まれのメキシコ人画家、小説家。1930年代のシュルレアリスム・ムーブメントにおいて活躍した女流シュルレアリスト。


感受性ゆたかに幻想的な妖精世界をくりひろげる彼女の作品は、生来シュルレアリスムの要求に合致しているものだろう。ロンドンからパリに出てマックス・エルンストの妻となったが、第二次大戦中にドイツ人だったエルンストと別離を強いられたあと、精神喪失に陥りスペインの精神病院へ。その後、メキシコへ移住し、その後人生の大半をメキシコシティで過ごす。


略歴


幼少期


カリントンは、イギリス・ランカシャー・チョーリーのクレイトン・ル・ウッズの裕福な織物業者の家庭で生まれた。母親はアイルランド・ウエストミースの医師の娘で、同じ家系に小説家のマリア・エッジワースがいる。カリントンには、ほかに三人の男兄弟(パトリック、ジェラルド、アーサー)がいた。


幼少期は、反抗的な行動をとっていたため2つの学校から退学処分を受け、家庭教師、チューター、修道女としての教育を受ける。その後、家族によってフィレンツェのミス・ペンローズの寄宿学校に留学させられ、そこで美術教育を学ぶ。彼女の父は美術家になることに反対したが、母が奨励をした。


また、パリのフィニシング・スクールを経て、ロンドンに戻る。1935年にチェルシー美術学校で一年間過ごし、父の知り合いのアイヴァン・チャマイエフの助けを借りて、ロンドンのアカデミー・アメデ・オザンファンに通う。このころ、オルダス・ハックスレーの小説や錬金術に関する本を読み漁る。


1927年、10歳のとき、彼女は初めてシュルレアリスム絵画をレフトバンクギャラリーで見て、ポール・エリュアールをはじめ多くのシュルレアリスト達を知るようになる。カリントンは、母から与えられたハーバート・リードの『シュルレアリスム』(1936年)を読み込み、シュルレアリスムに関して深く勉強するようになる。


テート・モダンのキュレイターであるマシュー·ゲイルによると、シュルレアリスムの詩人でシュルレアリスム絵画のパトロンだったエドワード・ジェームズがイギリス時代のカリントンの作品を最も所有していたという。ジェームズは多くの彼女の作品を所蔵し、1947年にニューヨークのピエール・マティス・ギャラリーで開催された彼女の個展で、所有していた彼女の作品を展示。その中のいくつかの作品は、西ディーンのウエストディーンカレッジにある、彼のかつのて家族の家に保管されているとか。



マックス・エルンスト


1936年にロンドンで開催された国際シュルレアリスム展でマックス・エルンストの作品に遭遇し、多大な影響を受ける。1937年にカリントンはロンドンで開催されたパーティーでエルンストに会う。2人は一緒にパリに戻り、そこでエルンストはすぐに妻と別れた。このときエルンストは46歳、キャリントンは20歳だった。

 

1938年にパリを去り、彼らは南フランスのサン・マルタン・ダルディッシュで暮らし、2人はコラボレーションをしながらお互い芸術を発展させていった。2人のコラボレート作品で有名なものとしては、サン・マルタン・ダルディッシュの自宅のオブジェとして制作されたガーディン・アニマルズが有名である。


第二次世界大戦が勃発すると、ドイツ人だったエルンストはフランス当局から敵対的外国人として逮捕されたが、ポール・エリュアールやほかの親友、そしてアメリカ人ジャーナリストのバリアン・フライなどの助けを借りて、エルンストは数週間で保釈された。


しかし、ナチスがフランスに侵入するやいなや、今度はゲシュタポによってエルンストは再逮捕される。ナチスの「退廃芸術」に相当するのが理由だった。エルンストは、カリントンをそのままにしてコレクターだったペギー・グッゲンハイムの助けを借りて、アメリカへ逃亡する計画を立ててる。


1940年、エルンストがミルの収容所に抑留されたことで、カリントンは酷い神経症を患う。カリントンはスペインへ逃亡するが、マドリードにある米国大使館で不安と被害妄想が最高潮に達して、彼女は精神喪失に陥った。錯乱のあまり「ヒトラーを殺す」とわめきちらすようになり、家族のはからいでスペインの病院に入院。電気痙攣療法、てんかん薬、抗鬱剤などを処方されたという。


その間、エルスントはペギー・グッゲンハイムの助けを借りてヨーロッパから脱出し、エルンストは1941年に結婚。その後、数年でグッゲンハイムと離婚するが、エルンストとカリントンの関係が修復することはなかった。



メキシコ時代


1941年にカリントンは、メキシコ人外交官レナト・レドックの助けを借りて、ヨーロッパを脱出してニューヨークに渡る。その後、レドックと再婚。


ブルトンらが発行したシュルレアリスム雑誌『VVV』にドローイングや、戦時経験や精神科医院の入院経験を綴った小説『はるか下方に』を発表するようになる。


また神秘主義に夢中になり、夢想や物語や魔術的な運命を共有。彼女たちにとって精神の変革への道は女性の変革への道でもあると考えて、1950年代の初期にはチベットのタントラと禅宗(鈴木大拙とも交流が)に傾倒。グルジェフ一派に属するようになったりもした。その後、1960年代に一時ニューヨークに滞在したあと、彼女はメキシコで生活し、作品を制作し続けた。


メキシコにいる間、彼女は1960年に、メキシコ国立現代美術館で回顧展を開催。1963年には『マヤ族の不思議な世界』と呼ばれる壁画制作を、メキシコ国立人類学博物館から依頼された。それは彼女が住んでいた場所に伝わるマヤ族の話に関する壁画だった。


2011年6月25日、メキシコシティの病院で94歳で死去。死因は肺炎だった。