ディエゴ・リベラ

ディエゴ・リベラ / Diego Rivera

メキシコ壁画運動


概要


ディエゴ・リベラ(1886年12月8日1−1957年11月24日)はメキシコの画家。フリーダ・カーロの夫。リベラの最も大きなフレスコ画は、メキシコにおけるメキシコ壁画運動創設の起爆剤となった。


1922年から1953年の間に、リベラはメキシコシティ、チャピンゴ、クエルナバカ、サンフランシスコ、デトロイト、ニューヨークで壁画制作を行う。1931年に回顧展がニューヨーク近代美術館で開催された。

略歴


リベラはメキシコのグアナファト州の裕福な家庭、母マリア・デル・ピラール・バリエントスと父ディエゴ・リベラ・アコスタの息子として生まれた。

 

ディエゴにはカルロスという双子の兄がいたが、彼らは生まれて2年後に亡くなった。リベラは追放や迫害を逃れるためにカトリックへの改宗を余儀なくされたユダヤ人を祖先に持つと言われており、リベラ自身の言葉によれば、1935年に出版した著作で「私の中のユダヤ性は、人生の中で抑圧的な要素だった」と述べている。


リベラは3歳のときにドローイングを描き始める。幼いころから壁に落描きすることが好きだったので、両親は壁への落描きを罰するよりも、むしろ壁に黒板とキャンバスを設置して、リベラの絵の才能を伸ばすことにした。


1896年、10歳の時にサン・カルロス美術学校に入学。その後奨学金を得て1907年よりスペイン・パリなどで絵画を学び、パリのモンパルナスに住みアメデオ・モディリアーニやモイズ・キスリングなどエコール・ド・パリの若手作家たちと交友を深めた。一方、この頃にキュビズムに強い影響を受け画壇で注目されるようになった。


大人になってリベラは、1911年にアンジェリーナ・ベルノフと結婚する。2人の間には息子ディエゴが生まれたものの2歳でなくなった。またリベラは、1918年に愛人のマリア・ボロービーフ・ステバルスカとの間にマリカという娘をもうけている。


最初の妻と離婚したあと、リベラの2番目の妻ゴダルプ・マリンとの間にルースとゴダルプの2人の娘をもうけた。また、ちょうどこの頃に女生徒だった15歳のフリーダ・カーロと出会い、1929年、リベラが42歳でカーロが22歳のときに彼らは結婚した。リベラの浮気性とドメスティック・バイオレンスのために1939年にいったん離婚したが、1940年にサンフランシスコで彼らは再婚する。なお、リベラは1955年にカーロが死去して、一年後に、1946年以来のリベラのエージェントでもあったエマ・ウルタドと結婚した。漁色家で知られ、多くの女性画家と交際し多くの子供を残したが、いずれの子にも養育費などの責任を負わなかったとされている。 


1920年、メキシコに民衆のための芸術を興すというダヴィッド・アルファロ・シケイロスの誘いに賛同してパリを離れ、イタリアを旅して壁画を研究し、その後、メキシコ壁画運動の中心的人物となる。テンペラ画によって、メキシコの民族的な伝統と社会主義的な文脈を組み合わせた壁画を公共建築などに多く描いた。


また、この時期メキシコ共産党に入党し、教会や聖職者を攻撃したが、その激しい性格とレオン・トロツキーの思想への関心などから多くの敵対者を生んだ。リベラは無神論者だった。彼の壁画「アラメダの日曜日の夢」には、イグナシオ·ラミレスからの引用文「神は存在しない」という碑文が書かれており、騒動を引き起こしたが、リベラはこの碑文を除去することを拒否。そのためこの作品は9年間、リベラが除去することを同意するまで公開することができなかった。リベラは「「神は存在しない」ということを断言するため、私はイグナシオ・ラミレスを隠れみのする必要はなかった。私は無神論者で、私は宗教は集団性ノイローズであるとみなしている」と話している。