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【美術解説】ルイス・ブニュエル「ダリとともに前衛映画を制作」

ルイス・ブニュエル / Luis Buñuel

映画と詩を融合させたシュルレアリスト


ルイス・ブニュエル サルバドール・ダリ「アンダルシアの犬」
ルイス・ブニュエル サルバドール・ダリ「アンダルシアの犬」

概要


生年月日 1900年2月22日
死没月日 1983年7月29日
国籍 スペイン、メキシコ
表現媒体 映像
ムーブメント シュルレアリスム

ルイス・ブニュエル・ポルトレス(1900年2月22日-1983年7月29日)は、スペイン系メキシコ人の映画監督。フランス、メキシコ、スペインで活動し、多くの映画評論家、歴史家、映画監督から、偉大で影響力の高い映画作家と評価されている。

 

ブニュエルが亡くなった際、「ニューヨーク・タイムズ」は、「象徴破壊者、モラリスト、革命家。若い頃は前衛的なシュルレアリスムムのリーダーとして、半世紀後には国際的な映画監督として君臨した」と報道した。

 

サイレント時代に製作された処女作『アンダルシアの犬』は、今でも世界中で定期的に新しい世代に影響を与えている。

 

48年後に製作された遺作『欲望のオブジェ』は、全米審査委員会と全米映画評論家協会より監督賞を受賞している。

 

作家のオクタビオ・パスはブニュエルの作品を「映画イメージと詩的イメージの結婚、新しい現実の創造...スキャンダラスで破壊的な」と述べた。

 

1920年代のシュルレアリスム運動と結びついたブニュエルは、1920年代から1970年代にかけて映画を制作した。ヨーロッパと北米、フランス語とスペイン語で活動したブニュエルは、様々なジャンルの映画を監督した。

 

このような幅広い活動にもかかわらず、映画監督のジョン・ヒューストンは「ジャンルに関係なく、ブニュエル映画は一目で彼の作品とわかるほど特徴的である」と述べ、またイングマール・ベルイマンは「ブニュエルはほとんどいつもブニュエル映画を撮っている」と評価した。

 

ブニュエルの映画のうち7本は、Sight & Soundの2012年の批評家による史上最高の250映画にランクインしている。

作品解説


アンダルシアの犬
アンダルシアの犬

略歴


幼少期


ルイス・ブニュエルは1900年2月22日、スペインのアラゴン地方の小さな集落、カランダで生まれた。

 

父のレオナルドは14歳でカランダを離れ、キューバのハバナで金物屋を創業して財を成し、43歳で故郷に帰ってきた。

 

レオナルドはカランダで唯一の宿屋の娘、マリア・ポルトレス・セレズエラと18歳のときに結婚した。

 

ブニュエル家は、ルイスを長男として、アルフォンソ、レオナルドの2人の弟と、4人の妹から構成されていた。

 

ルイスがまだ幼い頃、一家はサラゴサに移り住み、裕福な生活を送るようになった。その後、ブニュエルは7歳から7年間、私立エレジオ・デル・サルバドルでイエズス会の厳しい教育を受けた。

 

期末試験の前に試験監督に罵倒されたブニュエルは、授業に出なくなった。ブニュエルは母親に退学したと告げたが、事実ではなく、世界史の試験で最高の点数を取っていたという。高校の最後の2年間は、近くの州立学校に入学し、16歳で卒業した。

 

子供の頃のブニュエルは、映画マニアであった。当時の友人たちは、ブニュエルがマジックランタンとベッドシーツを使ってスクリーンに影を作っていたと話している。ボクシングやバイオリンも得意だった。

 

ブニュエルは幼少の頃、毎日の礼拝に参加し、何度も聖体拝領に参加するなど、強い信仰心を抱いていた。それでも16歳になると、教会の理不尽な思想や独裁的な姿勢、財力に愛想をつかし、教会を切り離した。

 

917年にはマドリード大学に入学し、農学と工学を専攻した後、哲学に転向した。。

 

レジデンシア・デ・エストゥディアンテスに所属していた画家サルバドール・ダリや詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカらスペインを代表する芸術家と親交を深め、3人は「27世代」として知られるスペインのシュルレアリスムの核を形成していくことになる。

 

ブニュエルはガルシア・ロルカを特に気に入り、自伝で次のように書いている。「すぐにお互いを好きになった。私はアラゴンの田舎者で、彼はアンダルシアの上品な人だった......ほとんど共通点がないように見えたが、ほとんどの時間を一緒に過ごした。夕方になると、レジデンシアの裏の芝生に座って(当時は地平線まで続く広大な土地があった)、彼が詩を読んでくれるんです。彼はゆっくりと美しく読み、私は彼を通してまったく新しい世界を発見し始めたのです」。

 

ブニュエルとダリの関係は、ダリとロルカが親密になっていくことへの嫉妬と、ダリが先に芸術家として完成していたことに対する不満から、やや微妙なものであった。

 

ブニュエルは、フリッツ・ラングの『狂気の死』を観て大きな衝撃を受け、スクリーンを真の表現手段として応用することを決意する。

 

「私はビューコロンビエ(劇場)から出て人が変わった。映像は私にとって真の表現手段となり得るものであり、実際にそうなったのです。そして映画に専念することにした」。

 

72歳になっても、80歳のラングにサインを求めるなど、情熱を燃やした。

初期フランス時代(1925-1930)


1925年、ブニュエルはパリに移り住み、国際知的協力協会の事務局員となる。また、毎日何本も映画を見るなど、映画・演劇界に身を投じた。

 

その後、ピアニストのリカルド・ヴィーニュに見出され、1926年にマヌエル・デ・ファリャのからくり人形劇「エル・レタブロ・デ・マエス・ペドロ」のオランダデビューの際に芸術監督に任命された。

 

映画界への参入を熱望していた彼は、ジャン・エプスタインらが主宰する私立映画学校に入学する。この頃、エプスタインはフランスで最も有名な商業監督の一人であり、その業績は印象派の発展、また近代運動の勝利とみなされていた。

 

ブニュエルはエプスタインの下で『モープラット』(1926)と『アッシャー家の殺人』(1928)の助監督を務め、有名な芸能人ジョセフィン・ベイカーが出演する『熱帯のシレーヌ』(1927)ではマリオ・ナルパスの助手を務めた。

 

また、ジャック・フェイデル監督の『カルメン』(1926年)では、密輸業者役で短編映画に出演している。

 

ブニュエルが、当時映画『ナポレオン』の製作に携わっていたエプスタインの師アベル・ガンスに協力するよう求めたのを嘲笑的に拒否すると、エプスタインは「お前のようなクソガキがガンスのような偉大な監督についてよくもそんなことが言えるもんだ」と怒り、さらに「むしろシュルレアリストみたいだね、シュルレアリストには気をつけろ、彼らは頭がおかしいのだ」と言い放った。

 

エプスタインとの関係を絶った後、ブニュエルは『ラ・ガセタ・リテラリア』(1927年)と『レ・カイエ・ダール』(1928年)で映画評論家として活躍する。

 

「L'Amic de les Arts」誌や「La gaseta de les Arts」誌でダリとともに映画や演劇に関する連載記事「コール&レスポンス」を続け、分割、デクパージュ、挿入ショット、リズム編集などの技術問題について議論している。

 

また、著名な作家ラモン・ゴメス・デ・ラ・セルナと共同で、自身の初監督作品となる「6つのシーンからなる物語」(Los caprichos)の脚本を執筆した。

 

「ラ・ガセタ・リテラリア」を通じて、マドリード初のシネクラブ設立に協力し、初代会長を務めた。

アンダルシアの犬(1929年)


エプスタインに弟子入りした後、ブニュエルはサルバドール・ダリとともに16分の短編『アンダルシアの犬』を撮影・監督する。

 

ブニュエルの母親が出資したこの作品は、女性の眼球が剃刀で切り裂かれるところから始まる、フロイト的な性質の驚くべき映像の数々で構成されている。

 

『アンダルシアの犬』は、当時急成長していたフランスのシュルレアリズム運動によって熱狂的に受け入れられ、現在でも映画協会で定期的に上映されている。評論家のロジャー・エバートによって「史上最も有名なショートフィルム」と評価された。

 

脚本はカダケスのダリの家で6日間かけて書かれた。1929年2月に宛てた友人への手紙で、ブニュエルはその執筆過程を説明している。「私たちは筋書きを探さなければならなかった。ダリは私に、『昨夜、手の中に蟻が群がっている夢を見た』と言い、私は『やれやれ、誰かの目を切り裂く夢を見たよ。それこそ映画だ。さあ、映画を作ろう』と答えた。

 

何事も偶然に任せることはなく、すべての美的判断は合理的な説明を持ち、ストーリーに適合するよう制作していたジャン・エプスタインとその同僚らの映画製作とは対照的に、ブニュエルとダリは、劇中内における論理的な関連性を排除することを重要視した。

 

ブニュエルはこう言っている。「私たちの唯一のルールは非常にシンプルで、合理的な説明がつくようなアイデアやイメージは一切認めないというものだった。私たちは非合理的なものに対してすべての扉を開き、私たちを驚かせたイメージだけを、その理由を説明せず劇中に組み込む必要があった」。

 

ブニュエルが若かりし頃に自称していた芸術的前衛を憤慨させるためのもので、後にこう語っている。

 

「歴史的に見れば、この映画は当時芸術的な感性と観客の理性だけを狙ったものだった「前衛」と呼ばれていたものに対する暴力的な反動を表している」。

 

彼の期待に反して、この映画は彼が侮辱したかったまさにその観客の間で人気を博した。初演後、詩人のアンドレ・ブルトンが率いるシュルレアリストの緊密な共同体にブニュエルとダリが正式に入会することが認められた。

スペイン内戦時代


1930年代初頭のスペインは、政治的、社会的に激動の時代であった。

 

反教会的感情の高まりと、極右とその支持者たちによる教会の汚職や不正に対する長年の報復願望から、アナキストと急進社会主義者はマドリードの君主制本部を略奪し、首都の10以上の教会を焼き払うなどして破壊を続けた。

 

同様の革命的行為はスペイン南部と東部の多くの都市で起こったが、ほとんどの場合、共和国当局の黙認と、ときには援助があった。

 

ブニュエルの後妻ジャンヌ・ルカールは、この時期、「彼は政治と内戦前のスペインに溢れていた思想にとても興奮した」と回想している。1931年にスペイン共産党に入党したが、後年、共産主義者になったことは否定している。

 

1932年、ブニュエルは、マルセル・グリオール率いるフランス初の大規模な人類学的野外調査団「ダカール-ジブチ作戦」のドキュメンタリー映画制作に招かれ、新しい「人類博物館」のために約3,500点のアフリカの遺物を発掘することになる。

 

モーリス・ルジャンドルの『Las Jurdes: étude de géographie humaine』(1927)という学術書を読んだブニュエルは、スペインで最も貧しい州の一つであるエストレマドゥーラ州の農民の生活に焦点を当てた映画を作ることに決めた。

 

『ラス・フルデス』(1933)と名付けられたこの映画は、労働者階級のアナーキストの友人であるラモン・アシンが宝くじで当てた2万ペセタの予算で作られたものである。

 

この映画でブニュエルは、悲惨な社会状況のシーンに、よそよそしい声のアナウンサーが語る旅行記のようなナレーションを合わせ、サウンドトラックにはブラームスの不適切な音楽が轟き渡る。

 

『ラス・フルデス』は、スペイン第二共和国、そしてフランコ独裁政権によって上映禁止となった。この映画は、観客を当惑させ続け、映画史家によって簡単に分類されることを拒んでいる。

 

『ラス・フルデス』はモキュメンタリーの最初の例のひとつと呼ばれ、「シュルレアリスム・ドキュメンタリー」とラベル付けされている。

 

この用語は評論家のメルセ・イバルスによって「音の多層的で無気味な使用、報道、旅行記、新しい教育方法から学んだ物語形式の並置、大衆向けの現代のプロパガンダの基礎として理解される写真や映画のドキュメントの破壊的使用」と定義されている。

 

キャサリン・ラッセルは、『ラス・フルデス』において、ブニュエルは自らの政治哲学とシュルレアリスムの美学を調和させることができ、シュルレアリスムは「陳腐な正統派になる危険のあるマルクス主義的唯物論を目覚めさせる手段」になったと述べている。

スペイン内戦(1936-1939)の間、ブニュエルは共和国政府の意向を受けた。務大臣は彼をまずジュネーブに(1936年9月)、次にパリに(1936-38)2年間送り、共和党のプロパガンダ映画のカタログ作成の公式責任を担った。

 

ブニュエルは目録作りのほかに、左翼の小冊子をスペインに持ち込み、時にはスパイ活動を行い、ボディガードを務め、フランスでは『España 1936』、スペインでは『Espana leal, ¡en armas!』という、選挙、パレード、暴動、戦争を取り上げたドキュメンタリー映画の制作を監修している。

 

1936年8月、フェデリコ・ガルシア・ロルカは国民党の民兵に射殺された。息子のフアン・ルイスによれば、ブニュエルはロルカについてほとんど語らなかったが、生涯を通じてこの詩人の早すぎる死を悼んでいた。

 

ブニュエルは、共和国の映画宣伝の調整役として実質的に機能していた。つまり、彼は国内で撮影されたすべての映画を検証し、どのシークエンスを発展させて海外に配給するかを決定する立場にあったのである。

 

スペイン大使は、ブニュエルがハリウッドで製作中のスペイン内戦を扱った映画について技術的な助言をするためにハリウッドを再訪することを提案した。そこで1938年に、古い後援者であるノアイユ家から得た資金で家族とともにアメリカに渡航することになる。

 

しかし、アメリカに到着するとほぼ同時に戦争が終結し、アメリカ映画製作配給協会はスペインの紛争を題材にした映画の製作を中止する。

 

ブニュエルの妻によれば、ファシストが政権を掌握していたためスペインに戻ることは不可能であり、ブニュエルは「アメリカの自然さと社交性に絶大な魅力を感じた」と述べ、無期限のアメリカ滞在を決意する。

 

●参考文献

Luis Buñuel - Wikipedia


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