73.ペギー・グッゲンハイム「グッゲンハイム・ジェンヌ」

ペギー・グッゲンハイム / Peggy Guggenheim

グッゲンハイム・コレクション


概要


ペギー・グッゲンハイム(1898年8月26日-1979年12月23日)はアメリカのユダヤ系のアートコレクター、ボヘミアン、ソーシャライト。ニューヨークの富豪グッゲンハイム家の娘として生まれた彼女は、その財力をもって、1938年から1946年の間にヨーロッパやアメリカの重要な美術作品を収集し、1949年に集めたコレクションを展示するためにヴェニスに「ペギー・グッゲンハイム・コレクション」を設立し、そこで彼女は死ぬまで過ごした。


 

略歴


●文化的令嬢

ペギーの両親はアシュケナージ系ユダヤ人だった。母のFlorette Seligman(1870-1937)は富豪セリグマンファミリー出身。ペギーが1919年に21歳になったとき、250万ドル、今日の通貨に換算すると約3370万ドル(34億円)の遺産を受け継いだ。父のベンジャミン・グッゲンハイムはタイタニック号沈没事件で巻き込まれて死去した。

 

ペギーは、最初『The Sunwise Turn』という前衛的な美術の本を扱う本屋で働いていた。そこで彼女はボヘミアン・アーティスト(伝統や習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている者。ノマドみたいなもの。)のコミュニティーのメンバーとなかよくなった。

 

1920年に彼女はパリに移住し、モンパルナス地区の貧困地域に多く住んでいた前衛アーティストたちと親交を深めた。そこには、彼女を撮影したことで知られるマン・レイやコンスタンティン・ブランクーシやマルセル・デュシャンなど、のちに彼女が支援したアーティストがたくさん集まっていた。

 

また、ペギーは女流作家のナタリー·クリフォード·バーニーやロメイン・ブルックスと親友になり、バーニーのサロンに出入りする常連客となった。このときに芸術家のデューナ・バーンズと出会い彼女の友だちとなりまたパトロンとなった。

●美術の師デュシャンとの出会い

1938年1月、ペギーはロンドンに近代美術の画廊を開いた。その画廊の最初の展示ではジャン・コクトーのドローイングが陳列され、また芸術家の作品のコレクションを始めた。第二次世界大戦後、彼女はこのギャラリーを中心に可能な限りの抽象画家やシュルレアリストの作品を収集し続けた。この「グッゲンハイム・ジュンヌ」と名づけられた最初のギャラリー名は、彼女がよく通っていたパリの「バーンハイム・ジュンヌ」からとられたものである。多くの友人がギャラリー運営のための助言を与えてくれたため、事業は成功した。

 

最初の夫であるローレンス·ベイルとパリに住んでいた1920年初頭からの知り合いで、現代美術の師と仰いでいたマルセル・デュシャンはペギーを美術の世界へうまく紹介した。ペギーがパリにいる間、多くの芸術家と交流ができたのは実はデュシャンが間に入っていた点は忘れてはいけない。デュシャンはペギーに現代美術の知識やスタイルを教え、グッゲンハイム・ジュンヌのさまざまな展示企画を助けた。その後、デュシャンがアメリカで生活をする際には、ペギーがデュシャンのパトロンとなって生活を支えた

 

コクトーの展示のあとには、ガンディスキー、イヴ・タンギー、ヴォルフガング・パーレンといったよく知られたアーティストからほとんど知られていないアーティストまでさまざまな展示が行われた。ペギー・グッゲンハイムはまた、アントワーヌ・ペヴスナー、ヘンリー・ムーア、アレクサンダー・カルダー、レイモンド・デュシャン・ビヨン(デュシャンの兄)、コンスタンティン・ブランクーシ。ジャン・アルプ、マックス・エルスント、パブロ・ピカソ、ジョージ・ブランケ、クルト・シュヴィッタースといった近現代の芸術家たちの彫刻やコラージュを中心としたグループ展を開いた。

 
ただ、ペギー・グッゲンハイムのギャラリーは好評を博したものの、初年度で600ポンドの赤字を出したことに気づき、彼女はよりギャラリービジネスに対してシビアになることにした。