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【美術解説】ジョアン・ミロ「抽象絵画と具象絵画のあいだ」

ジョアン・ミロ / Joan Miró

抽象絵画と具象絵画のあいだ


概要


生年月日 1893年4月20日
死没月日 1983年12月25日(90歳)
国籍 スペイン
表現媒体 絵画、彫刻、陶芸、壁画
ムーブメント シュルレアリスムダダイズム
配偶者 ピラール・ジュンコサ・イグレシアス

ジョアン・ミロ・イ・ファラー(1893年4月20日-1983年12月25日)はスペイン・バルセロナ出身の画家、彫刻家、陶芸家。具象と抽象のあいだを表現するような独特な画風が知られる。

 

一般的にはミロ作品は、オートマティスム系のシュルレアリスム作家と解釈されており、無意識を利用した子どものような自由にドローイングや故郷カタルーニャの世界観を表現しているという。また、ミロはブルジョア社会を支える方法として、従来の伝統的な絵画技法に批判的な態度を示し「絵画の暗殺」を宣言する。

 

1975年に故郷バルセロナに設立されたジョン・ミロ財団美術館や1981年にパルマ・デ・マヨルカに設立されたマヨルカ島のジョアン・ミロ財団美術館に作品が多数所蔵されている。


略歴


若齢期


ジョアン・ミロは、カタルーニャのゴシック地区の時計の金細工職人の家庭で生まれた。父はミクラル・ミロ・アドジーリアスで母ドラーズ・フェーラ。

 

ミロは7歳で絵を描き始め、1907年にラ・ロンハ・デ・ラ・セダ美術学校に入学。ミロは最初のうちは美術学校だけでなくビジネススクールにも通っていた。ミロは18歳から簿記係として働き始めていたが、神経衰弱とチフスに苦しみ、その後は完全にビジネスの世界を捨てて芸術方面へ移行した。故郷の農園モンロッチ・ダル・カムで療養した後、絵を描き始める。

 

初期作品は、バルセロナで開催されていたヴィンセント・ヴァン・ゴッホやポール・セザンヌ、フォーヴィスムやキュビスムの展示会に影響が色濃かった。ミロ作品とアヴァンギャルド中間世代の作品との類似性から、多くの学者はこの頃のミロを「カタルーニャ・フォーヴィスム時代」と位置づけている。

 

1918年にダルマウ・ギャラリーで初個展を開催するも、当時、ミロの作品は嘲笑された。数年後、ミロはパリへ移動し、そこで多くの絵を描き始めた。ただ、夏にはカタルーニャに戻り、モンロッチ・ダル・カムの農園で家族とともに過ごした。カタルーニャとパリを往復しているときのミロの姿は1921年から22年かけて制作した『農園』で見事に反映されている。この頃から、ミロはより個人的で土着的な方向の絵画スタイルが移行し始めた。

 

ミロはこの絵を売るべく、いくつかの画商を訪ねて回ったが、買い手はなかなか見つからなかった。ある画商からは、絵を切り刻みバラ売りすることを真顔で勧められる始末だった。最終的に『農園』は、ミロの親しいボクシング仲間だったヘミングウェイが買い上げた

 

ヘミングウェイはこの絵を絶賛し、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』と芸術的な類似性を比較し、次のように語った。

 

「この絵は、スペインにいるときに感じているすべての要素が内包されており、その一方でスペインを離れて、故郷に戻れないときに感じるものすべてがある。誰もほかに、こんなに相反した二つのものを同時に描きえた画家はいない。(ヘミングウェイ)」

「農園」(1921-1922年)
「農園」(1921-1922年)

ミロは実際にモンロチに戻り、象徴主義や土着色の強い作品を作りつづけた。『カタルーニャの風景』や『耕作地』はミロのシュルレアリスムの初期作品で、次の10年のミロの芸術の核となる記号言語を使い始めている。

「カタルーニャの風景」(1923年)
「カタルーニャの風景」(1923年)
「耕作地」(1923年)
「耕作地」(1923年)

シュルレアリスム時代


1924年に、ミロはシュルレアリスムグループに参加。記号的で詩的で自然的で、また矛盾性や二重性に満ちたミロの夢のような作品群は、シュルレアリストたちから夢のようなオートマティスムとして扱われる。

 

ミロはこれまで作品を定義していた焦点を欠き、混沌としたものになりはじめ、またコラージュの絵画制作の中にそれを導入し始める。この伝統的な絵画制作を拒絶し始めて作り上げられた作品に対して、ミロ自身は1924年にミロの友人で詩人のミシェル・レリスへの手紙の中に"X"として曖昧に解説している。この時代に制作された作品群は、最終的に、『ミロの夢絵画』と呼ばれるようになった。

 

ミロは主題を放棄はしなかった。シュルレアリスムのオートマティスムを利用しているにも関わらず、作品の多くはきちんとした絵画制作プロセスを経ていることが、事前のスケッチ画から分かる。

 

夢の時代におけるミロの作品は、ほとんどオブジェクトが描かれず、象徴的で言語的である。この時代は1924年から1925年に制作された『カタルーニャ農民の頭』が代表的な作品である。

 

1926年にはマックス・エルンストとコラボレーションを行い、ロシア・バレエ団の『ロミオとジュリエット』の舞台装置を手掛ける。また、ミロの助けを借りてエルンストはグラッタージュという表現手法を発明した。

『カタルーニャ農民の頭』(1924-1925)
『カタルーニャ農民の頭』(1924-1925)

「オランダの室内」シリーズ


1928年になると、それまでの『ミロの夢の絵画』の時代は終わり、『オランダの室内』シリーズが始まる。シュルレアリスムを一端離れて、初期の多彩な表現様式に戻り始める

 

この頃、ミロはベルギーとオランダを2週間旅行し、現地の美術館で見たオランダ絵画に影響を受けているといわれる。特にヘンドリック・マーテンズズーン・ソローやヤン・ステーンらの作品からの影響が見られる。

 

1929年、36歳でピラール・ジュンコサと結婚、パリからスペインへ帰る。翌年には娘のドロレスが生まれる。

 

ニューヨークでピエール・マティスが画廊を開くと、その画廊はアメリカにおける近代美術運動の影響力を持つようになる。マティスはミロを積極的に画廊で紹介し、アメリカの美術市場でミロの作品がよく売れるようになり、また展示されるようになった。

 

スペイン市民戦争が勃発するまで、ミロは毎年夏にスペインに戻っていたが、戦争が始まると戻ることができなくなる。ミロの同時代のシュルレアリストの多くが、政治活動に身を投じるなか、ミロは政治的な世界から距離を取り、また作品にも政治色が現れないよう静かに制作することを好むようになる。ミロの作品にはカタルーニャの土着色が見られるけれども、それは政治的な意味あいではなかった。

 

1937年のパリ万国博覧会におけるスペイン共和国ブースで、ミロは政府から壁画制作の依頼を受け『刈り入れ』を制作。このときまでミロは非政治的スタンスだったが、パリ万国博覧会を機に、共和制への同情を示すようになる。『刈り入れ』は母国スペインの内戦への抗議を意図して制作された。博覧会が終了すると、スペイン政府にミロは作品を寄贈するが、作品は輸送中に消失、または破壊されてしまったという。

『オランダの室内』(1929年)
『オランダの室内』(1929年)

「星座」シリーズ


1939年、フランスにドイツ軍が迫るとノルマンディーのヴァレンジュヴィルへ転居、翌年の1940年5月にドイツ軍はフランスに侵入。ミロはヴィシー政権支配の期間、スペインに退避。

 

1940年から1941年にかけてヴァレンジュヴィル、パルマ島、モンロチ間を移動しながら、20〜30の『星座』シリーズを制作する。星座シリーズでは、天体を象徴したモチーフが中心にあり、人や月や星などがまるで幼児が描いたようなちりばめて描かれている。

 

シュルレアリスム時代のオートマティスムとそれまでの土着的で記号的で詩的なミロの画風が融合した時期で、ミロ作品の中で最も人気の高いシリーズである。特にアンドレ・ブルトンが『星座』シリーズを賞賛し、17年後に、ミロの『星座』シリーズから影響を受けた詩のシリーズを作っている。悲惨な第二次大戦の中、真逆に清澄な天上世界を描き出した『星座』を、アンドレ・ブルトンは「芸術面でのレジスタンス」と評した。またミロの孫であるジョアン・プニェットは次のように語っている。

 

「『星座』は重要な転機でした。この連作には宇宙に向けた力が感じられます。この連作は身近な戦争、虐殺、無意味な蛮行からの脱出口です。『星座』はこう言っているようです。私にとってこの世界的悲劇からの救済は、私を天へと導く魂だけである」と。

 

また『星座』シリーズでは、女性、鳥、月などの主題に多く焦点がおかれており、それらは後のミロの芸術人生の大半に描かれるものである。

『女性との恋における記号と星座』(1941年)
『女性との恋における記号と星座』(1941年)

晩年


瀧口修造は1940年にミロの最初の研究論文を発表。1948−49年にミロはバルセロナに住みながら、定期的にパリに訪れてムルロ・スタジオやアトリエ・ラカーライアで版画を制作。特にフェルナンド・ムルロとの仲は深く、1000以上の版画作品を制作した。

 

1959年にアンドレ・ブルトンは、サルバドール・ダリやエンリケ・タバラ、ユニジオ・グラネルらとスペインで『シュルレアリスムへの敬意』という展覧会への出品を要請。またサン=ポール=ド=ヴァンスのマー具材大美術館の庭園展示用にミロは彫刻や陶芸を制作、1964年に完成。

 

1974年にミロはカタルーニャの芸術家ジョセフ・ロヨとともにニューヨークの世界貿易センターのタペストリーを制作。1974年からロビーに飾られていたが、2001年の同時多発テロで消失した。

 

1977年にミロとロヨは、アメリカのワシントンにあるナショナルギャラリーで個展を開催したタペストリーを展示。1981年にシカゴ市のための彫刻『シカゴ・ミロ』を制作。シカゴのループ地区の屋外に設置されており、すぐ近くにはピカソが制作した『シカゴ・ピカソ』が設置されている。

 

1979年にミロはバルセロナ大学から名誉学位を授与。1983年12月25日、アトリエのあるパルマで心臓発作による老衰のため死去した。

世界貿易センターのタペストリー
世界貿易センターのタペストリー
『シカゴ・ミロ』
『シカゴ・ミロ』

A4版


年譜表


■1893年

4月20日午前9時、バルセロナのクレディト街にて、ジョアン・ミロ・フェッラとして生まれる。父ミケル・ミロ・アゼリアス(金細工師、時計製造者)、母ドロレス・フェッラ(パルマ・デ・マヨルカの高級家具製造者の娘)の長男。

 

■1897年(4歳)

5月2日、バルセロナにてジョアン・ミロの妹ドロレス生まれる。

 

■1900年(7歳)

レゴミール通り13番地の小学校に入学。シビルという名の教師にドローイングを学ぶ。この年から、夏をコルヌデリャ(タラゴナの地方)の父方の祖父母あるいはマヨルカの母方の祖母と過ごし始める。

 

■1907年(14歳)

中学校卒業。商業学校に通う。同時にラ・ロンハの著名な美術学校に通い、同校で、風景画家ムデスト・ウルヘイ・インラーダ及び装飾美術の教授だったジュゼップ・パスコ・メリサの指導を受ける。

 

■1910年(17歳)

ダルマウ・オリベラス商会の簿記係として就職。モンロチに両親が農場を購入。

 

■1911年(18歳)

腸チフスに続き軽度の神経障害に羅患、これにより父は、ミロにはビジネスマンは無理だと確信する。療養のためモンロチに退く。

 

■1912年(19歳)

4月20日-5月10日、バルセロナのダルマウ画廊でキュビストの展覧会が開催され、影響を受ける。

フランセスク・ガリの学校に登録。触感にもとづいて素描する訓練を行う。

 

■1913年(20歳)

聖ルカ美術サークルに入会し、ドローイングを学ぶ。

 

■1914年(21歳)

バハ・デ・サン・ペドロにリカルトと共同アトリエを借りる。12月、腸チフス療養のため、カルデタスに向かう。

 

■1915年(22歳)

バルセロナで兵役につく。

 

■1916年(23歳)

画商ジュゼップ・ダルマウに出会う。

 

■1917年(24歳)

ダルマウを通じて、バルセロナで『391』誌を出版していたピカビアと出会う。

4月23日-6月1日、バルセロナにおいて、アンボワーズ・ヴォラールによって組織されていたと思われるフランス美術の展覧会が開催され、深い感銘を受ける。同展には、モーリス・ドニ、ドガ・ボナール、ロジェ・ド・ラ・プレナイエ、フリエ、マティス、モネ、ルドン、シニャック、ヴュイヤール、カリエール、セザンヌ、クールベ、ドーミエ、ゴーギャン、マネ、スーラ、シスレー、トゥルーズ=ロートレックなどの作品が出品。

 

■1918年(25歳)

ダルマウ画廊で最初の個展を開催。

 

■1920年(27歳)

パリへ最初の旅行。ピカソと交友を結ぶ。この年よりミロは毎年夏をモンロチで、冬をパリで過ごす。パリではブロメ通りのアンドレ・マッソンのアトリエの隣にスム。トリスタン・ツァラと出会う。

 

■1921年(28歳)

パリでの最初の個展(ラ・リコルヌ画廊)。不成功に終わる。

 

■1924年(31歳)

ルイ・アラゴン、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアールと親交を結び、シュルレアリスムグループに参加。

 

■1925年(32歳)

ミロの夢絵画の時代が始まり、1927年まで続く。

 

■1926年(33歳)

・ロシア・バレエ団の「ロミオとジュリエット」のための舞台装置をマックス・エルンストとともにてがける。

 

■1928年(35歳)

・ジョルジュ・ベルネーム画廊で、ピエール・ロブ企画による個展を開催、41作品を出品し、すべての作品が売り切れる。

 

・5月、ベルギーとオランダに2週間の旅行をし、同地の美術館を訪問、オランダ絵画に影響を受ける。

 

■1929年(36歳)

・ピエール・ロブの企画による個展を、ブリュッセルのラ・サントゥール画廊で開催。

・ピラール・ジュンコサと結婚。

 

■1930年(37歳)

・ピエール画廊で2つの個展を開催し、『オランダの室内』のシリーズと近作を展示。

・長女ドロレス誕生。

・ニューヨークのヴァランタイン画廊で、アメリカでの最初の個展を開催。

・ピエール・マティスと出会う。

 

■1931年(38歳)

・ピエール画廊で個展。

 

■1932年(39歳)

バルセロナに居住しながら、パリを往復。

 

■1937年

パリ万国博覧会スペイン共和国館のために壁画大作『刈り入れ人』を制作。

 

■1939年

ヴァランジュヴィル=シュル=メールに居を構える。

 

■1940年

『星座』シリーズ開始。

 

■1942年

バルセロナに住む。1944年まで、『女・星・鳥』のテーマをめぐり、紙のみ使って、水彩、グワッシュ、パステル、素描を大量に描く。

 

■1944年

ジョゼップ・リョレンス・アルティガスと最初の陶器を共同制作。『バルセロナ』のリトグラフを連作。

 

■1947年

初めてアメリカを訪ねる。シンシナティのテラス・ヒルトン・ホテルのために映画を制作。ニューヨーク、ピエール・マティス画廊で絵画と陶器の個展。

 

■1948年

マーグ画廊で個展。以後制作されたものはすべて同画廊で扱われることになる。

 

■1949年

ベルンとバーゼルのクンストハレで回顧展。1949年から1950年にかけ、「のろまな」絵画と「自在な」絵画の2つの連作を平行して描く。

 

■1950年

マーグ画廊で絵画と彫刻の個展。ハーヴァード大学から依頼された学士会館のための壁画の大作。

 

■1953年

陶器の連作を開始。ジョゼップ・リョレンス・アルティガスと、その息子ジョアン・ガルディ=アルティガスとの絵画制作によって1956年完成。ジョアン・ガルディアルティガスは以後も彼らとともに働く。

 

■1954年

ヴィネツィア・ビエンナーレの国際版画大賞を受賞。

 

■1955年(62歳)

アルティガスとガルディ=アルティガスとの共同制作による陶芸に没頭。この時期に200点以上の作品。花瓶、皿をはじめとし、とくに陶製の彫刻が制作されることになる。

 

■1956年(63歳)

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで、ついでアムステルダム市立美術館、バーゼルのクンストハレで絵画の大回顧展。

マーグ画廊で、引き続きニューヨークのピエール・マティス画廊で展示。

 

■1976年(83歳)

・ミロ財団が会館。ミロ自身が寄贈した475点のドローイング展覧会が開催される。

 

■1977年(84歳)

・セレの現代美術館で個展を開催

 

■1978年(85歳)

・パルマで回顧展が開催される。

・パリの国立近代美術館でで「ミロの素描」が開催され、同展にあわせて、ミロが舞台装置と衣装を手がけた劇「Mori el Merma」が上演される。

・パリ市立近代美術館で回顧展「100点の彫刻、1962-68」展が開催される。

・パリのラ・デファンスに合成樹脂の記念彫刻を制作。

 

■1979年(86歳)

・東京の西武美術館で彫刻展が開催される。

・マーグ財団で回顧展開催。

 

■1980年(87歳)

・メキシコシティの近代美術館で回顧展。

 

■1982年(89歳)

・テキサスのヒューストン美術館で「アメリカにおけるミロ」展が開催される。ヒューストンの記念彫刻「人物と鳥」が初公開される。

・バルセロナのジョアン・ミロ財団で回顧展が開催される。

 

■1983年(90歳)

・バルセロナのジョアン・ミロ財団で1920年代の絵画による「ジョアン・ミロ:Anys20」展が開催される。

・12月25日、パルマ・デ・マヨルカの自宅で死去。

 

■参考資料

Joan Miró - Wikipedia


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